Music: smoke gets in eyes

松山市街を歩く



ホテルを出てぶらぶらと電車道に沿って歩き出すと5,6分で松山城が丘の上に見えてくる。
毎日徒歩であそこへ通うのは、さぞしんどかった事だろう。エラい山の上に作ったもんだね。





上図青い線が歩いたルート。県警本部の裏あたりの□の中に小さく「宿」と書いている。







上が●TTビルである。市街地のど真ん中に建っている。






		明治28年、愛媛県尋常中学校(松山中学校)に英語教師とした赴任した漱石は、二番町の上野義方の離れ(愚陀佛庵)
		に下宿した。月給は、校長の60円を上回る80円。同年8月、日清戦争の従軍記者だった子規が病気静養のため帰郷し、
		漱石の下宿に仮寓する。毎日のように地元の「松風会」のメンバーとの句会が開かれ漱石もこれに加わる。

		二人連れだって道後温泉、鷺谷(さぎだに)、鴉渓、宝厳寺等を吟行したこともあり、その模様は、子規の「散策集」
		に収められている。50日余の同居は、漱石文学の端を発する出来事となった。松山、熊本時代には、実にたくさんの
		俳句を子規宛に送り批評を求めている。漱石の「俳句熱中時代」といえるだろう。

		ロンドン留学を経て朝日新聞社の社員となった漱石は、その後プロの作家としての道を着実に歩むこととなるが、晩
		年の俳句は枯淡の俳味が加わったとされている。




		わ可るゝや一鳥啼て雲尓入る
		わかるるやいっちょうないてくもにいる

		碑には「夏目漱石は、明治28年、ここで英語を教えました。名作『坊っちゃん』は、松山中学校を舞台にして書かれ
		ました。四国電電ビル新築にあたり、往時校庭にそびえていたユーカリの一樹をそえて記念碑を建設します。」とあ
		る。
		漱石が愛媛県尋常中学校から熊本の第五高等学校の教授として赴任するため 4月11日に松山を離れる前に、松風会会
		員近藤我観に送った別離の句の1つ。もう1つの句は「永き日やあくびうつして分かれ行く」である。「一鳥啼て雲尓
		入る」とは、春に北方へ飛ぶ渡り鳥が雲の彼方へ去っていく鳥雲に入(い)るの意。春の季語である。三津の港から、
		虚子と広島行の船に乗船し、松山を離れた。









漱石が松山中学に赴任してきた時、校庭に生えていたというユーカリの木(のレプリカ)が植えられている。



愛媛県庁。プラネタリウムみたいなドームの中は倉庫だそうだ。








		秋山兄弟生誕地
		
		日露戦争で多大な功績を残し、司馬遼太郎作の小説「坂の上の雲」の登場人物でもある秋山好古(よしふる)、真之
		(まさゆき)兄弟の生家が2005年に復元された。江戸末期の天保年間に現在地に建てられたものだそうで、藁屋
		根に木造平屋建ての典型的な下級武士の家屋だったと言う。また好古が北予中学校の校長時代にここに住んでいたが、
		当時の家(4部屋と土間、台所の質素な家)に若干手を加えただけだったそうだ。
		2005年復元の際には、当時の家屋の設計図はなかったため、秋山家子孫の方から伝聞、特に好古が住んでいた時
		にしばしば訪問していた親戚や、好古の家族から聞き取り調査を行い、また当時の写真を参考にして建設された。
		現在、生家建物の位置は、庭に2人の銅像があるため、当時より北側に寄せられている。事前に申しこめば、常駐の
		ボランティアスタッフが案内・解説をしてくれる。

		開館時間: 10:00〜17:00 
		休館日: 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/28〜1/3) 
		入場料: 200円(高校生以下無料) 
		住所: 松山市歩行町2-3-6 
		TEL: 089-943-2747 















		秋山好古  出典:ウィキペディア

		渾名  日本騎兵の父 鼻信 
		生誕	1859年2月9日 伊予国松山(現愛媛県 松山市) 
		死没  1930年11月4日(満71歳没)
		軍歴  1879 - 1923 
		最終階級 陸軍大将 
		除隊後 北予中学校校長 
		墓所  鷲谷墓地(松山市) 

		秋山 好古(あきやま よしふる、安政6年1月7日(1859年2月9日)- 昭和5年(1930年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。
		最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。幼名は信三郎。
		陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというた
		だ一点に尽きている」と賞されているとおり、日本騎兵の父と云われた。
		日本海海戦で先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之は実弟にあたる。



		秋山真之  出典:ウィキペディア

		生誕  1868年4月12日 伊予国松山(現・愛媛県松山市) 
		死没  1918年2月4日(満49歳没)
		軍歴  1890年 - 1917年 
		最終階級 海軍中将 
		墓所  青山墓地 

		秋山 真之(あきやま さねゆき、旧字体: 秋山 眞之、慶応4年3月20日(1868年4月12日) - 大正7年(1918年)2月4日)
		は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級金鵄勲章
		を授与された。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。
		三兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元参議院議
		員・大石尚子は、真之の孫(二女・宜子の長女)。



我々の訪問は早かったので(9時前)スタッフは誰も居なかった。ここから電車道へ戻り「坂の上の雲ミュージアム」を目指す。



邪馬台国大研究/歴史倶楽部/200回記念例会・松山から村上水軍を訪ねて