Music: おぼろ月夜



伝秦河勝の墓



高宮を北へ向かい、「伝秦河勝の墓」目指して歩いていると、こんなものがあった。一井の井戸なんかしらんかったなぁ。



	一井の井戸碑。行基菩薩掘井の河北三名水の内の一つ。元大井川(おいかわ)池跡って、石碑そのまんまやんけ。ネットその他で
	幾ら調べてもわからんかった。ま、行基さんが行脚しているときに村人の難儀に、掘ってやった井戸の一つ、と言うところやろね。



左は散りかけた桜とオジサン二人。え、まだまだ?そりゃ、えろうすんまへん。え、今から? う、う、う。



桜ばかりか菜の花も盛りである。





こういう名前が付いているのを見ても、絶対秦氏が住んでいたとしか思えんわなぁ。





もうじきやね。



これは何の花だっけ? 例によって、錦織さんに聞いたがすぐ忘れてしまった。





【伝秦河勝墓】 [所在地] 川勝町

	伝・秦河勝の墓は、秦山と呼ばれる寝屋川北岸の丘陵上にある。以前はこの周囲は竹林だったが、現在は宅地開発によって住宅
	地の一角に一辺11.5メートルの正方形の区画として残されている。
	中央に高さ2.42メートルの五輪塔が建てられていて、地輪の四面に秦河勝の事跡や五輪塔建立の経緯などが400余字で刻まれ
	ている。この碑文によると、現在の五輪塔は、1649年(慶安2年)に再建されたものであることが分かる。
	五輪塔南側に一対の石灯篭が建てられているほか、五輪塔の北東側には「正六位上兼右近衛府生秦武文」と刻まれた方柱状の塔
	が建っている。秦河勝は、6世紀から7世紀に秦氏の族長で、聖徳太子の補佐として活躍したことが知られている。
	市内には、秦・太秦(はだ・うずまさ)といった秦氏ゆかりの地名があり、市と秦氏の関係を考えるうえで重要な資料である。

	秦河勝・・前々回八尾例会で行った、聖徳太子四天王の一人。物部守屋の首を落としたと言う人物で、首洗い池を使った人。

	 
	伝秦河勝墓地図





秦河勝・『前賢故実』より(ウィキペディア)


	秦河勝  出典:ウィキペディア

	秦 河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和朝廷で活動した秦氏出身の豪族。姓は造。
	秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。冠位は大花上。

	秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。河勝は
	秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわ
	れ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある[要出典]。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を
	賜り広隆寺を建てそれを安置した。610年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。644年、駿河国富士川周辺で、大生部多を中心に
	「常世神」を崇める集団(宗教)を、河勝が追討した、とされる。

	没したのは赤穂の坂越である。一説には流罪に遭ったためという。坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の
	生島には秦河勝の墓がある。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座した
	ものである。
	本拠地とした京都市右京区太秦や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。さらに右京区西京極にはかつて川勝寺
	とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばれ、
	住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた。
	秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、土佐国戦国大名の長宗我部氏や幕臣川勝氏が子孫を称した。また猿楽などに従事した芸能の
	民にも称した者が多く、代表的なものとしては金春流が挙げられ、「秦河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、
	一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。」と金春禅竹が『明宿集』の中で記している。
	長谷川党は大和の国衆・十市氏を刀禰とする武士団であり、薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある。また、河勝は猿楽の祖で
	もあり、能楽の観阿弥・世阿弥親子も河勝の子孫を称した。現在、楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるといわれている。




	秦河勝(続き) 出典:ウィキペディア

	<挿話>

	『日本書紀』によると、皇極天皇(644年)秋7月、富士川のあたりで、大生部多は、「これは常世の神である。この神を祭る人は、
	富と長寿が得られる」といい、虫祭りをすることを勧めた。巫女たちも神のおつげだといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人
	は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、
	何の利益もなく、損失が多かった。民衆が騙されるのをにくみ秦河勝は大生部多を捕え打ち懲らしめた。時の人は以下のような歌
	を詠んだ。

	「巻第二十四 皇極天皇」、『日本書紀 下』、講談社学術文庫

	ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。

	〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉


	<景教との関係>

	佐伯好郎は1908年(明治41年)1月に『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において、秦氏
	は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。秦一族が渡来する6世紀以前にすで
	に唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。
	ただしこれは学会の通説とはなっていない。大秦景教流行中国碑によれば、貞観9年(635年)にペルシア人の阿羅本が景教の主教
	として宣教団を率い、長安を訪れたのが最初で、150年後の建中2年(781年)に伊斯が大秦景教流行中国碑を建立した。しかし、
	平安の都市が碁盤の目、つまり十字架のような十字路になっており、そのために景教と関係があるのではないか、と言われている。
	ローマは大秦と呼ばれている。また、秦の始皇帝の父親が碧眼であったと言われており、中東から移住してきたという説も存在し、
	現イラクやイラン(古代ペルシャ)、アラム地方、エラム地方にはゾロアスター教などユダヤ教やキリスト教の前身となる宗教が
	存在しており、古代のユダヤ人も住んでいた(バビロニアを参照)。ペルシャ、唐、日本の間ではシルクロードを通じて交易や人
	の移動があったと考えられるので、このような説が浮上してくる所以である。











以下五輪の塔のC面に刻まれた碑文。よく読めない。

















しかし史跡の中にゴミ袋をだすなんて一体どういう神経なのかね。天につばしとるとしか思えんね。





 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/196回例会・寝屋川市の古代を歩く