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久米官衛跡


		例によって住宅街の中を、大雑把な地図と感を頼って歩き回る。古代役所の跡などは標識が一本と説明板が一枚しか無い
		ような遺跡も多く、完璧に住宅が立ち込めているような住所だったので、「こりゃヘタしたら見つからんかも」と内心思
		いながら歩いていると、何やら明るい一角がある。「あ、あすこだ」とピンと来た。
		遺跡の匂いが風に乗って流れてくる。こういう時は十中八九当たりである。果たせるかな、大きな広場が見えてきて、な
		にやら看板らしきものが立っている。間違いない。廻りをよく見ると、考古館のお姉ちゃんが教えてくれたようになって
		いた。





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		久米官衙遺跡群 久米官衙遺跡 来住廃寺跡 出典:松山市HP
		(くめかんがいせきぐん くめかんがいせき きしはいじあと)

		久米官衙遺跡群くめかんがいせきぐんは、松山市の東部にある来住台地に立地する古代の官衙かんが関連遺跡と古代寺院
		跡で、現在は住宅地域の中にある。昭和54年に7世紀中葉以降創建の古代寺院として来住廃寺跡が国指定を受けた。
		その後の発掘調査の進展により、台地上には7世紀前葉から平安時代に至る官衙関連遺跡が広範囲に展開することが明ら
		かになり、平成15年に久米官衙遺跡群くめかんがいせきぐんとして追加指定及び名称変更がなされた。

		官衙かんが関連遺跡は、官衙かんが政庁施設、正倉遺構、回廊状遺構が区画性をもって造営されていることが明らかとな
		っている。回廊状遺構は、来住廃寺より先立つ施設で、方一町(一辺約109m)規模の大きさで南辺中央に八脚門が取り付
		く。回廊状遺構の西部には7世紀中葉頃に造られた正倉遺構が8世紀前半に外濠を設けて拡張され、内部に総柱建物跡など
		がある。
		この正倉遺構の北東部に政庁関連施設があり、7世紀前葉に長舎囲い建物の施設が、7世紀中葉からは「久米評」に関連す
		る政庁施設が、更に8世紀の建物群もあり、律令体制の成立前後から確立期にいたる地方官衙かんがの在り方を示す貴重
		な遺跡群である。












		平成15年8月、昭和54年に国の史跡に指定されていた来住廃寺跡(約1万平方メートル)に加えて、久米官衙遺跡(3ヶ所、
		計約2万平方メートル)が追加指定された。〔史跡久米官衙遺跡群 久米官衙遺跡 来住廃寺跡〕

		久米官衙遺跡群は、天皇中心の国家体制整備が進みつつあった7世紀後半の地方における状況を知ることができる、全国
		的にも珍しい遺跡である。 遺跡では、来住廃寺が建っていたころや、それ以前の役所(官衙)跡が多数確認されている。
		主な施設としては、回廊状遺構、回廊北方官衙、正倉院、政庁、政庁南東官衙などがある。



		基本的に、これらの施設は一辺約109m(1町)四方の外郭施設で囲われた正方形の敷地の中に設けられ、敷地と敷地との
		間には幅3〜4m程度の道路があったものと考えられている。このように、土地を区画して利用していることがこの遺跡の
		最大の特徴である。




		【史跡 久米官衙遺跡群 くめかんがいせきぐん】 出典:松山市HP

		・長隆寺跡の調査
		 来住廃寺の発掘調査は、昭和42年に大山正風氏によって長隆寺跡として第1次調査が行われた後、昭和52年から翌
		 年にかけて第2次、第3次の調査が松山市教育委員会によって実施され、法隆寺式伽藍配置を持つ白鳳期の古代寺院跡
		 として、昭和54年に国の史跡指定をうけました。

		・来住廃寺の調査
		 その後も来住廃寺の発掘調査は続きましたが、周辺からは、7世紀前半頃にさかのぼる役所の政庁(政治を行う機関)や、
		 税を納める倉庫が建ち並ぶ正倉院、その他の役所の建物等の発見が相次ぎました。7世紀中頃には、これらの施設を約
		 110m四方の柵や溝で囲い、計画的に配置していた様子もわかり、7世紀末に来住廃寺が造営される以前から、周囲に
		 は広大な役所街が整備されていたことがわかったのです。特に、遺跡群の南端には溝と2重の柱列で取り囲んだ『回廊
		 状遺構』と呼んでいる施設は、他の官衙遺跡では確認されたことのない特殊な施設として注目されました。このように、
		 来住廃寺の調査は全国的に貴重な役所跡の調査へと移り変わったのです。 

		・国指定史跡久米官衙遺跡群
		 これらの調査成果をうけて、これまでに国の史跡に指定されていた来住廃寺跡(約1万平方メートル)に加えて、久米官
		 衙(かんが:古代の役所)遺跡(3ケ所、計約2万平方メートル)が、平成15年8月に新たに追加指定されました。指定を
		 受けたのは、国指定史跡来住廃寺跡に隣接する回廊状遺構の全域とその北側の一部、正倉院南部と政庁の一部の3ケ所で
		 す。天皇中心の国家体制(律令体制)の整備がはじまった7世紀前半から地方支配の確立に至るまでの地方における状況
		 を知ることができる、全国的にも珍しい遺跡として高く評価された結果です。以後、来住廃寺跡に久米官衙遺跡を加えた
		 範囲を、『国指定史跡久米官衙遺跡群(久米官衙遺跡、来住廃寺跡)』と呼ぶことになりました。
		 なお、以前から史跡指定をされていた来住廃寺の周辺については、17年度から、整備に向けた資料収集のため発掘調査
		 を行っています。 

		・最新の調査と今後の課題
		 今後の史跡整備の方針を決めるため平成17年に来住廃寺32次調査として約40年振りに謎の基壇部分を全面発掘調査
		 しました。これによって、これまで五重の塔と考えられていた基壇は礎石の並び方から庇付きの金堂跡と判明しました。
		 金堂とは御本尊を安置する本堂のことで、規模は南北8.9m、東西10.8m、基壇の大きさは南北11m、東西13m、
		 で、基壇の一部からは瓦を重ねた基壇化粧と見られるものも残っていました。   出土した瓦は法隆寺の瓦に似たものは
		 少なく未発見の瓦が2種類発見されました。また基壇の東面からは江戸時代に造られたと考えられる長隆寺の土塀がその
		 ままの状態で埋まっていました。これもきわめて珍しい発見です。平成19年度からは、講堂(僧侶が経を唱えたり、講
		 義を受けた建物)があったと考えられている地点で、発掘調査が行われています。




		来住廃寺跡  出典:文化財オンライン(文化庁)

		来住廃寺跡は、愛媛県中部の松山平野東部、来住台地に立地し、白鳳期に造営された古代寺院跡として昭和54年に史跡
		に指定された。塔基壇の高まりと礎石・石製露盤が残されている。その後、周辺では宅地開発が急速に進行し、それに伴
		う発掘調査により、来住廃寺に先行する「回廊状遺構」など7世紀代の遺構群が発見され注目を集めてきた。そのため、
		各遺構の保護を図るとともに、内容確認の発掘調査が継続して行われてきた。その結果、周辺の台地上には飛鳥時代から
		平安時代に至る官衙関連遺跡が広範に展開することが明らかとなった。




		来住廃寺跡  出典:文化財オンライン(続き)

		官衙関連遺跡は東西約500m、南北約400mの範囲に広がる。このなかに「回廊状遺構」、「回廊状遺構北側区画」、
		「正倉遺構」、「官衙政庁施設」などの遺構が分布する。回廊状遺構は方約1町の大きさで、二列の柱列からなる回廊状
		遺構とその外側の溝により区画される。南辺中央に八脚門が取付き、回廊内部中央北側には、中心的な施設と想定される
		梁間3間の大型の東西棟建物が配置される。
		回廊内からは7世紀中葉に比定される単弁十葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、瓦葺建物の存在も想定される。回廊状遺構
		の北側には幅3mの空閑地を隔てて方約1町の溝で区画された回廊状遺構北側区画と称される施設がある。その区画内南
		西隅には5棟の掘立柱建物が南北に並ぶ。正倉遺構は回廊状遺構の北西に位置する。7世紀中葉ころに創建され、8世紀
		前半ころに拡張されている。(以下略)















来住廃寺礎石









この広場一帯が「久米官衙遺跡群」である。大雑把に、左側が久米官衙遺跡 右側が来住廃寺跡である。



また住宅街を抜けて車を止めた所(寂れた畠のような所に留めた)まで戻り、葉佐池古墳へ向かう。





邪馬台国大研究/歴史倶楽部/200回記念例会・松山から村上水軍を訪ねて