Music: 夜霧のめぐり逢い




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	歴史倶楽部198回例会・おもしろ歴史フェスティバル参加
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	第3回おもしろ歴史フェスティバル

	歴史フェスティバル実行委員会では、奈良県が推進する「記紀・万葉プロジェクト」と併行して、歴史素材を採り入れた参加体
	験型のイベント「第3回おもしろ歴史フェスティバル 歴史を愉しむ」を開催します。
	多彩なゲストも招き、奈良に眠る歴史ロマンの魅力を全国に向けて発信いたします。ぜひ『記紀・万葉』の醍醐味を体験くださ
	い。
	■【問い合わせ】奈良新聞社 歴史フェスティバル係 電話0742(32)2112
	 【主催】 歴史フェスティバル実行委員会 
	 【共催】 奈良新聞社、国営飛鳥歴史公園 
	 【後援】 奈良県、奈良県教育委員会、天理市、橿原市、桜井市、御所市、大和高田市、香芝市、葛城市、宇陀市、斑鳩町、
	      田原本町、高取町、明日香村、広陵町、吉野町、明日香村教育委員会 
	 【特別協賛】 村本建設株式会社 
	 【協賛】 大和ハウス工業株式会社、株式会社井上地所、奈良県遊技業協同組合、ハラダ株式会社、
	      株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモ、他 
	■日 時 :平成26年5月24日(土曜日)
	■集 合 :JR(近鉄)天理駅 AM9:00集合
	■アクセス:各自考えて来て下さい。
	■持 参 :弁当、替着、防寒着、雨具他
	■コース :各資料を参照
	■概 要 : 同上

	2014年春号(3月発行、だったかな?)の「季刊邪馬台国」の背表紙にこのイベントの案内記事が載った。早速メイルで主催者
	の奈良新聞へ、歴史倶楽部面々の氏名、住所、年齢(これは当てずっぽ)等々を書いて申しこんだらどうやらまだ一般公募する
	前だったらしくて、我々が一番乗りのようだった(電話で詳細を聞いた時、担当者がそう言っていた)。

	私は午後石舞台で行われる渡辺真理ちゃん司会の「邪馬台国バトル」に参加したかったので、当然それに間に合うように午前中
	のウォーキングもスケジュールされているのだろうと思っていたが、最初のメイルはJR天理駅集合となっていたので、皆さん
	にその旨を伝えた。すると2,3人から、「朝9時に天理に集合して、午後一で石舞台までは行けんで」とか「こりゃ、えらい
	強行軍のウォーキングになるんとちゃう?儂そんな歩けんで」という質門が相次いだので、慌ててまた奈良新聞へ電話してみた。
	すると「あ、そう言われればそうですね。ちょっと待って下さい」と言って担当者がどこかへ聞きに行った。程なく「どうも天
	理からバスで移動してちょこちょこウォーキングするようですね。午後石舞台には間に合うようですよ」との事だった。
	我々は(と言うか私は)、まだ詳細が決まる前に申しこんでしまったもののようだ。安心して第198回例会は飛鳥のイベント
	参加という事になった。

	






ここでの資料写真は、上記の本日貰った各種資料から転載してある。また、写真は赤枠が西本さん、青枠が郭公さん提供である。




天理駅前集合



		ところが、ところがである。私は前夜、現役時代の部下だった「●崎くん」の定年退職祝いに呼ばれて、梅田、難波
		とハシゴして、AM2:30迄宗右衛門町で呑んでいたのだ。
		呑んでる間、この例会の事はすっかり忘れていた。家に帰って気づき、大急ぎで弁当の下拵えをしてベッドへ行った
		のは3時半を廻っていた。
		翌朝、横で寝ているwifeから、「今日どっかへ行くとか言ってなかった?」と起こされた。まだしこたま酔っていて、
		その時点でも何も思い出さず、「いや、今日は何も予定無いで」とwifeに返事して、念のためにと書斎へ行きカレン
		ダーを確認したら、なんと大きく赤で「例会」と書いてある。「あぁーっ、えらいこっちゃ。今何時や!」と時計を
		見ると8時過ぎ。ありゃりゃ。
		大慌てで西本さん、河内さんへ電話してAMのウォーキングには参加出来ない、直接飛鳥へ行くと連絡して、大急ぎ
		で弁当を作り家を飛び出した。「行ってくるわ」と声を掛けたがwifeは熟睡していた。

		

		という訳で、AMの写真は西本さんと郭公さん提供のもののみ。私は近鉄で「飛鳥駅」へ行き、二日酔いでふらふら
		しながら、ちょうど一時間歩いてバスが着く「万葉館」の前で30分みんなの到着を待っていた。
		いつか野洲駅で河内さんを2時間くらい待たせた時に次いで焦った。皆さん申し訳ありませんでした。二度あること
		は三度と言いますから、もう一回くらいやるかもしれまへん。平にご容赦。






新会員竹内さん(左端)も参加。前回から参加されているが、私はこの日が初めてのご対面だった。



これが本日の参加者10名。午後私が加わって11名になったが、松ちゃんが2時で帰ったので結局10名。



				主催者側の説明を聞く皆さん。このイベントの主宰は「歴史フェスティバル実行委員会」
				だが、実際は共催の奈良新聞社が一番金を出しているのではなかろうか。





コースの説明、集合時間、注意事項等々の説明を受けている(ものと思われる)。





一番手前のエジプト帽子は杉本さんですな。



説明が終わりバスに乗り込む倭が歴史倶楽部の面々。うう、行きたかった。



		ちなみに本日はバス8台で、総計280人の参加者だそうだ。みんなを待っているとき「万葉館」に待機している奈良
		新聞の人と談笑して色々と話を聞いた。今年は3回目だが、去年は4,5人の行方不明者がでて探すのにおおわらわだ
		ったそうな。バス代は勿論無料。



当日配られた奈良新聞のイベント特集号









黒塚古墳&黒塚古墳展示館


	天理市立黒塚古墳展示館 出典:ウィキペディア

	天理市立黒塚古墳展示館(てんりしりつ くろづかこふんてんじかん)は奈良県天理市にある博物館。開館日は2002年10月12日。
	古墳時代初期の前方後円墳である黒塚古墳から1998年に国内最多の三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面、大量の鉄製刀剣類、U
	字形の鉄製品などが出土した。これらの調査成果を公開・活用するために、天理市により、黒塚古墳の周濠だったと考えられる
	池の東畔の公園内に開設された施設である。
	館内は、1階の吹き抜け下に黒塚古墳の石室が原寸大(長さ8.3m)模型で再現されており、2階の吹き抜け上から1階の石室全体を
	見渡すことができるようになっている。ほか1階では鉄器など黒塚古墳出土品のレプリカを展示して古墳時代の大和と黒塚古墳に
	ついてパネルで紹介、2階では出土した三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面の精巧なレプリカを展示している。なお出土品の実
	物は保存処理を施された上、奈良県立橿原考古学研究所にて保管されている。





私は、この古墳の「発掘調査現地説明会」にも行った(16年前:98年)が、雨の中2時間並んで見るのは一分半くらいだった。
それから3,4回は来たと思う。同窓会の連中や、郷里の歴史好きや就職浪人時代の仲間達を案内してきた。



二人とも同じモノを写しているとは余程印象が強かったんでしょうなぁ。使途不明の製品だが、私見では恐らく馬具の一部品では無いかと。



				被葬者の頭部に一枚だけあった画文帯神獣鏡。三角ブチは全部遺体の廻りに並べられていて、
				ここを発掘した河上邦彦氏(元橿考研博物館長、神戸女学院教授)は、「三角ブチ神獣鏡は
				日本人が造った、或いは日本人が指図して渡来人が造ったと考える」と言っていた。








	黒塚古墳 出典:ウィキペディア

	黒塚古墳(くろつかこふん、くろづかこふん)は、奈良県天理市柳本町にある前期(3世紀末頃)前方後円墳。33面の三角縁神獣
	鏡が出土したことで有名。
	本古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群に属し、台地の縁辺部に立地している。最初に発掘調査が行われたのは1961年
	(昭和36年)の事前調査であり、後世に城郭として利用されたことがこの時分かった。また、1989年(平成元年)、周囲の池の護
	岸工事の事前調査が行われている。1997年(平成9年)から翌年にかけて学術調査が奈良県立橿原考古学研究所によって行われ、
	規模と墳形が明らかになった。
	全長約130メートルの前方後円墳で、後円部径約72メートル、高さ約11メートル、前方部長さ約48メートル、高さや6メートル、後
	円部3段、前方部2段で前方部と後円部の落差が大きい。前方部正面にわずかな弧状のふくらみが見られ撥形であることが分かる。
	これらは、前期古墳の特徴である。周濠を持っている。葺石や埴輪は確認されていない。

	1997年(平成9年)から翌年にかけて奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、
	副葬当時に近い状態で発見された。
	棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡と両側に刀1・剣1をおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向
	けて木棺と壁のわずかな間に立てられていた。三角縁神獣鏡のこの扱いにより、この鏡が葬式用に作成されたもので価値のあるも
	のでは無い(つまり小林行雄による大和政権の配布説を否定)との見解を補強したとの解釈もある。鏡の他に刀剣類や鉄鏃・小札
	(こざね)・用途不明の鉄製品などが配置してあった。玉類や腕装飾品類は出ていない。

	後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長約8.3メートル、北小口幅0.9メートル、高さ約1.7メートルで、二上山麓の春日山と芝山
	の板石を持ち送りに積んで合掌造状の天井を作り出している。石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1メートル以上
	の刳抜式木棺が納められている。木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ水銀朱を施し、両端はベンガラの赤色で塗られてい
	た模様である。水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。なおこの縦穴石室は、ほぼ真北を向いており、被葬者の
	頭も真北に向けられていたことは推定できる。この真北は単なる偶然ではなく、ヤマト王権の中に被葬者の頭を真北に向けて埋葬
	する風習があったらしいと考えられている。

	古墳は天理市によって整備が行われ、柳本公園となっているほか、古墳に隣接して竪穴式石室の実物大模型などを展示する「天理
	市立黒塚古墳展示館」が設けられている。平成13年(2001年)1月29日国の史跡に指定された。
	戦国時代には古墳に柳本城を築城、江戸時代織田家が城跡に柳本陣屋を構築し柳本藩藩庁とした。













[奈良県立万葉文化館]の前でバスを待つこと30分。一番最後のバスでみんなが降りてきた。



バスから降りてきた皆さんと、万葉館側のベンチで昼食を取る。そこにあった飛鳥展望台の説明
私はやっと二日酔いが抜けた時で、作ってきた弁当を三分の一くらいしか食えなかった。







		私は歩いていないけれど、西本さんが私の分も申しこんでいてくれて、参加賞を貰った。米一合を平たい板のように圧縮した
		もので、オコメールなんて変な語呂合わせだなと思っていたら、日曜日に家に風呂入りに来たセガレが、「へぇ、こんなんで
		郵便出せるのか」と言ったので、あ、ハガキなのかと気づいた。それでオコメールなのだった。

		ちなみにセガレは、JR駅の一つ先に居るのだが、我が家が2週間前にリホームして風呂が新しくなったので、「ホテルの風
		呂みたいだ」と言って土日になると風呂に入りに来る。ま、給料前の仕業だね。COOL Boxも持参して、帰り際には我が家の冷
		蔵庫から冷凍食品などを持って帰る。


伝飛鳥板葺宮跡




	<伝・飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)/飛鳥浄御原宮遺跡(あすかきよみがはらのみやいせき) >

	●飛鳥京 (あすかきょう、あすかのみやこ)・・・明日香村一帯にあったと想定される古代都市の、主に飛鳥時代のものを指し示す名称。
	●7世紀の宮殿の遺構だとされ、日本書紀などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えらる。
	●時期の異なる遺構が重なって存在・・ I期、II期、III 期遺構と3つに分類される。それぞれ I期が飛鳥岡本宮、II期が飛鳥板蓋宮、
	 III期 が後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の遺構。
	●III期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視。
	●伝承より板蓋宮の跡だとされてきた。初期の発掘調査で見つかった遺構について国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいた
	 ぶきみやあと)として登録。この名称が流布。
	●遺構の全体の範囲はまだ不明。範囲特定のための発掘調査も行なわれている。
	●「飛鳥京跡」といえば上記の宮殿遺構を指すことが一般的ではあるが、宮殿遺構の600ル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と指し示さ
	 れたり、また、宮殿遺構の北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池遺構」と紹介されることもあり、
	 「飛鳥京跡」が指し示す対象範囲は人と場合により必ずしも一定ではない。





入鹿はここで首を刎ねられ、首は300m程飛んで現飛鳥寺の南に落ちた(と言う)。



ここから明日香村の中を歩き、石舞台まで約20分程。昔「飛鳥鍋」食ったねぇ。

	<飛鳥時代>

	●飛鳥時代・・・1900年前後に建築史・美術史で初用。提唱者は関野貞と岡倉天心。
	 関野は、・・・朝鮮の芸術が影響を与えた時代。推古朝から大化改新ごろまでとする。
	 岡倉は、・・・仏教伝来(552年説)から平城遷都(710年)まで。飛鳥に都の時代。
	 日本史では、・推古朝ごろから平城遷都までを呼ぶことがあるが、意味が確定しない。7世紀前半とか、天武朝とか、世紀や天皇
	 の名前を使うことが多い。
	●飛鳥の渡来人「東漢氏」(あずまのあやし)を掌握していた豪族蘇我氏が有力になる・・・飛鳥はにわかに政治・経済の中心地と
	 なる。仏教文化がこの地にはじめて開花。天皇の宮、豪族の館・邸宅、大寺院などが建ち並ぶ。古代国家は、飛鳥を中心に形成。
	●飛鳥地方には4,5世紀に応神天皇や允恭天皇の宮があったという伝承。6世紀前半は顕宗・宣化天皇の宮が。飛鳥の宮の初源は、
	 推古天皇の豊浦ノ宮(とゆらのみや/とようらのみや)から。
	●宮は、初め天皇の住まいが主。同時に政治の場を兼ねる。天皇の代が代わるごとに移り、一代の間に2,3回移ることもあった。
	 国家体制の整備にともない、中国の制度に習い天皇の住まいの他に多くの役所を宮の中に建てる。やがて宮の周囲を市街が取り囲み
	 「京」と呼ばれる。
	●593年推古天皇が飛鳥豊浦ノ宮にて即位。以来約100年間飛鳥は政治の中心地。大陸の先進文化を摂取し斬新・華麗な飛鳥文化
	 が開化た。この宮の時代に飛鳥寺が完成。仏教が盛んになり、各豪族が競って寺院を建立する。
	●飛鳥時代とは、古墳時代の後を受けて、「寺院」と「宮都」が形成されるようになった時代。「寧所にいとまあらず」という戦乱と
	 混乱の古墳時代に終わりを告げて、中央集権を基盤とした「大和朝廷」がその権力構造を盤石のものとしてゆく時代。

	●いわゆる飛鳥時代の宮

		NO 宮の名前         移った年  住んだ天皇 	 宮の場所

		1 豊浦(とゆら)宮     592     推古      飛鳥 
		2 小墾田(おはりだ)宮   603     推古      飛鳥 
		3 飛鳥岡本宮        630     欽明      飛鳥 
		4 田中宮          636     欽明      飛鳥 
		5 厩坂(うまやさか)宮   640     欽明      飛鳥 
		6 百済(くだら)宮     640     欽明      飛鳥 
		7 飛鳥板蓋(いたぶき)宮  643     皇極      飛鳥 
		8 難波長柄豊崎(ながらとよさき)宮 645 孝徳      難波 
		9 飛鳥板蓋宮        655     斉明      飛鳥 
		10 飛鳥川原宮        655     斉明      飛鳥 
		11 後(のちの)飛鳥岡本宮  656     斉明      飛鳥 
		12 朝倉橘広庭宮       661     斉明      福岡県朝倉市
		13 近江大津宮        667     天智      近江 
		14 嶋宮           672     天武      飛鳥 
		15 飛鳥岡本宮        672     天武      飛鳥 
		16 飛鳥浄御原(きよみがはら)宮   672 天武      飛鳥 
		17 藤原宮          694     持統・文武・元明 飛鳥 
		18 平城宮          710     元明      奈良 




おもしろ歴史フェスティバル 第一部

		■第1部 「邪馬台国のなぜ?どうして?」(12:30〜13:30)
			  出演・高島忠平(学校法人旭学園理事長)、石野博信(兵庫県立考古博物館館長)



		石舞台古墳の南に特設会場が設けてあった。ここも昔発掘されたところで、「馬子の館」と報道された。着いたときは
		高島忠平先生が喋っていて、邪馬台国は九州だ、吉野ヶ里が卑弥呼の都だと力説していた。





松ちゃんは三人目を孕んでます。







おもしろ歴史フェスティバル 第二部

		■第2部 歴史愛好家による歴史バトル「邪馬台国は奈良?九州?」(13:40〜15:30)
		     出演者 : 考古学愛好家の皆様
			 オブザーバー:石野博信、高島忠平(予定)
			 コーディネーター:渡辺真理(アナウンサー)




	論争は、一人8分間のスピーチで、畿内説、九州説の論者が交互にその根拠を語るというものだったが、論者はあらかじめ決めてあった
	ようである。発掘に従事している人や、歴史に関して何らかの関わりを持っている人ばかり3人づつ(九州説は4人だった)が交互に喋
	った。論争の中身はもう今までに出ている根拠をそれぞれ喋っていて、最後のフリートークでは、双方ともだいぶ熱の籠もった主張を唱
	えていたが、ま、論争は決着するわけは無いのだが、客観的に見て九州説の方が押していたような気がする。ま、途中で少し寝たしね。



しかしま、邪馬台国と言う事になると論争はいつも盛り上がりますなぁ。



真理ちゃんは、さすがに幾つもこういう司会を手がけているだけあって手慣れたもんだ。




			今日では近畿説の大勢は、主として近畿圏の考古学者たちが主導権を握っているように見える。折からの考古学
			ブームに助けられ、また、奈良国立文化財研究所や橿原考古学研究所や奈良県行政の文化財担当部門の発表を無
			批判にただ掲載するだけの新聞・マスコミにあおられて、いわば盲目的に「邪馬台国=近畿」説を唱えているよ
			うな気がするのである。魏志倭人伝をはじめとする中国の史書や、古事記・日本書紀の内容さえも無視している
			ように思えてならない。

			紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけての弥生時代中期には、北九州を中心に銅剣・銅矛が広く分布し、ひとつ
			の文化圏をつくり、一方、近畿を中心に銅鐸が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。両者の文化が融
			合した形跡は見られないから、このふたつは交流をもたない異民族国家であったと推測できる。
			もし畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、
			なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。
			古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しないのである。記紀に登場
			するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも
			皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏に
			も伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。

			もし邪馬台国が近畿にあった場合、のちの大和朝廷と深い関係にあるのは明白で、「邪馬台国=大和朝廷の前身」
			と考えていいはずだ。だとすれば、大和朝廷のつくる記録のなかに、邪馬台国の記述や伝承が残っていても良さ
			そうなものだ。これは「邪馬台国東遷説」についても同じである。「邪馬台国=大和朝廷」ならば、記紀に何か
			の伝承を残すはずではないか。「古事記」「日本書紀」は何も語っていない。万世一系を強調し、架空の天皇ま
			でつくって歴史を水増しし、粉飾を計っている大和朝廷が、偉大なる自分たちの祖である卑弥呼の偉業を残さな
			いとは、どうしても考えられない。

			平成12年3月、巻向遺跡の「ホケノ山古墳」が、我が国最古の前方後円墳として発見され、3世紀中ば、即ち
			卑弥呼時代の古墳である事が判明したと、各新聞は一斉に報道した。「ホケノ山古墳」が(あるいは箸墓古墳で
			もいいが)、もし卑弥呼の墓に比定できるとしたら、卑弥呼の墓は前方後円墳という事になり、仁徳天皇陵や応
			神天皇陵などへ続く、4〜5世紀の近畿を中心とした「大古墳時代」へと、その勢力は拡大して行っているはず
			である。邪馬台国は発展し、子々孫々が強大な大和朝廷を形成していったはずではないか。
			しかし、邪馬台国の中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王「壱与」をもって消えてしまう。紀元266年、壱与が
			数回朝貢船を送ったのを最後に、邪馬台国は歴史からかき消えてしまうのである。これは、邪馬台国になんらか
			の異変があった事を示唆している。つまり、前方後円墳と邪馬台国は関係ないのである。それはとりもなおさず、
			大和朝廷と邪馬台国が関係ないという事である。このふたつは別系統の王朝なのだ。



真理ちゃんに会いたくて衝動的に申しこんだのだが、大慌てで家を飛び出したのでデジカメを忘れてきてしまった。ううう。
しかし寄る年波には勝てないねぇ、だいぶオバハンになってきたやん。もう50前(47)やもんなぁ。ま、でも別嬪やわ。




我々の所から二人が見えたので、電話して「暑いやろ、日陰においでや」と呼んだ。こういう時、携帯は全く便利どすなぁ。



竹内さん、顔が半分切れてしまって御免ちゃい。








			邪馬台国畿内説といった場合、勿論ここ纒向だけが候補地ではない。奈良盆地一帯から、大和三輪山、大和郡山
			明日香盆地など、古来から畿内説を支持する人たちの邪馬台国候補地は幾つかあったし、今もある。古くは、日
			本書記の編者たちが、邪馬台国は神功皇后の時代であるとし、女王卑弥呼は神功皇后の事で、皇后は畿内大和に
			いたとしてきたし、南北朝時代の北畠親房に始まって、京都大学の内藤湖南、笠井新也、梅原末治、直木孝次郎、
			小林行雄、和歌森太郎、樋口隆康、原田大六、肥後和男、田中琢など多くの論者が畿内説を唱えてきた。
			しかし「箸墓=卑弥呼の墓」説を、最初に一番論理的に唱えたのは笠井新也である。この後の論説は笠井説を補
			強し、肉付けしてきたに過ぎない。
			徳島県の脇町中学校の教師であった笠井新也は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫であり、箸墓は卑弥呼の墓であるとす
			る趣旨の論文を、大正時代から昭和にかけて、あいついで発表した。後に徳島大学の教授となった笠井の論点は
			次のようなものであった。 
 
			1.箸墓は、「日本書紀」に記されている倭迹迹日百襲姫の墓であり、倭迹迹日百襲姫は祟神天皇の時代の人で
			  ある。
			2.「古事記」の祟神天皇没年干支(戊寅の年)をもとにすれば、祟神天皇の没年は258年と考えられ、卑弥
			  呼が没したのは、248年頃と推定できるので、祟神天皇の時代は、ほぼ卑弥呼の時代である。
			3.従って、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫は同時代人となり、この二人が同一人物で、倭迹迹日百襲姫の箸墓を卑弥
		 	 呼の墓と考えれば、魏志倭人伝の「径百歩の塚」に合致する。 

			これに対し、今日では九州説の一番のオピニオン・リーダーの観がある産能大学の安本美典氏は、「祟神天皇の
			時代は、卑弥呼の時代とは重ならない。」「祟神天皇の活躍した時代は、340年〜355年ごろであり、卑弥
			呼の時代とは、100年あまりへだたりがある。」と説く。また「文献上からも、倭迹迹日百襲姫と卑弥呼を同
			一人物とすることについては、疑問が多い。」という。 

			邪馬台国に関する、考古学についての考察はここを参照されたい。





テントの中をよく見ると「九州応援団」と「打倒九州」が隣同士で座っていた。韓国なら殴り合い、中国なら殺し合っているかも。





真理ちゃんワールド






			畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのは箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代の違い
			から考古学的には否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。
			卑弥呼が死んだのは3世紀前半( 248年)であるから」、50年から100年のズレがあったわけである。
			ところが近年、平成7年2月に奈良県立橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表し、また平成
			8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表したことで、がぜん、
			邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わせたのである。
			畿内説は、3世紀には日本は九州から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配は
			西日本各地に及んでいた、と主張した。橿原考古学研究所附属博物館の館長河上邦彦氏は、「前方後円墳は3
			世紀の大和古墳群(箸中古墳群、柳本古墳群を含む)で発生する。「径百余歩=約145m」もある「卑弥呼
			の墓」は、発生期の前方後円墳に相違ないから、邪馬台国はやはりここにあったのだろう。」という。

			魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の記事が、「大作冢、徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。」(大いに冢を作る、
			径は百余歩、旬葬する者は奴婢百余人。)と書かれている。「歩」を約1.4mとすれば、百歩は約140m
			になる。つまり卑弥呼の墓は、直径約140mの塚という事になる。箸墓は、後円部の直径が156m、高さ
			30m、前方部が長さ126m、前方部の前端で幅132m、高さ16mである。箸墓の主体部である後円部
			の直径156mは110歩となり、つまり、卑弥呼の墓の塚の直径百余歩と一致するわけである。
			ところが、この古墳は前方後円墳である。卑弥呼の墓は明らかに円墳だろうと考えられるので、前方後円墳で
			は具合が悪い、前出の河上氏は、「箸墓はもともと円墳かも知れない。後円部と前方部は、微妙に築造の様式
			が違うので、前方部は後から継ぎ足した可能性もある。」などと、幾つかの講演会で述べていた。

			そしてもう一つ、出土した土器のなかに、「布留0式」と言われる様式の土器が含まれている。布留0式期が
			西暦で何年頃にあたるのかは当面確定しようもないが、おおかたの意見では3世紀後半から4世紀にかけて使
			われたという意見が強い。
			これを無理矢理3世紀前半にも使われていたという人もいるが、これこそ我田引水である。つまり、箸墓古墳
			が卑弥呼の墓だとすると、3世紀前半に死んだ卑弥呼と供に、4世紀の土器が埋葬されているという事になる
			のである。
			箸墓は現在、宮内庁による「陵墓参考地」としての指定を受けており、詳細な発掘調査は不可能であるが、い
			つの日か詳細な調査が実施された時には、これらの疑問も明らかになるのではないかと思う。更なる疑問がわ
			き起こる可能性もあるが。
	



			私見では、邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに
			存続していたのではないかと思う。以前は、その後邪馬台国が東遷し近畿勢を打ち負かしてヤマト王朝をう
			ち立てたという「邪馬台国東遷説」の立場に立っていたが、最近どうも違うのではないかと思うようになっ
			た。
			全国に散らばる古墳からの出土物を見ると、日本の社会は卑弥呼以後の150年間に本格的な軍事政権の到来を
			見るのである。夥しい馬具に武具、鉄剣に弓矢といった闘いの日々の中に古墳の埋葬者たちは生きていた。
			とても1女子を女王として擁立し、それで国中が平和に収まるというような生やさしい社会ではなかっただ
			ろう。刺し殺し、首をはね、目玉をえぐるというような残虐な闘いが100年以上続いたのではないかと思われ
			る。
			「宋書」には、倭王讃以下五人の王が登場する。珍・済・興・武である。このいわゆる「倭の五王」たちは
			王そのものが武力に秀でた絶対君主のような存在であった。「王自ら甲冑を纒い山河を駆けめぐって、寧所
			(ねいしょ)に暇(いとま)あらず。」とあり、済などは「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓
			六国諸軍事」「安東大将軍」の称号を貰っている。
			これは我が国のみならず、朝鮮半島をも倭国の支配下に置く事を中国が認めているのである。この時代にな
			ると馬が大量に日本にも移入され、軍事力は邪馬台国の時代とは比べものにならない規模に発展していたと
			考えられる。
			シャーマンとしての卑弥呼、年端もいかない壱与。邪馬台国時代の統治を考えると、とてもこの連合国家が
			日本を武力で統一したとは考えにくい。武力を保持しない女王をたてる事で、あえて国中を治めようとした
			倭国連合の人々の感性は、この激動の4世紀には通用しなかった。邪馬台国は、台頭してきた渡来系の新興集
			団によって滅ばされ、あるいは取り込まれて歴史から消えていったという可能性が大である。
			4世紀には大和を中心に各地に古墳が築造され、明らかにそれまでとは異質な民族たちの大量移入を思わせ
			る証拠が山ほど残されている。そしてそれは、明らかに「邪馬台国時代」とは異なる文化なのだ。









このオッサンも寝ていた。聞いているのかなと寄って行ったら寝息を立てていた。




			私は、邪馬台国は九州にあったと思う。考古学、文献のいずれもがそれを示しているように思える。以前は
			安本教授の「甘木朝倉説」に感動して、邪馬台国東遷説を信奉していた。いまでも教授の視点には教わる事
			大である。しかし、私は邪馬台国は東遷していないと思う。大和朝廷にもなっていない。

			宮崎から群馬にまで古墳を作っていった「古墳時代人」達は、およそ邪馬台国のもつイメージとは程遠い。
			各地の古墳から出土する夥しい馬具や武具は、新羅系、高句麗系といった様式の違いはあるものの、その殆
			どが画一である。つまり同じような物が、南九州から北関東にまで分布しているのである。全国に古墳は1
			5万基とも20万基とも言われるが、一つの県の中に一体幾つぐらいあるのだろうか。房総半島にまである。
			そこから出てくる物が、殆ど同じ物なのだ。これらの馬具や武具を、玄界灘の荒波を、馬を携えて渡ってき
			た連中がただの飾りにしていたとはとても思えない。彼らは当然これらを使用していたのである。弥生時代
			を牛耳っていた諸国の有力者を殺し、現地人の抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、食料を供出させて、従えば許
			して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、目玉をえぐり、力づくで倭を支配したと思う。

			そこに定住した者、更に東へ東へと移動した者。彼らは大陸・半島の政変で彼の地を追われた、或いは新天
			地を求めて海を渡ってきた渡来人で、たかだか2,3百年で日本列島を駆け抜けていった。運んできた馬に
			乗って、文字通り日本列島を駆け抜けて行ったのである。倭の五王の一人が中国に送った、「我が祖先は闘
			いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず。」という状況はこの時代の事を
			書き残したもののように思える。当時先駆的な技術であった、稲の栽培法を身につけた北九州の住民達を従
			えて、彼らは近畿圏にもやってきた。そして、銅鐸を用いていた民族を屈服させ、銅鐸は急ぎ山腹に隠され
			た。彼らの中からやがて、近畿圏にあって大和朝廷の礎(いしずえ)を築くほどの力を持った者が現れた。
			大王である。
			彼ら古墳時代人達は、三十の国が集まって一人の女性をたて、それで国中が丸く収まるような心優しい感性
			を持った民族とはほど遠い。九州にあった邪馬台国は滅ぼされ、その地の原住民族は、騎馬に乗った新しい
			支配者達に連れられて近畿まで来た。それで九州の地名が近畿に多く残っているのであろう。

			やがて大和朝廷は、渡来人、元住民を問わず官吏に用い、新しい律令国家に向けての歩みを始めることにな
			る。その過程で、かって北九州にあって一時代を画していた邪馬台国の記憶は大和朝廷内にも残り、卑弥呼
			の記憶は「天照大神」として神話に取り上げられた。これが、今の私がたどり着いた邪馬台国の姿である。


や、や、や。スクープ、スクープ!



17年目を迎える、我が歴史倶楽部史上、初のカップル誕生か?



仲良く手を繋いで会場内を散歩する二人の姿が目撃されました!

さぁ、真相は如何に? 橋本氏談:「儂ゃ、知らん」 イヌイ氏談:「単なるお友達です」






会場内を彷徨いていると、万葉佳人達が寄ってきて「あーら我が君、是非お写真をご一緒に」と取り囲まれた。てな訳無いか、ははは。





	会場の裏側から壇上を写す。

	講演会終了後、第三部の榎木孝明氏によるトークショ−が控えていたのだが、みんな「帰ろう、帰ろう」と早く反省したい様子で
	会場を後にした。テントの中の連中もぞろぞろ帰りだして、私はこの俳優は好きでよく見ていたので話を聞きたい気もしたが、一
	人で居残るわけにもいかず、榎木氏に気の毒な気がした。ま、違う聴衆が集まっていてくれればいいが。

	実はこの後、「邪馬台国は九州か、それとも奈良か?」を巡って投票があって、その結果勝った方のグループには賞品が出るらし
	かったが、「もうそこまで待っとれん」と結果も見ずに帰ることになった。ま、でも奈良の石舞台の真ん中で「九州説勝利!」と
	いう事になったら主催者側も立つ瀬が無かろうし、「ここで負けたらどこでも勝てんで」という河内さんの言葉どおり、ここは勝
	ちを譲ってやっても良かろう。ま、野球のビジターが、ホームグラウンドの球団に負けてやるようなもんか。





			例によって、橿原神宮駅ホーム内の料理屋「きはる」にて反省会。一人頭1,600円とめちゃ安かったが、
			私は二日酔いがまだ尾を引いていて、殆ど飲み食いできなかった。今日は割り勘負けした。



竹内さん、ま、こういう会です。お気楽であまり賢い話はしてませんが、良ければ末永くおつきあいをお願いします。



二上山と夕陽




		今はもうそんな事はあまりないが、若く多感な時代に夕陽を寂しく感じていたのはどういう訳でしょうなぁ。
		去って行く昼に対する郷愁か、或いはやってくる漆黒の夜に対する恐れか。なぜ夕焼けを寂しいなどと思っ
		たのでしょうかね。一回マジで考えて見ませんか? 「夕陽はなぜ寂しいのか?」



邪馬台国大研究/歴史倶楽部/198回例会・おもしろ歴史フェスティバル