Music: エーデルワイス
日 時 : 10月27日
集 合 : PM1:30 JR「信太山駅」改札前
11月 2日の松木武彦氏の講演を聞きに行こうかと思いましたが、朝一番で整理券を貰いに並ばねばならず、あのややこしさは私は
一度経験しており、非常に煩わしいです。松木武彦氏はユニークな視点で歴史を説く人なので面白そうですが今回は断念します。
講演会へ行きたい方はご連絡ください。有志で参加しましょう。
PM13:30の集合に30分ほど早く着いて、駅前で上の地図を見てると「伯太藩陣屋跡」とあった。「伯太藩?なんじゃそりゃ」
今まで聞いたことも無い藩名だったので興味が湧いた。見るとそこまでの間に「伯太神社」というのもある。片道15分で行ければ
皆が集合するまでに行って戻れるなと思って歩き出した。神社はものの5分も歩いて直ぐに判ったのだが、陣屋跡とその背後にあ
る古墳が全く判らない。近所の人に聞いても誰も知らない。集合時間が迫ってきたので断念して引き返したのだが、後述の通り、
どうやら近くまでは行っていたようだ。
尚、上の地図を見て、赤い線で辿った道に覚えのある名前があったので帰宅して調べると、なんと第117回例会(2007.1.14(日))
で「発掘された日本列島2006展」を見た後「信太の森」周辺を歩いた時に通っていたのだった。今回と同じように弥生文化博物館
を見学した後、小栗街道を歩いていた。その時の詳細なルートは以下の通りだが、6年前はみんな元気だったんだねぇ。
上の地図の一番下に「人権文化センター」というのがある。ここに15年前東江氏と二人で講演会を聞きに来た。これが歴史倶楽部
誕生のきっかけとなったのだが、ここへはその後「米の来た道」という講演会でも来たことがある。
駅前で私を待っている皆さん。改札とは反対側から登場です。
例によって特別展開催の垂れ幕の前で記念撮影。本日のオールキャストで御座います。
私は家族で岡山旅行をした時、この本物を見たことがある。もっと白くて大きかったような気がしたんだが。
<楯築遺跡> 出典:ウィキペディア(楯築墳丘墓、遺跡概略図写真も)
所在地 岡山県倉敷市矢部
形状 双方中円墳
規模 両端72m、墳丘直径50m
築造年代 2世紀後半〜3世紀前半
出土品 鉄剣、首飾、ガラス玉、小管玉
史跡指定 昭和56年(1981年)国指定
楯築遺跡(たてつきいせき)は、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓。楯築墳丘墓ともいう。双方中円墳である。
古くは片岡山古墳と呼ばれていた。国の史跡。
王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多
くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞ
れ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
主墳の頂上には木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また、斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1メートル
あまりで20個ほどの列石がめぐらされ、北東側の突出部は団地造営工事のため破壊されている。今ではその名残を一部にとどめて
いるに過ぎないが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びている。その上面は幅約3、4メートルで、わずかに前面に向
かって下降気味であるが、平坦に近い。突出部の前面はかなり急な傾斜で2〜3メートルほど下がり、東西に走る小道に達しており、
小道をわたると突出部の続きと思われる高まりがつづく。盛り土しているのが分かる。また円礫が二重三重に置かれている。円丘
につけられた遺構であることが分かる。 南西側の突出部は約20数メートルにわたって細長い幅数メートル高さ2メートルほどの尾
根状のものが伸びている。先端部の両側が丸く整形されていてその先端には大きな列石が貼られている。西部分には現在、給水塔
が建っていて、今は見ることができない。
香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳であるが、先行的な形態をしている。 2世紀末に起こっ
た倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるように
なった。 このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大
きな政治勢力があったことを窺わせる。その勢力の代表的な首長の墓であると推測されている。後の古墳時代中期には造山(350
メートル)、作山古墳(270メートル)の大前方後円墳が造られる。
<発掘調査>
昭和51年(1976年)より昭和61年(1986年)の間に、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした調査団により6度にわたる調査が行
われた。
主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5メートルに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われる。出土した
木棺は全長約2メートル・全幅約0.7メートルで棺の底には30キログラムもの朱が厚く敷かれていた。遺骨は検出されず歯の欠片が僅
かに2個出土したのみである。木棺は全長3.5メートル、全幅1.5メートルの木製外箱(木槨)に納められていた。副葬品が外箱の中
に置かれており鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が一括り出土した。これらは岡山大学考古学資料館に収蔵されている。
また、もう1基の埋葬施設は中心埋葬の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は無かった。副葬品
の貧弱さは、権威や富に関係するのではなく、その時代の埋葬の習俗の影響と考えられる。団地造成時に破壊された突出部分にはか
つて石列があり朱塗りの壺型土器が配列されていた。昭和56年(1981年)12月9日、国の史跡に指定された。
<弧帯文石(弧帯石)>
墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじった
ような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼
ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。ここにも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅
伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。
楯築墳丘墓
遺跡概略図(史跡説明板より)
クリックで拡大します。
上左端の石包丁は、他地域に見られるような研磨やヒモを通す穴が無い。
自然石をそのまま使用したような感じで、これが吉備の特徴だそうだ。
河内さんが解説を頼んだら、我々だけでは無く展示室全員に向けての説明会になった。説明は学芸員の中尾さん。
学芸員の中尾さんは、「いやぁー、○○先生なんかの前では怖くて滅多なことは言えませんからねぇ」とポロリ。私は「ええやん、
どんどん本音で言えばええやんか」と焚きつけたのだが、「邪馬台国は巻向では無い」とはとても怖くて言い出せない、という雰
囲気だった。
いつぞや、奈文研の若い研究者も桜井市の講演会で、「今日は「て○さ○先生がいないから本音がしゃべれます」と言って「邪馬
台国は近畿よりも九州の方が可能性は高いです」と言っていたし、大家たちのご威光は相当なもんなんだなという事が推測できる。
とても学問の世界とは思えんね。考古学の世界は、大工や職人などの徒弟制度で成り立っているのだろう。
中尾さんが解説中に「龍の顔が実に写実的に造ってあります」と発言したので、後から我々の中で話題になっていた。「写実的て、
龍の顔みたんかい」「そもそも龍て想像上の生きもんやんか、どっかに本もんがおるんか」と喧々諤々。
ついポロッと出てしまったのだろうが、うかつな事は言えまへんな。
連載第6回 フンドウガタドセイヒン (岡山県古代吉備文化財センターHPより転載)
岡山県古代吉備文化財センター 柴田 英樹
岡山県の出土品で、特徴的なモノのひとつにフンドウガタドセイヒンがあげられます。それって何?と思った人も多いことでしょう。
これは、今から2,200−1,900年前頃の弥生時代(中期の中頃から後期の前半)、おもに瀬戸内海周辺や山陰に住む人々が、ていねい
に土で作った分銅(ふんどう)の形をしたモノです。分銅とは、それぞれに重さが定められた金属のおもりで、秤(はかり)にのせ
て使います。今回紹介する分銅形土製品は、まさしく形が江戸時代以降によく使われたおもりとよく似ているためにこのような名前
が付けられています。
ここでは、イチョウの葉2枚を上下対称にくっつけた形を想像してください。それが代表的な形のひとつです。分銅は、今の日常生
活では、ほとんど使われることはありませんが、家紋や銀行を示す地図記号、某製薬会社のマークに見ることができます。
分銅形土製品は、長さ5−10cm前後のものが多く、左右の端や上の面にいくつかの小さな穴が開いていることがよくあります。
形は、イチョウの葉をくっつけた形だけでなく、愛媛県や山口県あたりでは、上下の形が四角形になっています。
表面には、不思議な文様が櫛のような道具などで描かれていて、赤く塗られることもあります。文様にも、眉に似た形や小さな半円、
縁取りのようになったもの、細い棒でつついた文様などなど、いろいろあります。「岡山」の人々は眉の形や半円の文様をよく使い、
「鳥取」「兵庫」の人々は縁取りを好んでいます。顔を表すことや、裏面にも何かを描くこともまれにあり、先の「愛媛」・「山口」
の人々にとっては文様よりも顔を表すことが重要だったようです。
長さが10cm程度の大形品の多くは、そのような文様で飾りたてられ、上端にも穴が開いていますが、5cm程度の小形品になると文様
もあまり描かず、上端の穴がないものも多くなります。どうやら、大きさや形、文様などの違いは、地域や時代、使い方などの違い
を示していると考えたほうがいいようです。
現在のところ、720点あまりの分銅形土製品が見つかっていて、その約43%が岡山県、次いで約16%が鳥取県、兵庫県・広島県でそれ
ぞれ約9−10%、島根県・愛媛県でそれぞれ5%を占めています。つまり、岡山・鳥取が分布の中心なのです。確かに、岡山県内
(特に南部)では、弥生時代中期から後期の集落の発掘調査をすれば、1点くらいは出るかなと思わせるような遺物です(ちょっと
言い過ぎ?)。ほかにも、山口県や石川県、香川県などでも20点前後、以下、大阪府、京都府、徳島県、福岡県、奈良県と続きます。
ところで、考古学では、出土したモノに名前を付けていろいろ分類しています。その使い方がわかれば命名も簡単なのですが、わか
らない時には何かの形に似ていることで名前を付けることも多いのです。つまり、分銅形土製品は、分銅に似ているのですが、決し
て分銅として使われたというわけではないのです(ちょっとややこしいですね)。では、これがどのように使われたのか、となると
たいへん難しい問題です。実は、考古学ではわからないことだらけなのです。
分銅形土製品は、出土数が少なく、その奇妙な文様などから日用品ではなく、何かのマツリの道具と想像されています。見つかった
時には、割れて破片になっていることが多いので、そこに注目する考えもありますが、これは本来の使用方法を示す有力な証拠とは
言えません。
これまでに、縄文時代の土偶(どぐう)や土版(どばん)と同じようなモノだとする説や、守り札(まもりふだ)説、仮面説などが
示されていますが、「これで決定!!」ということにはなっていません。ただ、マツリと関係する呪術(じゅじゅつ)的なモノ、弥
生人の精神文化を示すモノであるとの考え方では一致しています。
私は、これがマツリの際に使う装身具(ただの飾りではなく、それ自体が何か特別な力を持つ)と想像しています。穴に飾りを差し
込んだり、表面を赤く塗ったりした大形のものは仮面として、小さいものも身に付けたりして、マツリに参加した集団がそれぞれの
個性や力を表現すると考えていますが、本当のところはまだわかりません。
分銅形土製品は、岡山・鳥取に多く分布すると言いましたが、見方を変えると、いわゆる「吉備」(岡山・広島東部)南部にとりわ
け集中し、山陰や播磨(はりま)などでも使われていたと言えます。それらは、形こそ似ていますが、各地独特の文様で飾られてい
るのです。作った場所と使った場所が同じかどうかはまだ考えなければいけませんが、これらの地域の人々が同じようなマツリの道
具を使いつつも、それぞれに個性を主張していたことは間違いないようです。
そうすると、住んでいる場所が遠く離れていても、お互いに何らかの仲間意識や共通した宗教観があり、近くどうしではそれがいっ
そう強かったと考えることはごく自然ではないでしょうか。
このように結束した地域とその中心地が、弥生時代の中ごろには芽生えていたことを、この分銅形土製品は示してくれています。
同じ頃、マツリで使う青銅の武器にも、近畿の大阪湾型銅戈(どうか)、北部九州の中広形銅矛(なかひろがたどうほこ)、瀬戸内
の平形銅剣(ひらがたどうけん)といったように、地域ごとに違いが生まれ始めると言われています。
しかし、後期になるとやがて分銅形土製品は消えてゆき、同時に吉備では、ほかに先駆けて銅鐸や青銅製武器を使うことさえもやめ
ることがわかってきました。マツリが変わったのです。どんなマツリが、どう変わったのか、やっぱりこれからまだまだ調べないと
いけないことだらけです。
この文章は解説してくれた中尾学芸員が書いたものだそうだ。
今日の展示のテーマは「吉備と邪馬台国」だが、正直吉備と邪馬台国は特に関係があるとは思えない。吉備氏がその勢力を台頭させ
てくるのは5世紀になってからだし、その全盛期は明らかに古墳時代になってからなのである。勿論、弥生時代にも吉備と呼ばれて
いたかどうかは別にして、ちゃんとムラは存在していたし、万が一邪馬台国が近畿にあったとしたら、同時代に存在していたクニが
吉備にもあった事だろう。或いは倭人伝に言う傍国二十一カ国の一つだったかもしれない。だが弥生時代に吉備が邪馬台国と何らか
の関係を持っていた証拠は何も無いし、勿論文献も無い。
今日の展示を見る限りでは、吉備地方は九州や近畿とは異なった文化圏を持っていたようにも思える。私見では、おそらく吉備地方
というのは、九州や近畿とは別個に発展してきた縄文以来の、出雲を中心とした日本海文化圏の影響を受けて弥生時代まで来たので
は無いかと思う。そして古墳時代の「大争乱の時代」に次第に台頭して、近畿圏に覇を唱え始めた初期大和朝廷の勢力と結びついて
行ったのだろう。
今回の展示は「吉備地方の弥生・古墳時代」と銘打った方が正解だ。邪馬台国と付ければ古代史ファンやマスコミは喜ぶので、おそ
らくそれを狙ったのだろうが、ここに展示されている資料もまた、邪馬台国との繋がりを示すものは何一つない。西本さんは「今日
は期待外れだった」と言っていたが、そういう事を確認出来ただけでも私は見に来て良かったという気がする。
<吉備氏> 出典:ウィキペディア
氏姓 吉備朝臣
始祖 吉備津彦命(孝霊天皇第3皇子)
種別 皇別
本貫 吉備国
著名な人物 吉備前津屋
吉備田狭
吉備真備
後裔 上道氏 三野氏 賀夜(香屋・賀陽)氏 苑氏 下道氏 笠臣氏
吉備氏(きびうじ/し)は、「吉備」を氏とする氏族。古代日本の吉備国(岡山県)の豪族である。吉備氏は主として5世紀に繁栄し、
吉備を筑紫・出雲・ヤマト・毛野と並ぶ古代の有力地方国家に発展させることに貢献した。ヤマトの豪族たちと同盟し、日本列島の
統一と発展に寄与した。吉備国内の造山古墳(全国第4位)・作山古墳(全国第9位)などの巨大前方後円墳は、その首長の墓として
往時の勢力の大きさを今に伝えている。しかし、列島統一過程で「中央」となったヤマト政権の中央集権策によって、『日本書紀』
の記述によれば雄略朝期に吉備前津屋(さきつや)、吉備田狭(たさ)、吉備稚姫を母とする星川稚宮皇子など数度にわたる「反乱
鎮圧」の名目で勢力を削がれた。また、8世紀の史料によれば、出雲国や近江国や紀伊国や大和国にも吉備部など「吉備」を冠する
地名が西日本の広範囲に存在する。
<大和朝廷と吉備氏>
1.景行天皇の妃となった播磨稲日大娘は、ヤマトタケルを生んだ。
2.そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの妃となった。
3.吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。
4.兄媛は応神天皇の妃、黒媛は仁徳天皇の妃となった。
このように、王家に娘を入れて婚姻関係を結び、その軍事行動に参加するという形で、大和朝廷と連合関係にあった。
<吉備氏の系譜>
吉備氏の系譜には3種類あり、それぞれその時代の吉備氏の立場を代弁している。
1.別(わけ)号の人名表記に古形を残し、王家との関係も姻戚関係のみで王族出身とは記さず、一族内部も対等の関係であったとし、
5世紀までの部族同盟的な関係を伝える。
2.吉備津彦が四道将軍の一人として王家系譜に記載された事を前提とし、共通の始祖をその異母弟とした物で 6世紀中頃以降に作成
された。
3.7世紀後半に笠臣と下道臣が中央貴族として立身した事に対し、上道臣らが対抗して始祖の尊貴性を主張するために作成された。
<奈良時代以降の吉備氏>
7世紀以降、吉備氏は上道・三野・賀夜(香屋・賀陽)・苑・下道・笠らの氏族に分派し、姓(かばね)としては臣(おみ)または朝
臣(あそみ)を称した。多くは国造や郡司などの在地の有力豪族であったが、中央貴族として立身した者も少なくない。 笠垂は古人
大兄皇子の反乱を告発して名を上げ、上道斐太都(ひだつ)は、橘奈良麻呂の乱に功績があった。 下道真備(吉備真備)は唐に留学
し、帰国してからはブレーンとして朝政に参画して重用された。また、臨済宗の開祖栄西は吉備津神社社家賀陽氏の出身である。
池上曽根遺跡の神殿模型(常設展)
常設展示場に「大型神殿建物」の模型が出来ていた。この遺跡の一番の目玉であり、近畿の弥生時代を考える第一級の史料である。
しかし井戸木材の年輪年代法による伐採年は頂けない。奈文研の光谷氏にしか判らない判別法などは、どこから出土したか判らない
銅鐸のようなものだ。歴史資料と骨董品の違いはその客観性にある。光谷氏は方法とデータを公開して、広く学会の検証を受けない
と、いつまでもその信憑性を疑われたままになる。折角の資料が全く惜しい事である。
天王寺「赤のれん」にて反省会
久々に「赤のれん」にて反省会。ここのワサビの効いた鉄火巻きは絶品。高野さんのお気に入りだった娘はもういなかった。
893とその情婦ってか。しかしいつもながら、上村さんのファツションは見事に統一してますな。
橋本さんも西本さんも久々の例会参加です。
参考資料
本日講師をやってくれた中尾学芸員の解説で以下の様な「吉備ツアー」が開催されるらしい。赤い■は我々も行った所だが、2泊で
49,500円なら安いかも知れない。我々が行った時はもっと掛かったような気がする。しかし中尾さんは吉備の専門家なんですな。
どなたか、財力豊富な方はお行きになったらいかがでしょうか。
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 191回例会・吉備と邪馬台国展