Music: smoke gets in eyes

道後温泉


		「朝一で道後温泉行きましょう。私、朝ホテルへ来ますから」と昨晩新開さんが言った。最初は電車で行く予定だった
		のだが、いい駐車場があるのでそこに車を止めて温泉に入り、温泉からホテルまでまた戻って来て、歩いて坂の上の雲
		ミュージアムへ行く事になった。市内は駐車場も無いし歩いた方が見物できるそうだ。
		ホテルを出て「伊佐爾波神社」の駐車場に車を止めた。ここから石段を降ってゆくと道後温泉はすぐだった。









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伊佐爾波神社楼門(重要文化財)

		伊佐爾波神社  出典:ウィキペディア

		主祭神 譽田別尊 (ほんだわけのみこと) - 応神天皇に同じ
		祭神	足仲彦尊  (たらしなかつひこのみこと) - 仲哀天皇に同じ
			氣長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと) - 神功皇后に同じ
			三柱姫大神 - 宗像三女神に同じ。以下の3柱を指す 
				   市杵島姫尊 (いちきしまひめのみこと)
				   湍津姫尊  (たぎつひめのみこと)
				   田心姫命  (たぎりひめのみこと)
		配神  東照大神 (東照大権現) - 徳川家康に同じ
		社格等 式内社(小) 旧県社 
		創建  不詳 
		本殿の様式 八幡造 
		別名  湯月八幡宮・道後八幡 

		伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「左三つ巴」。別称
		として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。
		国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国行)が
		伝えられている。
		社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と
		呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。
		平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代
		には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
		伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬され
		たほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
		松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされ
		た。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
		寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、
		湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の
		御礼として社殿の造替に着手した。
		寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝
		し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)。

		明治以降

		明治4年(1871年)、近代社格制度において県社に列格。
		昭和31年(1956年)6月、本殿が国の重要文化財に指定。
		昭和42年(1967年)6月、申殿及び廊下、楼門、廻廊が重要文化財に追加指定。
		昭和45年(1970年)から3年間にわたり、本格的な復元解体修理。
		平成12年(2000年)から2年間にわたり、総工事費約2億6千万円をかけ、屋根(檜皮)の葺き替え工事、丹朱塗他塗装工事、
			破損個所の補修、その他修復工事。

		参道前の社号碑は、出雲大社第82代出雲国造千家尊統の書である(湯神社も同じ)。

		<本殿と透塀(ともに重要文化財)>
		
		本殿
		寛文7年(1667年)造営。様式は「八幡造」といわれ、後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形をとる。後殿は祭神
		の夜の座所、前殿は昼の座所とされる。後殿は切妻造、檜皮葺、桁行9間、梁間2間で、三間社を横に3つ繋げた形となる。
		前殿は流造、檜皮葺き、桁行9間、梁間2間。国の重要文化財に指定。

		申殿(もうしどの)
		本殿の前に位置する。桁行1間、梁間1間、一重、切妻造平入りで檜皮葺。前方に桁行3間、梁間1間、妻入の廊下が接続す
		る。国の重要文化財に指定。

		楼門
		社殿正面に位置する。入母屋造、本瓦葺。初層正面は唐破風とする。国の重要文化財に指定。

		廻廊
		楼門の左右から伸び、本殿等の社殿を囲む。国の重要文化財に指定。





えらい急な石段だった。













こっちがわが正式な神社の入り口である。我々は裏の駐車場から入ってきたのでここへ降りてくる格好になった。















やっぱ道後温泉来たらここに入らんとねぇ。昔出張で松山きたとき入って帰った。あれは何しに来たんだったかな。



我々は朝一で来たから空いてたが、その後から続々人が集まりだした。



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湯上がりのオッサン、まんまやね。



「来た道を戻るのは能が無いので違う道を通りましょう」と新開さん。一遍上人の寺「宝厳寺」の横を通ったら駐車場はすぐだった。



宝厳寺へ続く坂道は上人坂と呼ばれ、至る所に子規の俳句の看板があった。







宝厳寺は一遍上人の生まれた所である。



これはまためちゃユニークな字である。一遍上人てだいぶ変わってたんやね。

		一遍 出典:ウィキペディア

		延応元年2月15日 - 正応2年8月23日(旧暦) (1239年3月21日 - 1289年9月9日〈新暦〉) 
		幼名   松寿丸 
		名(俗名)河野 時氏(通秀、通尚とも) 
		号(房号)一遍 
		諱    智真 
		諡号   円照大師(私諡号) 証誠大師(1940年追贈) 
		尊称   一遍上人、遊行上人、捨聖 
		生地   伊予国 
		没地   観音堂(現・真光寺) 
		宗旨   時宗 
		師    聖達 
		弟子   聖戒, 他阿 
		著作   『一遍上人語録』 (江戸時代に編纂された書物) 
		廟    真光寺・一遍上人廟所 

		一遍(いっぺん)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人
		(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家
		より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏[要出典]とも通秀[要出典]、通尚[要出典]ともいうが、定かでない。

		<略歴>

		延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿
		丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって
		「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。ただし同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。
		有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国(岩手県北上
		市)に配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃に
		はかつての勢いを失っていた。
		10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長3年(1251年)13歳になると大宰府に移り、法
		然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。この時の法名は智真。

		弘長3年(1263年)25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)
		32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行して、十一不二の偈を感得する。文永11年(1274年)
		には四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。
		紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来
		の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告
		を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅
		相承として、時宗開宗のときとする。建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、他阿らに会い、彼らを時衆として引
		き連れるようになる。 さらに、各地を行脚するうち、弘安2年(1279年)信濃国で踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬して
		やまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)
		にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。

		弘安5年(1282年)には鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都
		の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10
		年(1287年)は書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。
		正応2年(1289年)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51歳(満50歳没)
		で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。

		<思想と評価>

		一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導
		いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時宗である。踊り
		念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」とコメント[1]。浄土教の深奥を
		きわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。
		念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるよう
		に(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算し、算
		を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという[2]。寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、入寂に際し
		て「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と自らの著作を燃やしたという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人
		は多い。和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契
		機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述
		は後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教
		者の系統に属することが指摘できる。


		<時衆教団の成立>

		門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とす
		るが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められ
		るはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ
		寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死
		後、自然解散した時衆を他阿が再編成したのが起源である。





駐車場からホテルへ戻り、車を置いて松山市街の散策にゆく。
新開さんはこの日用事があると言ってたが、ギリギリまで付き合ってくれた。



邪馬台国大研究/歴史倶楽部/200回記念例会・松山から村上水軍を訪ねて