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明光寺の雷神石






	明光寺(みょうこうじ)所在地:寝屋川市打上元町

	当山の創建や由緒は不明であるが、山門横の雷神石や境内にある十三仏碑には山号や「弘治3年(1557年)」の紀年銘が刻まれて
	いることから、室町後期には存在していた。現在は浄土宗で知恩院末であるが、もとは融通念仏宗守口佐太の来迎寺の末であった。
	山号を天照山と号するのは、この寺の上方に位置する国史跡「石宝殿古墳」との繋がりが深かったことに由来していると思われる。雷
	神石や十三仏碑は1801年(享和元年)刊行の『河内名所図会』を始めとする江戸時代の刊行物にたびたび紹介され、今では寝屋川
	市を代表する文化財である。
	本堂は2001年(平成13年)に新しく建て替えられている。それ以前の本堂は宝永年間(1704〜11年)に藁葺であったと記
	録され、1766年(明和3年)に瓦葺に改めたれている。その後幾度か修復され、平成13年に全面的に建て替えられた。







	
	明光寺雷神石(みょうこうじらいじんせき)  寝屋川市HPより

	[所在地] 打上元町31番6号
	雷神石は高さ135センチメートル 、幅75センチメートル、厚さ42センチメートルで、凝灰岩製の遺品です。碑の前面には、上部に右
	から左へ「天照山(てんしょうざん)」、 中央に「天下和順日月清明(てんか わじゅん にちげつ せいめい)」、 右列に「檀主安全子
	孫繁(だんしゅ あんぜん しそんはん)」、 左列に「伽藍常栄興仏法(がらん じょうえい こうぶっぽう)」、 右側面に「弘治三丁巳
	九月吉日 可信(こうじさん ひのとへび くがつ きちじつ かしん)」と彫られています。弘治三年は1557年になります。
	この碑は、江戸時代の『河内名所図会(かわち めいしょ ずえ)』の明光寺の項に「一ケの奇石あり」と紹介されていますが、その名の
	由来は不明です。
	形状、材質から石棺を再利用したもので、裏面に加工された形跡がないことから、家形石棺の身の部分と考えられています。かつて、
	明光寺のある打上周辺は「八十塚(やそつか)」といわれ、多くの古墳がありました。 この石棺もこれらの古墳の中に納められていた
	ものと考えられます。

	問合先 文化スポーツ振興課 電話:824-1181(代表)



明光寺(みょうこうじ)の雷神石(らいじんせき)  寝屋川市指定文化財

	明光寺山門の左側に「雷神石」と呼ばれる石碑がある。江戸時代のガイドブック「河内名所図会」に「一ケの奇石あり」と紹介され、
	その名の起こりは明らかではないが、古墳の石棺を利用してつくられている。碑の上部に明光寺の山号である「天照山」、中央に
	「天下和順碑月晴明」、右に「壇主安全子孫繁」、左に「伽藍常栄興仏法」、右側面に「弘治三年巳九月吉日可信」と刻まれている。
	弘治三年は1557年である。雷神石は高さ135センチメートル 、幅75センチメートル、厚さ42センチメートルで、凝灰岩製の遺品。




	また河内名所図会」には、この近辺に「八十塚あり」と記されており、この付近に多くの塚が存在していたことがわかる。雷神石も
	これらの古墳のうちの一つに収められた石棺を再利用したものであろう。裏面に加工された形跡がないので、石棺の本体だと思われ
	る。




	現地の解説では兵庫県高砂市産出の竜山石と思われる擬灰岩とのことで、風化が進み表面はかなり剥離している。保護のため小屋に
	入れられている。前回例会の四條畷にも、石棺の蓋や身を利用したものが多数在ったが、この地方では、古墳を掘り起こしその石材
	を再利用する事が頻繁に行われたようである。





	
	明光寺十三仏板碑(みょうこうじ じゅうさんぶついたび) 寝屋川市HPより

	

	[所在地] 打上元町31番6号
	板碑は高さ120センチメートル 、最大幅65センチメートル、厚さ28センチメートルで、花崗岩製の遺品です。板碑に刻まれている
	十三の仏は、初七日から三十三回忌にいたる13回の供養・仏事をつかさどる仏(如来・菩薩)で、亡くなった人の冥福を祈る追善だ
	けでなく、生きている自分自身の法要を生前におさめる「逆修」という文字が刻まれています。
	極楽浄土信仰と地蔵十王信仰が結びついた室町時代以降の遺品で、近畿地方のなかでもおもに生駒山麓の付近でみられます。
	弘治三年(1557)の銘があり、当時の世相と市の歴史的な特色をよく反映したものといえます。 同じ明光寺内にある古墳の石棺を
	利用してつくられた石碑「雷神石」にも同年の銘があります。
	明光寺の十三仏板碑は、江戸時代の『河内名所図会(かわち めいしょ ずえ)』に「境内に十三仏の石塔あり」と紹介されています。

	問合先 文化スポーツ振興課 電話:824-1181(代表)

	ここにも十三仏碑があったのだ。見逃してしまった。この十三仏は寝屋川市にある十三仏中もっとも古いもので、雷神石と同じく
	「弘治3年(1557年)」の紀年銘があるそうだ。

	

	板碑 最下部。中央に「三界万霊」その両脇を三段にし十九人の法名、右端に「逆修 弘治三年(1557)丁巳」、左端に「五月吉日」
	と刻む。ここも逆修だ。
	尚、この寺には他にも地蔵堂 首なし地蔵、笠塔婆、阿弥陀石仏などがあり、入って見せて貰えば良かった。首なし地蔵は『河州交
	野郡寝屋長者鉢記』で初瀬姫の身代わりになったと伝えられている。元は村の4つ辻にあったものを移動させたという。








	
	さきの石の宝殿古墳のコーナーに書いた、
	
	1801年(享和元年)刊行の『河内名所図会』にはこの石宝殿に関わる話として「近年此側にて、金銅の壺、大サ壱尺余の物を
	掘出す。‥‥云々」とあり、この古墳の被埋葬者の骨壷か否かは不明だが、金銅壺が1774年(安永3年)に掘出され、明光寺
	の隣の極楽寺の境内に深く埋め戻したという。

	とある極楽寺がここである。





では弘法井戸から東高野街道の四つ辻へ参りましょうか。



 邪馬台国大研究/歴史倶楽部/196回例会・寝屋川市の古代を歩く