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高宮廃寺跡・大杜御祖神社



住宅街の中を歩いてゆくとこんもりした杜が見えてくる。ここが高宮廃寺である。


高宮廃寺跡  国指定史跡  寝屋川市HPより

	高宮廃寺跡は、寝屋川市高宮に所在し、生駒山系の西麓香里丘陵の南端に位置しています。白鳳時代(7世紀後半)に創建され、奈
	良時代にかけて営まれたあと一時廃絶しました。しかしその後、中世に再建されて室町時代に至る間法灯がともされた、北河内屈
	指の寺院跡です。寺域内に延喜式内社大杜御祖神社があり、近くには延喜式内社高宮神社があります。同じ郷に二つの式内社があ
	ることは大変珍しいです。高宮廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏寺経営のあり方をうかがう上で重要な遺跡
	です。なお、当廃寺跡は昭和55(1980)年5月13日に国の史跡指定を受けました。

	住所 寝屋川市高宮二丁目15-1


















	高宮廃寺跡  国指定文化財等データベース(文化庁)

	名 称 : 高宮廃寺跡 
	ふりがな: たかみやはいじあと 
	種 別 : 史跡 
	都道府県: 大阪府 
	市区町村: 寝屋川市高宮 
	管理団体: 寝屋川市(昭56・5・27) 
	指定年月日: 1980.05.13(昭和55.05.13) 
	指定基準: 史3 
	特別指定年月日:  
	追加指定年月日: 

	解説文: 

	高宮廃寺は、生駒山系から南西に延びる香里丘陵の南端に位置する。現在この地に鎮座する延喜式内社「高宮大杜御祖」(たか
	みやおおもりみおや)神社の境内と叢林の中に古代の寺跡のあることは、拝殿と本殿の間に残る西塔の礎石、その東方に残る東
	塔跡の基壇と心礎、これらの北方に残る金堂跡とみられる土壇の存在によって、古くから知られていた。

	また昭和28年には、大阪府教育委員会によって、東塔跡の確認調査が行われて、一辺1.03メートルの規模をもつ塔基壇が
	確認され、出土の屋瓦から、この廃寺の創立年代が7世紀後半にさかのぼることが明らかにされている。その後、昭和54年末
	になって、社地の北側に接する部分に宅地造成の計画が起きたことから、この寺跡の保存のために、寺域全体の範囲確認調査が
	実施されることとなった。
	現在までの調査で、金堂・講堂・中門・南門と、東面回廊と西面築地の一部が確認されている。金堂基壇は東西13メートル、
	南北11.5メートルで、赤褐色の山土を版築してつくられており、現存高60センチ。削平のため、礎石は残存していない。
	金堂基壇の北方30メートルの位置で検出された講堂跡は、竹林の土の入替えのために、かなりの削平を受けているが、基壇の
	版築土の残りとその周辺に拡がる焼土の存在から、東西16メートル、南北12メートルの基壇規模をもつものと判断された。
	中門と南門については、基壇の一部を検出した段階であり、全体規模については今後の調査をまたねばならない。主要伽藍を囲
	む回廊と築地についても現在調査中であるが、東塔基壇の東方12メートルの位置で版築による東面回廊の基壇の一部と、講堂
	基壇の西方45メートルの位置で、同じく版築による西面築地の基壇の一部を検出している。

	地覆石抜取り痕跡からみると、西面築地はこの地点で東に折れ、講堂方向に走るが、講堂西面においては築地跡は検出されてお
	らず、講堂の西方で再度北に折れて北方へ延びるものと推定される。金堂・東面回廊・西面築地跡から、飛鳥時代の素弁八葉蓮
	華文軒丸瓦と奈良時代の軒瓦が、また中門跡からは奈良時代の瓦が集中して出土している。講堂跡からは鎌倉〜室町時代の瓦が
	集中して出土し、焼土を伴うことから、この時期に再興後、まもなく焼失したことがうかがえる。

	当廃寺は、残存する堂塔基壇の配置から、中門・講堂を結ぶ回廊内部に、金堂と東西両塔を配置する薬師寺式伽藍配置をとるも
	のと推定されてきたが、現在までの調査では、北面回廊の位置が未確認のため、全体の伽藍配置を決定するに至っていない。
	北面回廊が、今回検出された金堂と講堂の間を通るとすれば、薬師寺式とはやや異なる伽藍配置をもつことになるが、今回検出
	された講堂の南方に創建時の講堂がある可能性もあって、問題を今後に残している。なお、今回の調査では、廃寺主要部の各所
	から飛鳥時代にさかのぼる屋瓦が検出されており、確認された主要伽藍の配置や、東塔跡出土の複弁八葉軒丸瓦から推定される
	7世紀後半以前に、この寺院が創建され、その後順次伽藍の整備されたことが明らかになった。現在、当廃寺の西側に叢林があ
	って、御祖神社の旧地と伝え、西方高宮集落の中には式内社高宮神社があって、その境内に西塔の心礎が置かれている。

	この両社は旧事本記にみえる高宮神主がその祖神を祀ったものであり、当廃寺はこの2社と氏社・氏寺の関係にあるものと考え
	られている。7世紀に河内高宮氏によって建立された当廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏寺経営のあり方
	をうかがうことのできる遺跡として、貴重なものである。 









大杜御祖(おおもりみおや)神社

	市内に三社ある延喜式内社の一つ。祭神は北西300メートルにある高宮神社の父神である天萬魂命をまつり、江戸時代のガイド
	ブック「河内名所図会」には「此土の生地神」と紹介されている。江戸時代には五穀豊穣を願って牛頭天王も祀られていた。玉松
	寺という宮寺もあったが、明治維新後の神仏分離により寺は廃絶した。




























	以上さまざまな解説にあるように、ここは大阪府寝屋川市高宮にある古代の寺院跡である。「高宮廃寺跡」だが、境内に大杜御祖
	神社という式内社の宮が有り、200m程先には高宮神社というのもあってなかなかにややこしい。しかも大杜御祖神社は、元々
	現在より西に50mほど行った所にあったとされる。この三社の関係は一体どうなっているのかと疑問に思うが、文化庁の解説の
	最後、即ち「この両社は旧事本記にみえる高宮神主がその祖神を祀ったものであり、当廃寺はこの2社と氏社・氏寺の関係にある
	ものと考えられている。7世紀に河内高宮氏によって建立された当廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏寺経営
	のあり方をうかがうことのできる遺跡として、貴重なものである。」という部分に集約されるようである。

	つまり、文化庁が大胆にも断定した河内高宮氏が、その祖神を祀ったものとして大杜御祖神社と高宮神社がまず作られ、その護国
	寺的な意味合いで「高宮廃寺」が作られたと言うのである。
	古代北河内地方における初期寺院の展開や氏寺の経営のあり方を考えるうえで重要なことから、1980年(昭和55)に国の史跡に指
	定されている。
	史跡地には、東塔の基壇・塔心礎や金堂の基壇が残っており、講堂の基壇・回廊など画発掘調査によって確認されている。寺院伽
	藍の主要な建物跡からは、飛鳥時代終わり頃の蓮華文軒丸瓦などが出土した。

	金堂、講堂、中門、南門と、東面回廊と西面築地の一部が確認され、金堂基壇は東西13m、南北11.5mで、赤褐色の山土を版築して
	つくられており、現存高60cm。礎石は残存していない。講堂跡は、基壇の版築土の残りとその周辺に拡がる焼土の存在から、東西
	16m、南北12mの基壇規模をもつと推定される。
	中門と南門については、基壇の一部を検出したが、全体規模については不明。主要伽藍(がらん)を囲む回廊と築地についても調査
	中である。
	遺物はすべて古瓦類で、金堂、東面回廊、西面築地跡から白鳳(はくほう)期の素弁八葉蓮華文軒丸瓦(のきまるがわら)と複弁八葉
	蓮華文軒丸瓦が、また中門跡からは奈良時代の瓦が集中して出土した。講堂跡からは、鎌倉時代から室町時代の瓦が集中して出土
	し焼土をともなうことから、この時期に再興後、まもなく焼失したことがうかがえる。
	確認された主要伽藍の配置や出土遺物から7世紀後半以前に創建され、その後順次、伽藍の整備がなされたと推定されている。

	京阪電鉄京阪本線寝屋川市駅から京阪バス「あさひ丘」下車、徒歩約5分。



	


 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/196回例会・寝屋川市の古代を歩く