Music: 荒城の月



弥勒寺・十三仏板碑



	●弥勒寺 

	阿弥陀仏を本尊とする浄土宗。弥勒信仰に関する民話がつたわる。古くから農業用水として使われた権現川沿いにあり、この
	川も民話に登場する。この寺の起源は、資料がなくあまりよくわかっていない。境内に高さ2mの十三仏板碑があり、1670年
	の舎利吹観音縁起の存在から察して由緒ある寺院で、開山は江戸時代以前にさかのぼるのではないかと考えられている。

	(弥勒寺に伝わる民話)舎利吹観音
	1670年の頃、音羽というそれは美しい娘がいました。村一番の器量よしと評判の娘を両親は宝物のように大事に育ててい
	ました。ところが、ある日のこと、娘の顔一面に吹き出物です。はやり病の疱瘡にかかってしまったのです。美しい顔は見る
	も無惨な姿です。「おおー、なんてこった。かわいそうな。」「なんとかしてやらないと。・・・」両親は何とかして娘の顔
	を元通りに戻してやりたいと考えました。「そうだ、・・・3人で弥勒寺の観音様におすがりしよう。」娘と両親は観音堂に
	籠り、必死に祈願しました。「観音様、どうか娘の疱瘡を治して下さい。」「観音様、どうぞ私の顔を元通りにして下さい」
	と祈り続けました。満願の10日目の朝のことです。「音羽、おとわの顔が・・・・・」両親は娘の顔を見てびっくりしまし
	た。音羽は元通りのまぶしいばかりの美しさです。親子は手を取り合って喜びました。さっそく観音様に御礼を申し上げよう
	と顔を上げると、どうした事でしょう。観音様は全身に汗を流し胸棟には舎利が吹き出ていました。「観音様が娘の身代わり
	になってくださったのだ。」親子はあらためて観音様に御礼をのべ、涙を流して慈悲に感謝しました。






	●十三仏板碑 

	この十三仏は、永禄2年(1559)の年号や「逆修」という文字が刻まれている。逆修とは、通常は親より先に死んだ若い者の
	冥福を年長者が祈ることだが、ここに刻まれた「逆修」は、自己の死後の冥福を祈るために建立したものという。
	一番下の列の右から左へ、「初七日」「四十九日」「一回忌」と法要を司る仏で、それから一段上がり、今度は左から右へ、
	「三回忌」「七回忌」・・と進んでいくのだそうな。一番上が、「三十三回忌」を司どる虚空蔵菩薩で、これを1年でやって
	しまう(1年間お参りする?)と、生前に自分の供養をしてしまうことになるそうだ。

	天正20年(1592−安土桃山時代)につくられたもの。平らな石の前面に十三体の仏像が彫られているのが、「十三仏板碑」
	と呼ばれ、中世の仏教信仰を物語る石造物である。




	仏教では、人が亡くなると死者の追善供養のための仏事が営まれる。このうち初七日から三十三回忌までの十三回の供養には、
	十三の仏(如来)・菩薩が配され、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・
	阿弥陀如来・阿閃如来・大日如来・虚空蔵菩薩の十三菩薩がそれぞれ司る。四条畷市には、7基の十三仏があり、5つは平野
	部に2つは山中にある。



	十三仏板碑の場所から振り返ってみれば飯盛山が見える。
	飯盛山は生駒山系に属し、標高314mのこんもりとした山で北西方から見るとちょうど飯を盛った形に見えることからこの
	名前が付いた。戦国時代、飯盛山に畠山氏の家臣、木沢長政によって飯盛城が築かれる。その後、四国から出た三好長慶は畠
	山氏と争い、永禄3年(1560)11月13日に飯盛城の城主となる。
	長慶はこの飯盛城を本格的な山城とし、勢いを近畿一円に振るい、キリスト教布教を認めたりしたが、やがて織田信長の近畿
	平定によって終りを告げる。
	また、飯盛城の出城としての機能を果たしたのが四条畷市上田原にある田原城である。城から北に400m離れたところの発
	掘調査(平成6年)で「千光寺」の刻印瓦が発見され、田原城主とその一族の菩提寺千光寺で有ることが明らかになった。
	千光寺は地元で伝説として残ってはいたが、その場所は不明だった。また城主の墓から中国龍泉窯で焼かれた最高級の青磁袴
	腰香炉が完全な姿で発見され、大阪府指定文化財となった。この香炉は、「歴史民俗資料館」に保存されている



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/195回例会・四條畷の歴史探訪