Music: 花



太秦高塚古墳



寝屋川公園から太秦高塚古墳を目指して歩き出す。ここからだと30分以上は掛かると思われる。



桜、チューリップ、すみれ、パンジー、あ、スミレとパンジーは同じものかな?あれ?錦織さんどうでしょうか。



所々に花見客が。ここなら混んで無くて花見の穴場じゃなかろうか。チラホラと散り始めている桜もある。



やがて高速にブチ当たって、2,3人に道を聞く。寝屋川に住んで40年というオジサンに道を聞く。



だがオジサンは、太秦高塚古墳をこの古墳群と勘違いしていたようだった。しかしここも古墳群の復元だし見れて良かった。




	<太秦古墳群>

	太秦古墳群は、大阪府寝屋川市東部の丘陵上に所在する古墳群。古墳時代中期から後期にかけての群集墳ではないかと考えられて
	いる。寝屋川市東部の太秦高塚町、国守町とその周辺の丘陵には、円墳と考えられる太秦高塚古墳の存在が以前から知られていた。
	それ以外にも各所から埴輪や須恵器が出土しており、付近には小金塚、向ヒ塚、廻し塚、モロ塚、上ノ山、墓ノ山、松谷山、段谷
	山など古墳の存在を窺わせる「塚」や「山」のつく小字名が知られ、かつては、かなりの広がりのある古墳群が存在したようであ
	る。
	1962年には太秦熱田神社の裏山から牡鹿の頭部と考えられる埴輪が出土したり、1965年には太秦高塚古墳の南約 300メートルで木
	棺直葬と考えられる主体部が発見され、鉄鏃、直刀などが出土している。これ以外にも三環鈴、金環、銅鏃、子持勾玉2、勾玉3、
	紡錘車2などが付近にあった古墳の出土遺物として知られている。これらを総称して太秦古墳群と呼ばれている。
	京都と大阪を結ぶ、第二京阪道路の建設に伴って2001年から2003年にかけて大阪府文化財センターが道路予定地内の事前調査を行
	い、古墳時代中期から後期にかけての墳丘を削平された小規模な古墳25基を発掘している。

	これらの古墳は尾根上で検出されたことから太秦古墳群の尾支群と呼ばれることになった。また同じく2001年には、寝屋川市によ
	り太秦高塚古墳が史跡整備のため発掘調査されており、その全容がほぼ明らかにされている。



	廻りになかなか古墳が見つからないので、太秦高塚古墳はここの事じゃ無いかという声にメゲそうになるが、いや別個にある筈だ
	と資料館で貰ったパンフ等を頼りに古墳の位置を推測する。パンフの写真には下左の建物が写っているので、あの近くにあるはず
	と決め打ちして歩き出す。



「そうそう、資料館のオバサンが浄水場の廻りをぐるーっと廻る言うてたで」「あ、ほなやっぱあっちにあるんやわ」



そうとう歩いて浄水場の廻りを一廻りした頃、建物の向こうに何やらそれらしき雰囲気のエリアが見える。「あ、あそこやで」



			「着いたでぇー、そこやわ」
			「はぁはぁ、ぜぃぜぃ」
			「よう歩かしよんなぁ」
			「大阪市もよそんちで浄水場作って、申し訳ないからこの古墳残したんやろな」
			「文化財保護言うたかて、自分らの今の贅沢を止めてまではせんもんなぁ」
			「しかもここ大阪市ちゃうし」
			「ま、残ってなかったら何も判らんしのぉ。残っただけでも儲けモンちゃうか」





太秦高塚(うずまさたかつか)古墳 寝屋川市指定史跡

	かって弥生時代には、太秦の丘陵上に歴史学史上有名な高地性集落の太秦遺跡が存在していた。次の古墳時代には、太秦から秦の
	地域にかけて小古墳で構成された太秦古墳群が形成されていた。しかし、この古墳群の殆どは開墾や宅地造成、浄水場建設のため
	に消滅してしまった。大阪市は、よそんちの文化財をぶっ壊しても浄水場を作りたかったわけやな。寝屋川市が幾ら貰うたか知り
	たいね。

	その埋葬施設や副葬品などは明らかなものが少なく、市立埋蔵文化財資料館、東京国立博物館あるいは地元の方が保管している(!)
	六鈴鏡、三環鈴、金環、銅鏃、漆塗りの革製楯の残片、水晶製切子玉やガラス製小玉・勾玉などの玉類、各種の埴輪(牡鹿・人物・
	鶏・水鳥・盾・甲冑・蓋)や須恵器・土師器などの土器類で一部する事が出来るのみである。巻末の資料館パンフを参照されたし。

	このような中で、太秦高塚古墳は破壊からまぬがれ残されている。出土した埴輪や土器などから、太秦高塚古墳は5世紀の後半に
	築かれたと考えられる。2001年度(平成13年度)に寝屋川市制施行50周年記念事業として復元整備が行われ、2002年(平成14年)4月1
	日に「太秦高塚古墳公園」として開園された。



太秦高塚古墳 出典:[ウィキペディア]

	尾支群の北西 800メートルに位置する古墳で、太秦古墳群では墳丘が完全に残る唯一の古墳である。2001年に史跡整備に伴う発掘
	調査が実施された。墳丘は北西部に造り出しを有する直径37メートルを測る円墳であり、2段に築かれ、葺石はなかった。
	墳丘のテラスの部分には円筒埴輪列、造り出し部でも円筒埴輪列が確認されており、加えて人物、家、盾、鶏、水鳥などの形象埴
	輪が出土した。墳頂部では埋葬主体が確認され、短甲、鏃、斧、馬具などの副葬品が出土している。埴輪などから5世紀後半の築
	造と考えられる。同じ太秦古墳でも、この高塚古墳と尾支群とでは墳丘規模、出土遺物などで大きな格差があり、当時の階層を反
	映していると考えられる。群集墳を構成する集団のリーダーの墓が太秦高塚古墳、集団の構成員の墓が尾支群のような群小古墳で
	はないかと考えられる。



古墳全景。クリックで超拡大。














			「えらい長いのぉ」「確かに長い方ですな」「こんなに大きかったんやろか」
			「いや、空いたとこには刀やら鏡やら副葬しまんね」
			「横に、も一つあったんちゃうかて書いてるな」「嫁半も追葬されたんかもしれまへんな」

			「造りだしやら埴輪やら、結構ええしの墓やったんちゃうか?」「そうでっしゃろね」
			「大体高台にある古墳はええしでっせ。自分の支配地を眺めて眠りたいんでっしゃろね」
			「庶民は死んでも王さんに見張られとるわけやな」「いややね」「ムカついて盗掘するん違う?」
			「古墳の盗掘は古墳時代に既に始まってますさかいね」



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造りだし。2つあるわけではおまへん。1つです。



















 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/196回例会・寝屋川市の古代を歩く