Music: 北上夜曲



和田賢秀の墓




四条畷市南野4丁目、旧国道170号線(東高野街道)に面している。墓の前は「塚脇」というバス停である。墓は大阪府史跡指定。




	<和田賢秀>	出典:ウィキペディア

	和田 賢秀(わだ/にぎた? けんしゅう)は、南北朝時代の武将。名は「かたひで」とも読まれ、また源秀(げんしゅう)とも記
	される。四條畷市の墓所石碑には、正面に『和田源秀戦死墓』と刻まれている。
	楠木正季の五男(末男)で、楠木正成の甥。湊川の戦いで伯父・父らが戦死した後、楠木一門の棟梁となった従兄弟の楠木正行に
	従い、共に勢力を回復していった。
	楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦している。正平2年(1347年)に紀伊国の隅田一族を、また河内国で細川
	顕氏や山名時氏を打ち破った。
	正平3年(1348年)正月、四條畷の戦いで敗れ、正行らが自刃した後高師直の陣に潜入していたところをかつて味方であった湯浅
	本宮太郎左衛門に討たれた。討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で死んだとされており、土
	地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様(はがみさま)、転じて歯神様として祭っている。




	●和田賢秀の墓

	和田賢秀は楠木正成の弟正季の子で、楠木正行とは従兄弟同士である。父正季は兄正成と湊川の合戦でともに戦死したが、賢秀も
	1348年(正平3年)1月、四條縄手の戦いで、正行、正時兄弟と行動をともにし、正行兄弟が戦死した後、単身高師直の陣に
	深く進入し戦死している。かつて味方であった湯浅党の者に背後から討たれ、戦死した時の賢秀の年齢20歳前後だったという。
 	また、賢秀は剃髪して新発意(しんぼっち)と称して合戦に臨んだとも伝わり、和田の新発意とも呼ばれている。








	墓石は高さ約1.2m、正面には「和田源秀戦死墓」とあり、『ふるさと四条畷』誌によると、墓石の裏面に「むかし問へは すす
	き尾花の あらし吹く 天保二年(1831年)九月 浪華 永田友之誌」と刻まれている。この墓地は四条畷神社の管理下にある。





「噛みついて離さなかった!」「壮烈やな」「痛かったやろねぇ」「死んだくらいやからな」「裏切りもんは、ほんでええねん」



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/195回例会・四條畷の歴史探訪