Music: none

新薬師寺へ











この建物は赤穂神社の隣にあり、大きな構えである。実は春日大社の職員宿舎であった。



松ちゃんは何を見てるのかな? 「あの柿旨そうやな」かな。

		
		<新薬師寺>

		新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または
		聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。
		奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多
		くの文化財を伝えている。



		
		新薬師寺は奈良時代(8世紀)創建の官立寺院であることは間違いないが、創建の正確な時期や事情については正史に記載がな
		い。平安時代末期成立の『東大寺要録』には、末寺である新薬師寺についての記載があり、同書の巻第一・本願章には「天平
		19年(747年)、光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。
		また、同書巻第六・末寺章によれば、新薬師寺は別名を香薬寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったという。
		天平宝字6年3月1日(762年3月30日)の「造東大寺司告朔解」(こくさくげ)という文書(正倉院文書)によると、当時「造香
		山薬師寺所」という臨時の役所が存在し、香山薬師寺(新薬師寺の別名)の造営がまだ続いていたことがわかる。



		
		新薬師寺の「新」は「あらたかな」という意味で、薬師寺に対して「あたらしい」薬師寺という意味ではない。仏に捧(ささ)
		げた祈りが叶う、という意味が込められた言葉なのである。本尊・薬師如来のふっくらとした手の指の隙間に見える水かき、
		「マンモウソウ」は、我々を一人残らず救い上げるためにあるそうだ。薬師如来の顔をよく見ると、朱色に塗られた唇、黒く描
		かれた眉毛や髭、大きな眼差、くっきりとした顔立ちなどは、敦煌で見た壁画の仏の顔にどこか似ており、エキゾチックで神秘
		的である。仏像がシルクロードを渡ってきたことを再確認させてくれる。



クリックで拡大。





クリックで拡大。



国宝の新薬師寺本堂。薬師如来も十二神将もこのなかにある。

		
		薬師如来を取り囲む十二神将は、1200年にわたって薬師如来を守り続けてきた。躍動感溢れる十二神将と、存在感ある薬師
		如来。この本堂の中の空間は、永遠の時が具現された空間でもある。仏、神、世界、そして自分について思考するための小宇宙
		でもあるのだ。









	新薬師寺		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	山号 日輪山 
	宗派 華厳宗 
	本尊 薬師如来像(国宝) 
	創建年 8世紀中期 
	開基 光明皇后 
	札所等 西国薬師四十九霊場六番 
	文化財 本堂、十二神将像(国宝)南門、地蔵堂ほか(重要文化財) 

	本堂新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良市高畑福井町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后
	または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。奈良時代には南都
	十大寺の一つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝え
	ている。

	<創建>
	奈良市街地の南東方、春日大社の二の鳥居の南方に位置する。最盛期には4町(約440メートル)四方の寺地を有し、現在の奈良
	教育大学のキャンパスあたりまでが新薬師寺の境内地であった。なお、寺名の「新」は「あたらしい」ではなく、「霊験あらた
	かな」の意味だという。
	新薬師寺は奈良時代から存在する寺院であることは間違いないが、草創については諸説ある。『東大寺要録』によれば、光明皇
	后が夫聖武天皇の病気平癒を祈願して天平19年(747)に建立し、七仏薬師像を安置したとされる。なお、この時の聖武天
	皇の病気は大したものではなかったようで、むしろその2年前の天平17年(745)の天皇の病気(『続日本紀』に記事があ
	る)平癒のために発願されたとする見方もある。また、別の伝承では、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年
	(745)に建立したともいう。
	また、新薬師寺の東方、春日山の山中にはやはり光明皇后の発願になる香山堂(こうぜんどう)または香山薬師寺と呼ばれる寺
	院が存在したことが記録や発掘調査から知られている。この香山堂が新薬師寺の前身で、後に山麓の新薬師寺と合併したともい
	う。香山堂については、1966年の発掘で佐保川の水源地付近の尾根上に寺院跡が確認され、東大寺大仏造立にさかのぼる時
	期の瓦が出土している。天平勝宝8年(756)の記がある「東大寺山堺四至図」(とうだいじさんかいしいしず、正倉院宝物)
	という絵図には「新薬師寺」と「香山堂」の両方が明記されており、この頃には両寺が並存していたことが明らかである。

	2008年、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査が行われ、同大学構内で新薬師寺金堂跡とみられる大型建物跡が検出され
	た。同年10月23日の奈良教育大学の発表によると、検出された建物跡は基壇の規模が正面54メートル、奥行27mと推定され、
	基壇を構成していたと思われる板状の凝灰岩や、柱の礎石を支えていたとみられる、石を敷き詰めた遺構などが出土した。当地
	は現・新薬師寺の西約150mに位置し、上述の「東大寺山堺四至図」にある新薬師寺の七仏薬師堂に相当する建物跡と推定さ
	れている。

	<衰退と復興>
	創建時の新薬師寺は金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。『続日本紀』によれば宝亀
	11年(780)の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。また、『日本紀略』『東大寺要録』によれば、応和
	2年(962)台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはなかった。現在の本堂
	は奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したものである。本尊の薬師如来像も様式・技法上、創建時までは
	さかのぼらず、8世紀末頃の制作と見られている。
	治承4年(1180)の平重衡の兵火で、東大寺、興福寺は主要伽藍を焼失したが、新薬師寺は焼け残った。鎌倉時代には華厳
	宗中興の祖である明恵(みょうえ)が一時入寺し、復興に努めた。現存する本堂以外の主要建物は鎌倉時代のものである。

	<伽藍>
	本堂本堂(国宝)−入母屋造、本瓦葺きで低平な印象の堂である。正面は柱間7間のうち中央3間を戸口とし、その左右各2間
	には窓を設けず白壁を大きく見せた意匠とする。側面、背面も戸口のみで窓は設けていない。内部は土間で、天井を張らず、垂
	木などの構造材をそのまま見せる「化粧屋根裏」となっている。堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来
	像を安置、これを囲んで十二神将像が外向きに立つ。この建物は創建当初の金堂ではなく、他の建物を転用したものではあるが
	(食堂であったという説がある)、遺構の少ない奈良時代の建造物として貴重である。その他、鎌倉時代に建てられた南門、東
	門、地蔵堂、鐘楼(各重文)がある。萩の寺としても知られている。 




	<重要文化財>
 	地蔵堂南門 - 鎌倉時代 
	東門 - 鎌倉時代 
	鐘楼 - 鎌倉時代 
	地蔵堂 - 鎌倉時代、おたま地蔵尊安置 
	銅造薬師如来立像 −通称「香薬師」と呼ばれる奈良時代の金銅仏だが、1943年に盗難に遭って行方不明。写真と模造でしか見
			 ることはできない。 
	木造不動明王二童子像−平安時代。奈良国立博物館に寄託。 
	木造十一面観音立像−平安時代。奈良国立博物館に寄託。かつて本尊薬師如来像の左右に「日光・月光菩薩像」として安置され
			 ていた2躯の観音像のうちの1躯。 
	絹本着色仏涅槃像 − 平安時代末〜鎌倉時代。東京国立博物館に寄託。 
	銅鐘(梵鐘) 
	銅手錫杖 

	<新薬師寺旧蔵の重要文化財>
	木造十一面観音立像−かつて本尊薬師如来像の左右に「日光・月光菩薩像」として安置されていた2躯の観音像のうちの1躯。
	現在は奈良国立博物館蔵。 
	木造准胝観音(伝・千手観音)立像−第二次世界大戦後、寺を離れ個人蔵(奈良国立博物館寄託)となっている。 








	薬師如来	国宝 平安時代 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	薬師如来 (やくしにょらい)、梵名バイシャジヤ・グル([bhaiSajya-guru])は、大乗仏教における如来の一尊。
	薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)、または大医王仏とも称する。三昧耶形は薬壷または丸薬の入った鉢。種子(種字)
	は尊名のイニシャルのバイ(bhai)。

	薬師如来が説かれている代表的な経典は、玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経(薬師経)」と義浄訳の「薬師瑠璃光七佛本願功徳
	経(七仏薬師経)」がある。薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門に
	おける衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめ
	んと誓い仏と成ったと説かれる。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如
	来には珍しく現世利益信仰を集める。
	顕教系の如来であり、日本の真言宗(真言密教)では本来あまり重視されない。雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多いが、
	純密の両界曼荼羅には居場所は無い。しかし伝統的に天皇家と結びつきが強かった天台宗(天台密教)では、薬師如来が東方浄瑠
	璃世界の教主であることから、東の国の王たる天皇と結び付けられもした。また東方の如来という事から阿?如来とも同一視され
	る。さらに胎蔵大日如来と同体とする説があるが、これには天台密教において、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如
	来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による。

	像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例で
	ある。ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないも
	のも多い。これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。単独像と
	して祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十二神将像を
	ともに安置することが多い。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。これは七仏薬師
	(後述)といって薬師如来とその化身仏とされる。薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」
	に由来すると考えられている。国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としている。

	義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経(七仏薬師経)」や達磨笈多訳「薬師如来本願経」では、薬師如来を主体とした七尊の仏の本
	願と仏国土が説かれる。天台密教では、円仁から始まったとされる七仏薬師法が息災・安産をもたらすとして重要視され、8−9世
	紀には藤原摂関家で同法による安産祈願が行われた。

		善名称吉祥王如来(ぜんみょうしょうきちじょうおうにょらい) 
		宝月智厳光音自在王如来(ほうげつちごんこうおんじざいおうにょらい ) 
		金色宝光妙行成就王如来 (こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおうにょらい ) 
		無憂最勝吉祥王如来 (むうさいしょうきちじょうおうにょらい ) 
		法海雲雷音如来 (ほうかいうんらいおんにょらい ) 
		法海勝慧遊戯神通如来 (ほうかいしょうえゆげじんつうにょらい ) 
		薬師瑠璃光如来 (やくしるりこうにょらい ) 

	現世利益的信仰が有力な日本においては、薬師如来は病気平癒などを祈願しての造像例が多い。極楽往生を約束する仏である阿弥
	陀如来とともに、日本においてはもっとも信仰されてきた如来である。奈良・法隆寺金堂の薬師如来坐像は光背に推古天皇15年
	(607年)の銘があるが、銘文中の用語や像自体の鋳造技法等から、実際の制作は7世紀後半と言われている。また、現世利益を司
	る数少ない如来である事から、延暦寺、神護寺、東寺、寛永寺のような典型的な(国家護持の祈りを担う)密教寺院においても薬師
	如来を本尊とするところが多い。

	<日本における著名な薬師如来像>(作例多数につき、国宝指定像のほか、仏教彫刻史上著名な作例を挙げるにとどめる)

		福島・勝常寺像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代前期、国宝) 
		京都・仁和寺(旧北院)像(坐像、平安時代、国宝) 
		京都・神護寺像(立像、平安時代初期、国宝) 
		京都・醍醐寺(上醍醐)薬師堂像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代前期、国宝) 
		大阪・獅子窟寺像(坐像、平安時代前期、国宝) 
		奈良・法隆寺金堂像(坐像、飛鳥〜奈良時代、国宝) 
		奈良・法隆寺講堂像(薬師三尊の中尊、坐像、平安時代中期、国宝) 
		奈良・唐招提寺金堂像(立像、奈良時代〜平安時代初期、国宝) 
		奈良・薬師寺像(薬師三尊の中尊、坐像、奈良時代、国宝) 
		奈良・新薬師寺像(坐像、平安時代初期、国宝) 
		奈良国立博物館像(坐像、平安時代前期、国宝) 
		奈良・元興寺(奈良市芝新屋町)像(立像、平安時代前期、国宝) 
		岐阜・願興寺(岐阜県御嵩町)木造(坐像、鎌倉時代前期、国指定重文) 

	徳川時代、初代将軍徳川家康が神格化され、神君と呼ばれるようになった。僧天海などの働きもあり、朝廷より、「東照大権現」の
	名が下され、東照宮に祭祀された。ここで、東照権現信仰が始まる。この信仰では、徳川家康は薬師如来の仮の姿が日本に現れたも
	のとし、神仏習合の形をとり神社神道形式で祭祀を行う。
	また、徳川家康は生母於大の方が鳳来寺(愛知県新城市)の本尊の薬師如来に祈願して誕生したと言われ、徳川家康は鳳来寺(愛知
	県新城市)の本尊の薬師如来が人間界に現れたものとも言われる。

	<薬師如来の真言> 薬師如来の真言は、以下の通り。
	小咒
		台密 オン ビセイゼイビセイゼイ ビセイジャ サンボリギャテイ ソワカ 
		東密 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ(Aum Huru Huru caNDaali maataGgi svaahaa)
	大咒
		ノウモ バギャバテイ バイセイジャ クロ ベイルリヤ ハラバ アラジャヤ タタギャタヤ アラカテイ サンミャク
		サンボダヤ タニヤタ オン バイセイゼイ バイセイゼイ サンボリギャテイ ソワカ
		(Namo Bhagavate Bhaisajya Guru Vaidurya Prabha Rajaya Tathagataya Arhate Samyaksambodhaya Tadyatha Aum 
		 Bhais-ajye-bhaisajye Bhaisajyasamudgate Svaha)

	<脚注・出典>
	・「薬師」とは、外科が存在しなかった中世以前には、現代の医師に対応する言葉であった。徒然草の第117段で吉田兼好は、「良
	 き友三つあり。一つにはものくるる友、二つにはくすし(=薬師)、三つには智慧ある友」と述べている。 
	・これは無能勝明王(ハヤグリーヴァ)の真言と合致する。 
	・小咒に対する独自の考察:薬師如来の小咒は原始的なインド、ないしアジアの風習を感じさせる意味合いをもつ。この小咒を訳す
	 と「オーム (聖音)、取り払え、チャンダーリーよ、マータンギーよ、スヴァーハー(成就祈願)」となる。「取り払え」とは疫病
	 を取り除くこと、チャンダーリーとマータンギーは屠殺を生業とする一族の女性名だが、本来は彼らインドの下層民族の崇めた女
	 神の名でもある。「スヴァーハー」は、本来は祭火に投じる供物の意味。後に神格化されて火神アグニの妻とされ、供物を捧げて
	 願いの成就を祈願する際の掛け声となった。 チャンダーリーやマータンギーは、汚穢の民の崇める女神として、上層階級からは
	 蔑視あるいは危険視されていた。しかし敢えてそんな女神に祈る事で、彼女たちの司る疫病などの災いから逃れられると考えられ
	 たのである。疫病をもたらす荒神に呪文をとなえて逃れるという点は、日本における「蘇民将来」と似た性質をもっている。 
	・薬師本願功徳経に説かれている。 


	新薬師寺の「新」は「あらたかな」という意味で、薬師寺に対して「あたらしい」薬師寺という意味ではない。仏に捧(ささ)げた
	祈りが叶う、という意味が込められた言葉なのである。本尊・薬師如来のふっくらとした手の指の隙間に見える水かき、「マンモウ
	ソウ」は、我々を一人残らず救い上げるためにあるそうだ。
	薬師如来の顔をよく見ると、朱色に塗られた唇、黒く描かれた眉毛や髭、大きな眼差、くっきりとした顔立ちなどは、敦煌で見た壁
	画の仏の顔にどこか似ており、エキゾチックで神秘的である。仏像がシルクロードを渡ってきたことを再確認させてくれる。 
	薬師如来を取り囲む十二神将は、1200年にわたって薬師如来を守り続けてきた。躍動感溢れる十二神将と、存在感ある薬師如来。
	この本堂の中の空間は、永遠の時が具現された空間でもある。仏、神、世界、そして自分について思考するための小宇宙でもあるの
	だ。




	十二神将		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、また護法善神である。十二夜叉大将、十二
	神明王(じゅうに・やしゃたいしょう、しんみょうおう)ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる12
	の武神である。

	十二神将は、薬師如来の12の大願に応じて、それぞれが昼夜の12の時、12の月、または12の方角を守るという。そのため十二支
	が配当される。各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率いるという。頭上には各十二支の動物を形どった標識を置
	くことが多い。日本では奈良・新薬師寺の等身大の十二神将像が、最古の作であるとともに造形的にも優れたものとして名高い。
	また、十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の仏・菩薩・明王などがある。それぞれの名称と対応する本地尊と十支
	は次のとおりである(経典によって若干用字や読みが異なるが、ここではもっとも一般的なものを挙げる)。

		神将名 			読み 		種字 		本地仏/尊 		十二支

		宮毘羅大将(金毘羅大将) くびら(こんぴら)ヨー 	弥勒菩薩 		子神 
		伐折羅大将 		ばさら 		サク 		勢至菩薩 		丑神 
		迷企羅大将 		めきら 		キリク 		阿弥陀如来 		寅神 
		安底羅大将 		あんちら	サ 		観音菩薩 		卯神 
		??羅大将 		あじら 		キリク 		如意輪観音 		辰神 
		珊底羅大将 		さんちら	タラク 		虚空蔵菩薩 		巳神 
		因達羅大将(帝釈天) 	いんだら 	カ 		地蔵菩薩 		午神 
		波夷羅大将 		はいら 		マン 		文殊菩薩 		未神 
		摩虎羅大将 		まこら 		キリク 		大威徳明王 		申神 
		真達羅大将 		しんだら 	アン 		普賢菩薩 		酉神 
		招杜羅大将 		しゃとら 	バン 		大日如来 		戌神 
		毘羯羅大将 		びから 		バク 		釈迦如来 		亥神 


	上記12体の持物、ポーズ等は必ずしも統一されたものでなく、図像的特色のみから各像を区別することはほとんど不可能である。
	十二神将像は、中国では早くから制作され、敦煌壁画にも作例がある。中国では十二支と結び付けて信仰され、日本における作
	例にも頭上に十二支の動物を戴くものが多い。
	日本では奈良時代(8世紀)の奈良・新薬師寺像をはじめ、数多く制作されている。多くの場合、薬師如来を本尊とする仏堂に
	おいて、薬師如来の左右に6体ずつ、あるいは仏壇の前方に横一列に安置される。新薬師寺像のように円形の仏壇周囲をぐるり
	と取り囲んで配置される場合もあり、薬師如来像の光背や台座部分に十二神将を表す場合もあるなど、表現形態はさまざまであ
	る。四天王像などと同様、甲冑を着けた武神の姿で表され、12体それぞれの個性を表情、ポーズなどで彫り分け、群像として
	変化をつけた作例が多い。


	<日本における十二神将像の主な作例>

	国宝 
		新薬師寺像 (奈良県奈良市)― 塑造、奈良時代、12躯のうち11躯が国宝 
		興福寺東金堂像 (奈良県奈良市)― 木造、鎌倉時代 
		興福寺像 (奈良県奈良市)― 板彫、平安時代 
		広隆寺像 (京都府京都市)― 木造、平安時代 
	重要文化財(国指定) 
		法隆寺西円堂像 (奈良県生駒郡斑鳩町)― 木造、鎌倉・桃山時代 
		霊山寺像 (奈良県奈良市)― 木造、鎌倉時代 
		栄山寺像(奈良県五条市)― 木造、室町時代          
		室生寺像 (奈良県宇陀市)― 木造、鎌倉時代 
		東大寺像 (奈良県奈良市)― 木造、平安時代     
		法界寺像 (京都府京都市)― 木造、鎌倉時代          
		東寺像 (京都府京都市)―  木造(金堂本尊台座付属)、桃山時代 
		鶏足寺像 (滋賀県伊香郡木之本町)― 木心乾漆造、3躯のみ現存、平安時代       
		雪野寺(龍王寺)像(滋賀県蒲生郡竜王町)― 木造、鎌倉時代 
		浄妙寺像 (和歌山県有田市)― 鎌倉時代 
		東山寺像 (兵庫県淡路市)像 木造、平安時代    
		斑鳩寺像 (兵庫県揖保郡太子町)― 木造、鎌倉時代     
		雪渓寺像 (高知県高知市)― 木造、鎌倉時代 

	<陰陽道における十二天将>
	また上記の仏典とは異なり、陰陽道の占術・式占の一つである六壬神課で使用する十二天将も、間違って十二神将と呼ばれること
	がある。



以下、1から12まで順番に並べてあるが、新薬師寺の神将名と、国が国宝に指定した時の名前が異なるものがある。








































	南都鏡神社

	所在地 奈良県奈良市高畑町468番地 
	主祭神 藤原広嗣、天照大神
	本殿の様式 春日造 

	「南都鏡神社」(なんとかがみじんじゃ)は新薬師寺と隣接しており、赤い鳥居が目立ち新薬師寺より先に目に入る。藤原広嗣を
	祭神とする。鏡神社は大同元年(806)に新薬師寺の鎮守として勧請され、境内南側にて創建されたと伝えられる。現在の本殿は、
	延享三年(1746年)に春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたものである。春日大社の本殿は、本殿のある敷地内には神職以外
	は立ち入れず、何人も絶対に見ることが出来ないだけに当本殿は貴重なものといえるかもしれない。一間社春日造り建築で、奈良
	市指定文化財となっている。




	藤原広嗣は九州で兵を起こした「藤原広嗣の乱」の張本人だが、左大臣「橘諸兄」を敵に回したのが運命の分かれ目で、広嗣は戦
	いに敗れ処刑される。その広嗣の怨霊を鎮めるために、本殿に広嗣の霊を祀っているのだそうだ。それにしても「反乱者」を祀る
	とは。春日大社は藤原氏の氏神なので、春日大社と結びつきの強い「南都鏡神社」に藤原広嗣を祀ったのか。怨霊となった広嗣を
	祀りながら、社名の「鏡神社」という名前がどうも理解できない。なぜ「鏡」神社なのだろうか。境内に書いてある縁起を見ても
	なぜ「鏡神社」という名前なのかは分からなかった。宮司を捜し出して聞けば良かった。

	この鏡神社の東 新薬師寺の入口角に、比売神社(ひめじんじゃ)という、小さな小さな社がある。ここは、古くから「比売塚」
	(ひめづか)と呼ばれ、この近くに葬られたとされる十市皇女の塚だと伝えられており、小さな古墳の上に建っているそうなので、
	この辺りから鏡が出土したか、或いは田原本町に幾つもあるような、古代の鏡制作者集団がこのあたりに住んでいたのか。

	神社の小誌を見ると、

	遣唐使派遣の祈祷所だったところに、平城天皇の時代 大同元年(806)に新薬師寺の鎮守として奉祀された。のち藤原広嗣が
	九州で叛乱を起こし、肥前長野村で捕らえられ松浦郡にて斬首された。そこでこの地に鏡尊廟を建てて、義しき公の威霊を祀り、
	後世鏡宮・板櫃社と称せられて、永く松浦明神三座の1として崇められた。

	とある。現在、唐津市には鏡神社があり、神功皇后の三韓征伐伝承のなかで戦勝祈願を行い、山に鏡を奉納したと言われているよ
	うだ。一の宮は神功皇后、二ノ宮が藤原広嗣となっている。新薬師寺の鎮守として、肥前国鏡神社(佐賀県唐津市鏡)より、藤原
	広嗣の霊を慰めるため、この松浦明神から、この奈良の鏡神社に勧請したと言うのだ。とすれば、単に肥前の「鏡神社」から勧請
	したので「鏡神社」と読んだのかも知れないが、それなら以前は何と呼ばれていたのだろうか。この鏡神社は、元は、福智院の境
	内に、玄ム(げんぼう:藤原広嗣の政敵だった僧)の弟子「報恩」により祀られていたという伝承もある。 
 



	藤原広嗣の乱(740)
	--------------------------------------------------------------------------------
	天平12年( 740)9月3日。聖武天皇の時代。藤原広嗣が九州で起こした反乱を言う。
	藤原広嗣は藤原4家のひとつ式家の当主だった。当時は絶大な権力をふるった藤原南家の武智麿も亡く、藤原不比等の妻・橘三千
	代夫人の前夫美努王との間の子(つまり不比等の義理の息子になる)葛城王が臣籍に下りて、橘諸兄(たちばなのもろえ)と称し右
	大臣として政権の座にあった。
	広嗣はいわば藤原家の星であったが、言動に横柄さが目立ち、それを疎まれて太宰府に左遷されてしまう。これを怒った広嗣は、
	これは天皇の近くで祈祷その他に携わっている玄肪と吉備真備がよからぬことを吹き込んだためではないかと、太宰府で身の潔白
	を訴える上奏文を書き、天皇に上奏する。しかし聖武天皇はそれを受け入れず、そのことを知った広嗣は短気にも太宰府の手勢を
	率いて反乱を起こしてしまった。天皇はただちに1万7千人の兵を派遣、反乱は即座に平定されて広嗣は現地で斬られてしまう。
	というのが一般的な「藤原広嗣の乱」の解釈だが、上の小誌では、玄肪が悪者になっている。ここは広嗣の霊を祀っているので当
	然と言えば当然だが、立場変わればまったく正反対の見方になるからおもしろい。

	玄肪(目偏)は仏教への帰依の篤い聖武天皇のよきアドバイザーで全国の国分寺創建も彼の助言によるものではないかと言われて
	いる。千手観音経を千巻書写するなどという勤めもしており、日本の観音信仰の元祖の一人。また中国に留学した折り、5000巻も
	の経典を日本に持ち帰ったといわれている。その当時日本にはまだ3000巻ほどしか経典がなく彼のもたらしたものは日本の仏教界
	に非常に大きな刺激を与えた。のちに彼が持ってきた「大日経」を読んだ若き空海(弘法大師)が、それを契機に密教に目覚めた
	という話は有名である。






	比売神社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	比売神社(ひめがみしゃ)は、比売塚と呼ばれる小さな古墳の上に建てられている。鏡神社の摂社である。十市皇女を祭神とし、
	市寸嶋比売(いちきしまひめ)を脇座とする。比売塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられており、日本書紀の記載に
	ある「天武天皇6年(678)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682)に氷上娘を「赤穂」の地に葬った」とされ
	るこの二人ではないかと考えられている。この近くには赤穂神社がある。
	1920年代に比売塚は国有となって奈良財務局の管理下におかれたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から比売塚の払
	い下げを受けたのを機に、そこに神社を造営することとなった。比売塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、神殿・祭祀を鏡神社の
	摂社として委任することとした。
	1980年夏、新薬師寺・鏡神社の協力により地鎮祭が、同年末に上棟祭が行われた。1981年、十市皇女の命日であ4月7
	日を新暦に換算した日である5月10日に鎮座奉祝祭が斎行され、十市皇女を祀る比売神社が誕生した。





	新薬師寺のすぐ前に「神像石(かむかたいし)」というモニュメントと、赤い鳥居の「比売神社(ひめがみしゃ)」というの
	があるが、どっちも新薬師寺横の「鏡神社」の管理のようである。鏡神社は、新薬師寺の鎮守として創建されたというが、ど
	うもこの神社と寺の関係はようわからん。明治政府の「神仏習合」や「廃仏毀釈」の時の混乱で、管理がめちゃくちゃになっ
	たようなところがある。神護寺などは、寺が神社を守ってるし、新薬師寺と鏡神社もくっついてるしなぁ。まぁ、何でもあり
	の日本人らしいと言えば日本人らしいが。




	淡海三船		出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	淡海三船(おうみのみふね、養老6年(722) - 延暦4年7月17日(785年8月30日))は、奈良時代後期の文人。
	天智天皇の皇子大友皇子の曽孫。父は葛野王の子池辺王。はじめ御船王。天平年中に出家して元開と称す。天平勝宝3年、勅
	命により還俗、淡海真人の姓を賜る。子に浜成・高主。
	天平勝宝3年(751)正月27日、30人ほどの諸王に対し「真人」賜姓が行われ、御船王は淡海真人の姓を賜った。卒伝
	に「性	識聡敏にして群書を渉覧しもっとも筆札を好む」と見え石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の卒伝に二人が「文人の
	首」と称されたとある。
	天平勝宝8年(756)5月、朝廷を誹謗したとして大伴古慈斐(おおとものこしび)とともに衛士府に禁固された。天平宝
	字8(764)年9月、恵美押勝の乱の時、偶然造池使として近江にいたため、勢多橋を焼き落とし、押勝の進軍を妨害する。
	その功によって従五位下より正五位上、勲三等を授けられ、近江介となる。その後中務大輔兼侍従に転じ、天平神護2年(7
	66)9月東山道巡察使に任じられたが、下野国の国司に対して「検括酷苛」だったとして、神護景雲元年(767)6月に
	解任された。大宰少弐、刑部大輔を経て、宝亀3(772)4月大学頭兼文章博士(もんじょはかせ)。延暦4年(785)
	7月、刑部卿従四位下兼因幡守で没。64歳。

	若いときに僧であったこともあり、外典・漢詩にも優れていた。「経国集」に漢詩5首を載せ、「続日本紀」前半の編集に関与
	した。現存最古の漢詩集「懐風藻」の撰者とする説がある。また、『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正
	天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。また、宝亀10年(779)
	には鑑真の伝記「唐大和上東征伝」を記し、現在も貴重な史料として認められている。「日本高僧伝要文抄」に「延暦僧録」
	の「淡海居士伝」が一部残っている。

	神武天皇(じんむてんのう)とか、応神天皇(おうじんてんのう)とかいう呼び名を決めていったのはこの御仁なのである。


















 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/201回例会・いままで行かなかった奈良を歩こう