AM10:00時に錦織さんと、山陽電鉄の須磨寺駅で待ち合わせをしたのだが、30分程早く着いたので付近の歴史散策を
	しようと思って案内板を探した。すると町内の掲示板に今日の「あゆみ観音ノミ入れ式」の案内があった。







敦盛忌なんてのをやってるんだねぇ。誰が回向するんやろ。今に残る平家一門というのは誰かおるんかなぁ。



上が山陽電鉄須磨寺駅。右へ行けば須磨寺商店街を抜けて須磨寺へ。昔は門前町だったんだろうな。









商店街を抜けて須磨寺へ。











桜寿院



仁王門へと続く「龍華橋」



仁王門



あうんの仁王様だが、・・・



なんと左手の仁王には口が無い!何かいわれがあるのだろうが付近に説明は無かった。珍しい!



千手観音



弘法石と五鈷水



源平の庭
	<源平ゆかりの古刹・須磨寺>

	須磨は源平興亡の舞台となった地で、須磨寺にも平敦盛の首塚などの史跡があり、須磨寺境内には源平の庭が作られ、平敦盛と
	熊谷直実の一騎打ちの場面を実物大のモニュメントで再現している。また、須磨寺宝物館には、平敦盛の青葉の笛、甲冑、書画
	などの展示源平ゆかりの品や、源平合戦にまつわる資料の展示、日本最古の一弦琴などが保存されている。他にも、境内には義
	経腰掛松、弁慶の鐘、敦盛首洗池といった史跡も残されている。





源平合戦の一場面を再現した源平の庭・日本庭園





源平の庭・平敦盛の像 熊谷直実の像

	<平敦盛と熊谷直実> 出典:ウィキペディア(抜粋)

	熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)の武将。熊谷直貞の次男。
	熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫[2]・維時の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない。
	直実の祖父盛方が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。
	平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生(れん
	しょう / れんせい)と号した。

	『平家物語』「敦盛最期」の章段における平敦盛との一騎打ちは、武家の性(さが)や世の無常観を表現する題材として後世武士
	の間で非常に好まれ、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』をはじめ様々な作
	品に取り上げられている
	寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参陣。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属。
	鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。しかし平家の武者に囲ま
	れ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。
 
	『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を
	呼び止めて一騎打ちを挑む。直実がむんずと取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐら
	いの齢だった。直家はこの戦いの直前に矢に射抜かれ深手を負っていたので、直実はその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだの
	である。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分か
	ることだ」と健気に答えた。これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことな
	ら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。

	その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥[4]・平敦盛と判明、齢十七だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)
	は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという。これ以後直実には深く思うところがあり、仏
	門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。




わらべじぞう





以下が本日のメインです。この為に来たのです。







須磨寺本堂。この中で「あゆみ観音ノミ入れ式」が行われた。

	須磨寺(福祥寺) 出典: ウィキペディア

	所在地   兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4-6-8 
	山号    上野山
	      真言宗須磨寺派の大本山。西須磨の台地は古くから須磨の上野とよばれており、山号はこれにちなんで上野山。
	      一般には須磨寺の名で知られているが、正式には福祥寺という。
	宗派    真言宗須磨寺派 
	寺格    大本山 
	本尊    聖観音
	      和田岬の海中から引き上げられ、会下山の寺に祀られていた聖観音像が、886年(仁和2年)現在の場所に移
	      され祀ったのが、須磨寺・福祥寺のはじまりといわれている。
	創建年   仁和2年(886年) 
	開基    聞鏡、光孝天皇(勅願) 
	正式名   上野山 福祥寺
	札所等   真言宗十八本山2番     新西国三十三箇所第24番  摂津国三十三箇所第7番  摂津国八十八箇所第88番
	      福原西国三十三箇所第7番  神戸七福神        神戸六地蔵客番      神戸十三仏 第11番
	      神仏霊場巡拝の道 第72番
	文化財
	重要文化財(国指定)	木造十一面観音立像 - 南北朝時代  絹本著色普賢十羅刹女像 - 南北朝時代
				本堂内宮殿(くうでん)及仏壇 - 南北朝時代(1368年)
	その他の文化財		不動明王立像(県指定文化財) - 南北朝時代(1369年)
				仁王像
				石造十三重塔(県指定文化財) - 南北朝時代
				鰐口(県指定文化財) - 南北朝時代(1366年)
				当山歴代古記録2巻(県指定文化財) - 南北朝時代〜江戸時代中期
				釣灯籠 - 南北朝時代(1360年)
				銅鐘(梵鐘) - 室町時代(1460年)
				平敦盛像 - 熊谷蓮生坊 作
				平敦盛出陣の像 - 狩野牧心斎 筆
				平敦盛像 - 狩野久蔵 筆
				青葉の笛 - 伝・平敦盛 愛用

	須磨寺(すまでら)は、兵庫県神戸市須磨区にある仏教寺院。真言宗須磨寺派大本山。山号は上野山(じょうやさん)。本尊は
	聖観音である。宗教法人としての公称は福祥寺。平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で引き上げた聖観音像を886年(仁和2年)
	に聞鏡上人が現在の地に移したのが始まりとされている。平敦盛遺愛の「青葉の笛」や弁慶の鐘、敦盛首塚、義経腰掛の松など、
	多数の重宝や史跡が存在する。源平を偲んで訪れる文人も多く、境内には正岡子規・松尾芭蕉句碑がある。

	<伽藍>
	本堂 - 1602年に豊臣秀頼が再建
	護摩堂 - 1903年に再建
	大師堂
	経木供養所
	本坊
	書院 源平の庭
	宝物館
	三重塔 - 1984年再建
	寺務所
	敦盛塚
	青葉殿
	奥の院 - 本尊弘法大師
	唐門
	仁王門 - 源頼政が再建

	<塔頭>
	正覚院 - 1938年再建、本尊は愛染明王(西国愛染十七霊場第6番)。
	桜寿院 - 本尊は阿弥陀如来。
	蓮生院 - 1934年再建、本尊は不動明王。院号は熊谷蓮生坊に因む。



右端に見えているのが太子堂。











上が本坊・書院




神功皇后釣竿竹



神宮皇后が三韓から帰って来て、肥前で鯛を釣ったときの釣り竿をここに埋めていたら生えてきたと言う竹。ホンマかいな。





「奥の院」への入り口だと書いてあったのでこっちへ来たのだが、ここからではすこぶる判りにくい。右側に三重の塔があるが修復中だった。




	須磨寺にはいろいろと不思議なもの、変わったものがありがあり、公式HPでは「おもろい寺」として紹介されている。亀の背中に
	乗った七福神がくるくる回る七福神マニコロ、見ザル・言わザル・聞かザル・怒らザル・見てごザルの手が動く五猿、目玉と首が
	回るぶじかえる、頭を触ると一絃琴の異国の丘が鳴るミーシャぐま、からくり時計など、思わず笑ってしまうおもしろいものがた
	くさんある。 



五猿でござる



あと二猿加わって七猿?この二猿は何やろ? 今だ悟り開かザル? お釈迦様から見捨てられてごザル?


平敦盛首塚





「・・・・・・・・・」









写真右下の熊を触ると「異国の丘」が流れてくる。自身も朝鮮に居た事のある錦織さんは感慨深げに聞いていた。





駐車場の下へ出たが、ここからでは奥の院へ行けそうも無いのでまた引き返した。本堂ではまだ勢山さんが参拝者の相手をしていた。







この弁慶の鐘の側から「奥の院」へ行く道があったので、こっちから登ることにした。







昼を過ぎていたので、須磨寺駅側のこの喫茶店でMIXサンドイッチを食べて大阪へご帰還。お疲れ様でした。



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