Music: おぼろ月夜
小楠公の墓
●楠木正行(小楠公)の墓
四条畷駅をでて、5,6分で「小楠公の墓」へ来る。元弘元年(1331)、後醍醐天皇は多くの武将を味方に引き入れ鎌倉倒
幕の兵を挙げ、時の執権北条氏を倒した。(建武の中興)。南河内の千早赤阪村の居城にいた楠木正成(まさしげ)も、後
醍醐天皇の命を受け兵を挙げた。後醍醐天皇は武家政治を廃して皇族による親政を目指すが、次第にそれに不満を抱く武将
達に推されて間もなく足利尊氏が反旗を翻す。尊氏は一度は楠木正成に敗れ九州へ敗走したが、西国で大軍を集めて再び京
都に進攻してきた。延元元年(1336)、楠木正成は手勢七百余騎を率いて湊川(神戸市)に出陣し、数万の足利軍と戦った
が、遂に全滅した。
現在、没したところには「湊川神社」が建てられている。楠木正成は一族郎党とともに自刃して果てたが、湊川へ出陣する
前、嫡男正行(まさつら)と桜井駅(大阪府三島郡)にて訣別する。その時正行11歳であった。
正行は、正成戦死の報を聞き、自害しようとするが母に押しとどめられ、以来母に孝養をつくして読書練武に励み機会を窺
う。正行は湊川の合戦以後も父の遺訓を守って足利氏に対抗。櫻井駅の別れから11年後の正平2年(1347)8月、北朝方
の隅田城を攻め、この合戦を皮切りに北朝軍と歴戦し、正平2年(1347)12月、吉野で後村上天皇に拝謁し忠誠を誓う。
そのとき如意輪堂の板壁に残した辞世の句、「かえらじとかねて思えば梓弓 なき数にはいる名をぞとどむる」の句は有名。
楠木正成一門の紋所、菊水紋である。神戸の湊川神社へ行くと、近くの和菓子屋でこの菊水紋が付いた最中を売っている。
翌正平3年(1348)正月五日、足利尊氏の執事、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の率いる6万の大軍と四
条畷で対峙する。正行軍は、わずか3千騎で決戦を挑み、朝10時頃から夕刻に至る激戦の末力尽き、父同様、弟正時と刺
し違えて自刃した。享年23歳。
現在、この後訪問する飯盛山山麓の四条畷神社(四条畷市南野2丁目)には、正行を主神に正時・正家ら一族24人が祀られ
ている。楠木正成の「大楠公」に対し、正行は「小楠公」と敬称される。
楠木正成は、天皇を守護するため、勝目の無い戦いに死を覚悟して挑み、そして最期に臨んで「七たび人と生まれて、逆賊
を滅ぼし、国に報いん」と語ったと伝えられる。「七生報国」という言葉はここから来ている。不利を覚悟で正統の天皇を
守るその思想は、明治維新の思想的原動力ともなった程で、「忠君愛国」「滅私奉公」の精神も、楠木正成に由来している。
私がこの親子を好きなのは勿論こういう思想のためではなく、勝算のない戦に立ち向かう、いわば孤高な戦士としての姿に
惹かれるからなのだが、楠木正成親子が好きだというと、時々誤解される。
義経伝説同様に、正行も生き延びて天寿をまっとうしたという説もある。正行と最後まで行動を共にした南朝方の熊野水軍
や和田氏に守護されての鹿児島の甑島(こしきじま)へ渡ったというのである。墓も甑島にあるそうで、いつの世も判官贔
屓は健在だ。正行の自刃後、正行は四條畷神社に一族とともに葬られている。小楠公首塚というのが京都市右京区の清凉寺
前にもあるが、確かなところは不明である。
正行の死後約80年経って、ここに小さな石碑が建てられていたが、その後誰かがその小さな石碑の近くに楠木を2本植えた。
その2本は生育するに従って、小さな石碑を挟み込み、1本の大木になった。今では樹齢575年、幹周り12mの楠の巨木
になり、大阪府の天然記念物に指定されている。現在の供養塚の石碑は、大久保利通自筆の銘で明治十一年に建てられた。
上下が、石碑を挟み込み1本の大木になった楠木である。元々あった石碑は完全に楠木に取り込まれてしまっている。
ここから東へ真っ直ぐ15分程歩けば、楠木正行他24人を祀った四條畷神社へゆく。飯盛山の麓である。
邪馬台国大研究/歴史倶楽部/195回例会・四條畷の歴史探訪