Music: 北帰行



中野正法寺


市民綜合センターから資料館の方へ少し戻り、西へまっすぐ行くとこんもりした林が見える。正法寺である。




	●中野正法寺 

	中野正法寺境内にある水槽は古墳時代の石棺の身で、国中神社にある蓋とは別のものである。これらの石棺の出土状況や、い
	つ頃から両地に保管されることになったのかは不明だが、正法寺跡附近の「双子塚」と呼ばれる古墳から出土した家型石棺だ
	と伝えられている。
	また、境内には十三仏板碑もある。これは「逆修」の十三仏である。逆修とは、老人が残って年少者が先に死んだ場合、老年
	者が亡き者の冥福を祈るとき、または生前に自分のために七日ごとの法事を行って、前もって自分自身を供養するためのもの
	である。(これは一体どんな意味があるのか、例えばセガレや親戚縁者の世話になんかならんぞという場合や、死んで金がな
	くなったら供養もしてもらえんかもしれんので、自分が金を自由に出来る生前に三十三回忌まで自分でやっておくというよう
	な事らしい。なんか現代でも十分あり得る話のような・。)



寺の前の畑のような所を掘っていたが、発掘かもしれない。





ここは古墳の石材を転用した石造物が境内にあるので有名だ。




	正法寺境内に置かれた石棺の身。この石棺の蓋は発見されていない。石材は流紋岩質火山礫凝灰岩で、兵庫県加古川市の平荘
	湖付近で産出された石と推定された。見た目は小さく、成人男性をそのまま入れるには小さすぎる気がする。子供用の石棺だ
	ったのだろうか。






	上左はいままで見てきたような十三仏であるが、上右側の「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字名号碑も石棺の蓋である。B−1。
	この板碑の上部に方形の突起が有り、背面の下部から斜めに上がる平坦部が残っており、これらの特徴から7世紀前半頃の刳
	抜式家型石棺の蓋と推定されている。
	昔からこの蓋の、身の部分がどこにあるのかが長年の謎だったらしい。平成25年に詳細な調査を行ったところ、この寺の入
	り口に掛けられた小さな橋(一番下の写真)がその身だと判明した。また六字名号碑の台座の石とその前に置かれた石(B−
	2)も、石棺身の小口部分を転用したものである事が判った。








	これである。橋の真ん中ゆるやかに太鼓状になっている部分(B−3)が石棺の底だそうだ。橋の両側に付いている耳石(B
	−4)は、石棺身の側部だ。
	六字名号碑が石棺の蓋、六字名号碑の台座の石とその前に置かれた石が、石棺身の小口部分、そしてこの橋が石棺の身と側部
	と判明し、石材の岩相、寸法、加工面と割れ面の検討から、同一の刳抜式家型石棺と判明した。石材は流紋岩質火山礫凝灰岩
	で、兵庫県高砂市伊保山付近産出とされる。写真の右に立っている石は古墳とは関係なさそう。

	驚きな、驚きな。まるまる一個の石棺をバラバラにして橋や石碑に利用したのである。いくら「南無阿弥陀仏」と刻んだとし
	ても、当時の寺の坊主がもしそれをしたのだとすれば、そんな坊主の言う説教などは誰も聞かんのじゃなかろうか。古墳の被
	葬者が化けて出そうな気もするが。





 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/195回例会・四條畷の歴史探訪