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奈良井遺跡


おそらくは、ここも奈良井遺跡の中だったと思われる、四條畷市民綜合センター横の公園で昼食。




	●奈良井遺跡 

	5世紀後半から6世紀後半にかけては、大阪の東大阪地方、生駒山麓や旧河内湖周辺の遺跡から、馬の骨の出土例が50を超
	えている。四条畷市では、5世紀中頃から6世紀中頃と見られる奈良井遺跡から6頭以上の馬の骨が発見され、うち1頭は丁
	寧に板の上に乗せられており、周辺に馬型土製品やミニチュアの人形などが出土している。この時代、馬を祭祀用に葬った事
	が推定できる。




	東大阪一帯が、「馬飼いの集団」が居住していた所であることを証明したような、古代史上では画期的とも思える遺跡なのに、
	この石柱1本というのはあまりにも悲しすぎる。説明板もない。しかもしかも、この建物が市民綜合センターときてはアング
	リである。この扱いで何が文化ぞ!と言いたくなる。復元遺跡にしろとまでは言わないが、せめて説明板くらいは立てておく
	べきではないか。






	当時(古墳時代中期:1500年前)の日本には馬はいなかった。四條畷は日本で最初に馬の牧場を開いた土地である。蔀屋
	北遺跡や中野遺跡や城遺跡は集落跡で、鎌田遺跡(現給食センター)、奈良井遺跡(市民センター)で馬の祭祀を行った。
	奈良井遺跡は、昭和45年市民綜合センター建設に伴う発掘調査で見つかった馬の祭祀場である。一辺40cmの四角いマウ
	ンドの上で祭りを行った。最大幅5m、深さ1〜1.5mの溝がマウンドの周囲を巡っていた。溝の中から馬が6頭分以上見
	つかったが、その中には、神に捧げる「いけにえ」にされた馬もあった。その他には土器やミニチュアの土器・人形・馬型の
	土製品などが出土している。




	馬の祭りで見つかった馬は、朝鮮半島から準構造船に乗せられて馬飼とともに四條畷にやってきた馬の子孫である。四條畷で
	育った馬は権力者のもとに届けられ、権威の象徴とともに、通信・運輸・軍事力に大活躍した。馬は大きな役割を果たすので
	またたくまに普及した。最近の調査で、山すその木間池北方遺跡や城遺跡まで集落が広がっていることがわかった。これまで
	は馬飼い集団の墓域(大上古墳群)と考えられていたが、川跡から、甑(こしき)や取っ手付き鍋などの韓式系土器とミニチ
	ュア高杯がかたまって出土した。この調査では、他にも韓式系土器だまりが多く見られ、今までにない様相をみせている。
	尚馬歯も出土している。この地域では後期の古墳が多くみられるが、今回の調査で前方後円墳も見つかった。

	また、蔀屋北遺跡では馬一体分が出土したり、準構造船をリサイクルした井戸などが発見され、馬飼い集団の大集落と話題に
	なっている。




センターの中にも出土物の何点かが展示してあったが、ここにも説明板はない。四條畷が誇れるせっかくの遺跡なのに。




	資料館で見たように、ここで馬の首を切って神にお供えする祭りが行われていたのである。長方形をした馬のまつり場には溝
	がめぐっていた。(下の写真。上が北。)





	祭祀場をとりまく溝。幅は広いところで5メートルぐらいである。この溝から5世紀後半〜6世紀初頭の土器類や人や馬の形
	代や馬の骨がなどが見つかった。儀式に使用した後に溝に捨てたと考えられる。同じ土器が固まって見つかるのが特徴である。
	溝は生活空間と聖域を区切る役目をし、常に水がたまっていたと思われ、水際に生える植物の種も見つかっている。




	この遺跡は昭和54年にこのセンター建設に伴って発掘調査された。遺跡は馬の祭祀を行った場所で、祭りに使った土器類を
	はじめ、馬は7頭分以上出土している。馬はもちろんのこと、人や馬の形代やここに展示されているようなミニチュアの土器
	はこの遺跡を特徴づけるものである。祭祀場は、右側の道路で分断されていて、ほぼ半分だけが発見された。 




	古墳時代の四條畷市は河内湖湖畔にあった。馬は古墳時代の中頃、朝鮮半島から準構造船(若しくは構造船)に乗って四條畷
	にやってきた。難波の津から河内湖に入ってきて四條畷で馬をおろした。そして生駒山西麓に拡散した渡来人達によって飼育
	されたものと思われる。四條畷あたりから大東、東大坂一帯に掛けてに飼育されたようである。 


郷土資料館にあった準構造船の模型。小さな馬が乗っている。




	四條畷では、清滝川と岡部川のまわりを中心にして牧があった。古墳時代四條畷市は、西に湖、東に生駒山系の山並みにはさ
	まれた場所にあり、先程の資料館のおじさんの話では、山系からは幾筋もの川が流れ出していて、牧の柵の役目をはたしてい
	たそうだ。湖畔や川辺には馬の好む草々がたくさん生えていて、起伏に富んだ地形も、馬を訓練するのには最適だったかもし
	れない。四條畷の牧で育った馬は、やがて大和王朝を打ち立てる豪族や地元の有力渡来人などに供給されたものと思われる。
	或いは、そういう一族そのものが飼育していたのかもしれない。そして馬という機動力と、文字通りの馬力が大和朝廷を樹立
	させる原動力だったのかもしれない。




	奈良井遺跡(ならいいせき)

	アクセサリーとしては、まず滑石(かっせき:一般に「ロウ石」と呼ばれている石)でできた勾玉(写真左上)があります。この
	勾玉は、穴が二つありますが、ひとつは貫通していません。これ以外に、滑石の臼玉(うすだま:ビーズ)も多く出土していま
	す。
	直径は4mmから7mmほどととても小さく、普通に発掘していても見つけることはできません。こういった小さいものは、発掘し
	たあとの土を持って帰り、水で洗いながらフルイにかけて探します。また、土製の玉も出土したほか、貴重なガラス製の小玉
	(ビーズ)も見つかりました。直径約3mmで、澄んだ水色をしています。
	お祭り用具としては、滑石製の有孔円盤(ゆうこうえんばん)と紡錘車形石製品(ぼうすいしゃがたせきせいひん)があります。
	有孔円盤は、穴があけられ円盤形に加工してあるもので、銅鏡をイメージして作ったものといわれます(写真右上の2点)。紡
	錘車形石製品は、糸つむぎに使う紡錘車ですが、今回出土したものは表面に細かい紋様があり、お祭り用のものと考えていま
	す。
	【広報四條畷 平成23年6月号掲載】より抜粋。

	今回は、発掘調査の成果について簡単に触れたいと思います。
	平成23年3月に、市民総合センターの駐車場入り口の向かいの場所で、ガス施設の設置工事に伴い発掘調査を行いました。
	発掘した奈良井遺跡は、中野三丁目を中心としていて、市民総合センター建設の際に発掘調査を行い、古墳時代の中ごろから
	終わりにかけて(約1400〜1600年前)、一辺が約40mある、馬に関わる祭りを行っていた場所が見つかった遺跡です。この祭り
	場は、溝で取り囲んでいて、その中で馬を「いけにえ」として神様にささげていた場所でした。しかし、この祭り場は全体が
	見つかったわけではなく、東側はどんな形なのかまだよく分かっていませんでした。
	今回の調査で、この、馬の祭りをしていた場所を囲む溝の東側の続きの部分が見つかりました。溝からは、四條畷の古墳時代
	のものとしては初めてとなる赤く色を塗った土器や、ミニチュア土器、勾玉などが見つかりました。いずれも、生活に使うも
	のではなく、祭りの時に使われるもので、当時の人々がどんな祭りを行っていたかを考える材料になります。また、馬の歯や、
	馬に与える塩を作る土器など、実際に馬がいたことを示すものも見つかりました。

	【広報四條畷 平成23年5月号掲載】より







 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/195回例会・四條畷の歴史探訪