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四條畷神社


小楠公の墓を出たらすぐ大きな四條畷神社の鳥居があって、飯盛山まで道が一直線に続いている。




	四條畷神社   出典:ウィキペディア

	所在地  :  大阪府四條畷市南野2丁目18番1号 
	主祭神  :  楠木正行 他、楠木一族の将士24柱を配祀している。
			(楠木正時、楠木正家、楠木正家子息、和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、
			 和田紀六左衛門子息、大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息、
			 金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息、河邊石掬丸、
			 譽田(某)、阿間了願、青屋刑部)
	社格等  :  別格官幣社・別表神社 
	創建   :  1890年(明治23年) 
	札所等  :  神仏霊場巡拝の道61番(大阪20番) なにわ七幸めぐり 
	例祭   :  2月12日 

	四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、大阪府四條畷市にある神社。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
	南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神としている。父の楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれる
	のに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公
	さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く
	地名が複数誕生している。境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。

	河内国讃良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があった。明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正
	行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公
	と呼ばれ崇められるようになった。それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も拡大した。
	同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、1889年(明
	治22年)に神社創立と別格官幣社四條畷神社の社号の宣下が勅許され、翌1890年(明治23年)に住吉平田神社の南隣の地に創建し
	た。
	当社創建以降、1895年(明治28年)に浪速鉄道が大阪市中心部から当社近くの四條畷駅まで開業するなどして四條畷神社周辺は大
	いに栄える事となり、所在地の讃良郡甲可村(南野村ほか6ヶ村合併による)には「四條畷」と付く施設が次第に増え、「四條畷」
	は甲可村の別称のようになって行った。1932年(昭和7年)に甲可村はついに四條畷村に改称するに至り、これが現市名にまで継承
	されている。同年には浪速鉄道から転じて国鉄路線となっていた片町線の四条畷駅以西において関西国鉄初の電車運転が開始され
	るなどして、四條畷神社創建をきっかけに周辺一帯は北河内地方随一の大市街地に発展してその賑わいは現在も続いている






	●【四条畷神社】 旧別格官幣社。主神は楠木正行。明治23年創建。

	四条畷神社は生駒山系・飯盛山の西山麓にあって南北に東高野街道が通じ大阪から京都・奈良・高野山や吉野方面を結ぶ交通
	の要衝でもあり、軍事戦略的な要地でもある。正平3年(1348)1月京都へ向う南朝方の正行軍と、待ち受ける北朝方・高師直
	の大軍とが激戦におよび、その戦いに散った正行の忠誠を顕彰するために、主祭神:楠木正行、配祀神:楠木正時・楠木正家
	・和田賢秀ら一族の将士24柱が合祀されたもの。脇殿に正行の母を祀る御妣(みおや)神社がある。



上の石段を登り切ったところの石柱に何やら難しい言葉が刻んであって、
それは下の文章から取った文字だという。肝心の石柱を撮った写真が無い。









上は「桜井の別れ」の場面である。島本町の桜井にも同じ石像がある。昔は「桜井の別れ」という歌もあって、古い人は皆知っている。






	地元から出た神社創建の願出に、明治22年(1889)に勅許がくだり、地元民の土地や金品の寄進、作業奉仕等もあって翌明治
	23年に現在の拝殿他が完成した。勅許とともに「四條畷神社」という名前を拝領し、その名前はやがて、駅名、郵便局名、
	警察署名等々に付けられて、とうとう村名を経て現在の市名にまでなった。

	★ 明治28年には汽車が開通し「四條畷駅」ができる。
	★ 大正14.5年頃、郵便局や警察署がそれぞれ「四條畷郵便局」「四條畷警察署」と改称。
	★ 昭和7年、甲可村名を改めて「四條畷村」となる。
	★ 昭和22年、「四條畷町」となる。
	★ 昭和36年、田原村と合併。
	★ 昭和45年、「四条畷市」となる。













本殿左側に小さな拝殿があって、こちらは楠木正行の母、つまり楠木正成の妻を祀った御妣(みおや)神社である。







石段を降りてきた鳥居の裏の、献上碑文。栗本さんは、学生時代に親がこの保険に入れてくれていたそうである。驚きな!

	富国生命保険(旧富国徴兵保険)相互会社   出典:ウィキペディアより抜粋

	富国生命保険相互会社(ふこくせいめいほけん、英称:Fukoku Mutual Life Insurance Company)は、日本の生命保険会社である。
	略称はフコク生命。1923年(大正12年)11月創業。本社は東京都千代田区内幸町2丁目2-2にある。本社機能の一部は千葉ニュータ
	ウン本社(千葉県印西市大塚2-10)にある。
	日本国内の保険会社としては、大きな方ではないが堅実な経営で長い歴史を持つ会社である。元来は根津嘉一郎が1923年(大正12
	年)に興した<徴兵保険会社であり、富国徴兵保険と称していた。
	戦後、生命保険会社に転換。旧根津財閥系企業に属すが、戦後日本勧業銀行と親密な関係を築き、「勧銀十五社会」(のちに第一
	勧銀グループとなる)のメンバーとなる。このため、現在も同行の後身であるみずほコーポレート銀行・みずほ銀行が属すみずほ
	フィナンシャルグループとは親密な関係を保っている。また、旧安田生命保険(現明治安田生命保険)とも親密な関係であり、同
	社の合併までは顧客サービスなどの面で提携を行っていた。
	2006年(平成18年)に共栄火災海上保険株式会社(以下「共栄火災」)と業務提携。 共栄火災の子会社だった共栄火災しんらい生
	命保険株式会社の株式の80%を譲り受け、共栄火災しんらい生命保険株式会社を2008年(平成20年)2月1日、フコクしんらい生命保
	険株式会社に社名変更した。東武タワースカイツリー株式会社の建設・運営する「東京スカイツリー」のオフィシャルパートナー
	である。「最大たらんよりは最優たれ」の理念を掲げ、「もし自分がお客さまであったら」と考える「お客さま基点」での営業を
	大切にしている。



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