Music: 興福寺案内

興福寺

		興福寺は710年、藤原不比等が藤原京の厩坂寺をいまの地に移し、氏寺としたのがはじまり。その後天皇や皇后、藤原氏に
		よって次々と建物が建てられ、藤原氏一族の氏寺としておおいに栄えた。しかし度重なる火災と再興を繰り返し、平安時代末
		期には平氏による南都焼討ちで、ほぼ全焼してしまった。その後、摂関家藤原氏との密接な関係から再建は南円堂をはじめと
		して速やかに進められ、今は五重塔・東金堂をはじめ、時代を追って再建された数々の建物が残っている。

		五重塔・東金堂はどちらも室町時代に再建されたもので、当時は回廊で囲まれひとつの区域になっていた。五重塔の高さは
		50.1mあり、奈良で1番高い搭である。東金堂は寄棟造りの屋根や太い柱など創建当初の雰囲気を伝えている。他に、鎌
		倉時代再建で境内最古の北円堂、江戸時代再建で日本最大の円堂建築で西国三十三所第九番の札所になっている南円堂などが
		ある。また三重搭は鎌倉時代再建で高さが19m、北円堂と並び興福寺では最古の建物である。

		興福寺のお堂や国宝館に伝わる仏像は非常に多く、日本を代表する仏教彫刻が勢ぞろいである。大人気の阿修羅像は奈良時代
		に造られたもので3つの顔と6本の腕を持った立像である。まるで現代人のような顔立ちで、眉をひそめ何か思い詰めたよう
		な表情が特徴的である。光や角度の微妙な変化で表情が変わり、神秘的な像である。他に鎌倉時代に造られた5mを超える千
		手観音菩薩立像の手は、今にも動き出しそうで迫力がある。また天燈鬼立像や龍燈鬼立像は、本来なら嫌われ者の邪鬼である
		が、ユニークな顔をして立ち上がっている。建物や数多くの宝物は、当時の勢力の大きさを今に伝えている。
		(平成19年6月7日 興福寺案内アナウンス原稿。)





























奈良遷都1300年には間に合わなかったようですな。













		
		<興福寺国宝館>

		昭和34年に天平様式に建築されたもの。各堂にあった奈良時代から江戸時代に至る各時代の仏像・絵画が集められ,1250年に
		わたる興福寺の歴史と伝統を伝えている。そのほとんどが国宝,重文に指定されている。 <大人500円>
		なお館内は「写真撮影禁止」で、隠し撮りも出来なかったので、NETから「修羅像」初めいくつかの写真を拾ってきた。







		
		興福寺 国宝館  の仏像

		1959年に旧食堂・細殿跡に興福寺宝物収蔵庫を建築した。収蔵展示されている寺宝のほとんどが国宝や重要文化財である。
		年4回の展示替えをしながら公開されている。


		<乾漆八部衆>

		インド古来の鬼霊・悪魔・音楽神・鳥獣神など異教の神を集め、仏法守護や諸仏供養の役目を与え八部衆とした。従って仏教の
		教理に基づいた神ではないので、 生い立ちや性格、また姿やかたちは様々に説かれ、複雑で不明な部分が多い。仏教に取り入
		れられても、異教の神の姿のまま表現される。
		天平6年(734)に創建された西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた。これらの像は乾漆造で、土でだいたいの像容
		を造り、その上に漆で麻布を数枚貼 り重ね、ある程度乾燥させた後、背中を切り開き、中の土を取り出す。空洞になった内部に
		板や角材を補強材として入れ、その後木粉などを混ぜた漆で表面を整 え、金箔や彩色を施して仕上げる。
		『造物所作物帳』には八部衆や十大弟子像を造ったのは、仏師将軍万福(ぶっししょうぐんまんぷく)や画師秦牛養(がしはた
		のうしかい)であったことが記される。洲浜座(すはまざ)の上に直立し、守護神としての性格上阿修羅(あしゅら)像を除い
		て武装す る。いずれも、個性的な表情を取る。8体とも造形はよく似ており、十大弟子像とともに同一工房で造られ、本来一具
		として安置されていたことが知られる。両群像ともに鎌倉時代に補彩された。
		八部衆は『法華経(ほけきょう)』に「天、龍、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かる
		ら)、緊那羅(きんなら)、摩漢字羅伽(まごらか)」があげられるが、興福寺の場合は、「五部浄(ごぶじょう)、沙羯羅
		(さから)、鳩槃荼(くばんだ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢
		婆迦羅(ひばから)」である。


		銅造仏頭(どうぞうぶっとう)(旧東金堂本尊)

		【制作時代】白凰時代
		【安置場所】国宝館
		【文化財】 国宝
			  銅造 鍍金(ときん) 白鳳時代  総高 98.3cm

		天武14年(685)に、天皇が亡き蘇我倉山田石川麻呂のために造った飛鳥山田寺講堂本尊像の頭部である。像は興福寺の鎌倉再
		興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられたが、応永18年(1411)に堂とともに被災した。幸い残った頭部
		が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座に納められ、昭和12年(1937)に発見された。造立年代が明らかであるとこ
		ろから、白鳳彫刻の基準作として高く評価される。
		蝋(ろう)型原型から鋳造されたもので、鍍金(ときん)が施されている。伸び伸びと弧を描きながら流れる眉、水平に伸びる下ま
		ぶたと、それをおおうように弧を描く上まぶた、額から直線的に伸びる鼻、ふっくらとした唇、顎の張ったたくましい面相は、
		青年のような若々しさ、すがすがしさを感じさせてくれている。


		<金剛力士立像>

		リアルな筋肉描写、バランスのよさなど鎌倉彫刻の特徴を遺憾なく発揮する。もと西金堂安置。上半身と下半身を全く別に制作
		させる鎌倉時代の珍しい造像法。




		<天燈鬼像・龍燈鬼像>

		西金堂須弥壇前面に安置されていた像で、四天王像に踏みつけられる邪鬼(じゃき)を独立させ、仏前を照らす役目を与えた。
		天燈鬼像は、2本の角と三つの目を持ち、口を大きく開き、やや横目で前方をにらみ、左肩に乗せた燈籠を左手で支える。龍燈
		鬼像は腹前で左手で右手の手首を握り、右手は上半身に巻きついた龍の尻尾をつかみ、頭上に乗せた燈籠を上目づかいににらむ。
		像内に建保3年(1215)に法橋(ほつきょう)康弁が造ったとする書きつけがあるという。阿・吽、赤・青、動・静が対比
		的に表現された鬼彫刻の傑作。


		<千手観音立像>

		もと食堂の本尊。南都焼き討ち後の復興像。十一面四十二臂の姿で、脇手を負うに十分な堂々たる体躯を誇り、張りのある顔に
		は大きな目鼻が刻まれ、口を結んで引き締まった相貌を示す。檜の寄木造、漆箔仕上げ、眼には玉眼を入れる。 



		<板彫十二神将像>

		薬師如来(やくしにょらい)の守護神で、東金堂本尊薬師如来像の台座周囲に貼りつけられていた。1枚の桧板に浮き彫りする。
		頭部は漢字髪(えんぱつ)、巻髪(けんぱつ)、また兜をかぶったり、天冠(てんかん)をつけたりする。武器をとり身構えた
		り、全身で躍動するものなどさまざまである。平安時代の作。日本では珍しい、板に浮き彫りにした仏像で、現在は剥落してい
		るが、もとは彩色されていた。


		<法相六祖坐像>

		運慶の父・康慶一門の作。玄賓(げんぴん)、行賀、玄ム(げんぼう)、神叡、常騰、善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。
		南円堂の本尊の周囲に安置されていた。行賀像は奈良国立博物館に寄託。





興福寺阿修羅像(奈良時代)。国宝。



		興福寺・阿修羅像を直接鑑賞 ガラス陳列取り止め 2010/02/28 15:38   【共同通信】

		ラスケースに収納されていた阿修羅像(左)などが直接鑑賞できるようになった奈良市の興福寺・国宝館=28日

		国宝の阿修羅像(8世紀)などを収蔵する奈良市の興福寺・国宝館で、1959年の開館以来初めての内装リニューアルが終
		わり、報道陣に28日公開された。これまでガラスケースに収納されていた阿修羅像などが直接鑑賞できるようになり、拝観
		者の人気を集めそうだ。国宝館は1月18日から閉館していたが、3月1日から一般公開を再開する。
		ガラスケースでの陳列をやめたのは阿修羅像を含む八部衆立像(8体)と十大弟子立像(6体)の天平時代の国宝計14体。
		上下左右から複数のライトを当てることで、仏像の表情や細部が分かるよう工夫を凝らした。
		鎌倉時代の木造千手観音菩薩立像(国宝)を中央に安置し、平安―江戸時代の仏像や宝物計28件を網羅。仏堂を意識しなが
		らも、博物館に近い雰囲気を持つモダンな展示構成になった。
		多川俊映貫首は「仏教の精神に基づいて作られた仏像の倫理性や真善美を感じられる展示になったのでは」と話した。
		入館料は大人600円、中高生500円、小学生200円。



		阿修羅  出典:ウィキペディア

		阿修羅(あしゅら、あすら、Skt:asuraの音写、意訳:非天)は八部衆に属する仏教の守護神。修羅(しゅら)とも言う。
		大乗仏教時代に、その闘争的な性格から五趣の人と畜生の間に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となった。



		古代ペルシアの聖典『アヴェスター』に出る最高神アフラ・マズダーに対応するといわれる。
		それが古代インドの魔神アスラとなり、のちに仏教に取り入れられた。古くインドでは生命生気の善神であった。天の隣国だ
		が天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて■利天にも住めないといわれる。
		本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語とな
		り、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメ
		ージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。また、中国において「阿」の文字は子供への接頭辞(「○○ちゃん」)
		の意味合いを持つため「修羅」と表記されることもあった。帝釈天とよく戦闘した神である。『リグ・ヴェーダ』では最勝な
		る性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。



		仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を
		持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。
		興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天と戦争
		をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれる
		ことが多い。奈良県・興福寺の八部衆像・阿修羅像(国宝)や、京都府・三十三間堂の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が
		有名。日本語では、争いの耐えない状況を修羅道に例えて修羅場(しゅらば)と呼ぶ場合もある。激しい闘争の行われている
		場所、あるいはそのような場所を連想させる状況を指す。(以下略)










南円堂



興福寺「三重の塔」。脇道の奥まったところにあるので、知らない人も多い。







 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/201回例会・いままで行かなかった奈良を歩こう