Music: 夜霧のめぐり逢い




鹿児島本線で久留米行きに乗る。JR九州は室内がほんとに綺麗になった。全く民営化の恩恵だね。















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ほんとに目の覚めるような黄色である。
















			住所もなんと淡窓である。私は中学一年生の頃、広瀬淡窓を知った。私の中学時代は3年間同じ担任の
			先生だったのだが、その先生から広瀬淡窓のことを聞いた。その頃中学の教科には、週一回道徳の時間
			というのがあって、担任の武井先生はその時間、何と我々に詩吟を教えていたのだ。今思えばそんな事
			をしていいのかなと思えるような教科内容だったが、私は楽しかった。

			「君は川流を汲め〜 我は薪(たきぎ)を拾わん〜」と13歳の子ども達40人が一斉に唸っていたのであ
			る。武井先生は陸軍少尉上がりで、少なくとも見た目は豪放磊落な野人だった。私の親父の高校の先輩
			で、私が3年間武井先生のクラスだったのはそのせいかなとも思っていたが、なんと先生の長男も私と
			同じ名前「修一」だったのを後で知った。先生の息子より私の方が年上だけれども、親父は良く「武井
			さんが二番で儂が四番だった」と高校時代の成績を披露していたが、先生と親父は二年違いである。
			昔は学校一斉の試験でもやっていたのだろうか。それとも卒業するときの成績かな。

			今ならこれはエコ贔屓ではないかと思われそうだけれども、格別先生から何か優遇して貰った覚えは全
			く無い。みんなと同じように叱られていた。思えば先生は、後輩の息子で、倅が同じ名前の私を何とな
			く手元に置いておこうとしただけだろうと思う。もう亡くなられてしまったが、先生と酒を酌み交わす
			機会がなかったのだけが、返す返すも残念である。広瀬淡窓について先生と語りたかった。













暫く日田の町をブラブラしてみた。上は日田祇園山鉾の格納庫。





この図書館も確か広瀬淡窓の生家がモデルじゃなかったかな?元々咸宜園跡地にあった、日田市立図書館がここへ移転してきた。







長生園からまた豆田町方向へ戻る。











なんとこの辺りもかっては水没していたのである。昭和28年なら、私が3歳の時だ。今から60年前である。




		西国郡代のお膝元、天領の町として栄えた日田市内の隈町と豆田町には、往時の繁栄を偲ぶ町並みが残っている。
		豆田町は慶長6年(1601)に徳川方の丸山城の城下町として生れたところ。共に多くの古い家蔵が残っている。
		中でも豆田町には、当時の町割・地割・町道・用水路などが昔の侭残り、加えて名代官と呼ばれた塩谷大四郎正義
		に資金を調達した広瀬久兵衛(博多屋)をはじめ、丸屋・鍋屋・升屋など古い造りに伝統がしみ込んだ日田商家が
		甍を並べている。広瀬家では、私設の資料館として公開し、升屋の草野家は県指定有形文化財として保存されてい
		る。ここ数年町づくりの取り組みの中で新しく日本丸館・市山亭懐古館・宇治山哲平美術館がオープンさらに平成
		7年の秋にはクンチョウ酒蔵資料館がオープン。豆田町からつづく天神町や清水町でも往時の繁栄ぶりを誇る町並
		みがみられる。平成12年に御幸通の電線地中埋設が行われた。 























ここは撮影禁止で、キツそうなおばさんが入り口に座っていたので写すのはやめた。ま、文献以外あまり資料はなかったのだが。



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豆田町を抜けると三隈川(筑後川)の支流、「花月川」に出る。あの先に月隈公園があり、永山城趾、横穴古墳群があった。





城跡の石垣が見えてきた。









「花月川」へ戻って来た。河原の堤防は瓦付きの飾り土塀である。








			これが冒頭の「お主何モンや?」の正体です。街の一角にあったお店の店頭にあった。誰がサングラスを
			掛けたのかは知らない。


			日田市の博物館は無いのかと思って掻き集めた資料を見てみると、通りの外れに小さくポツンと記載があ
			った。いやな予感がしたが寄ってみることにした。案の定、「夏休みの友資料館」のような所だった。
			ま、博物館だからと言って何も歴史博物館でなくともいいのだが、これはなぁという気がする。
			資料には市の「埋蔵文化財センター」(最後尾の資料参照)があるようなので、発掘の遺物などは全部そ
			こへ展示してあるのだろうが、地図でみると遠そうで今回は断念した。





















			日田駅へ戻ってきた。日田には「日田バス」というバス会社があって各方面へ路線があるが、ドル箱は
			九州高速道路経由の「福岡−日田」を走る高速バスのようである。ここから乗れば私が降りる「甘木イ
			ンター」までは2つか3つ目である。1時間かからず着いた。





		
		埋蔵文化財センター」には行って見たかったが、もう現役時代のように五、六千円でもかまわずタクシーに乗るよう
		なゆとりは無い。年金生活者になってからは全く「貧すれば鈍す」だ。四方赤良ではないが、「それにつけても金の
		ほしさよ」である。



邪馬台国大研究/歴史倶楽部ANNEX/天領・日田を往く