Music: エーデルワイス







	日本民家集落博物館
	===================================
	 189回例会 日本の民家を見て、ビアガーデンで喉をうるおそう!
	===================================
	 日時  : 8月3日(土曜日)7月27日からの流れです。
	 集合時間: 14:00
	 集合場所: 御堂筋線(北大阪急行)「緑地公園駅」博物館まで1km。
		  (阪急曽根駅からおいで頂く場合は、直接博物館へおいで下さい。その場合、曽根駅から東へ2kmです。)
	 予定  : 民家集落博物館(ゆっくりみても2時間−2時間半ほどです。)
       	   − 緑地公園駅へ = 北大阪急行 = 千里中央駅へ ー 千里阪急ホテル
	 概要  :

	 1).日本民家集落博物館 Open-Air Museum Of Old Japanese Farm Houses

	日本民家集落博物館(にほんみんかしゅうらくはくぶつかん)は、大阪府豊中市の服部緑地内にある博物館。17〜19世紀に建築された
	岩手から奄美大島までの民家11棟を服部緑地内に移設し、日本最初の野外博物館として昭和31年(1956年)に開館した。

	 <展示民家>

	・摂津能勢の民家(重要文化財)
	・信濃秋山の民家(重要文化財)
	・日向椎葉の民家(重要文化財)
	・飛騨白川の合掌造(重要有形民俗文化財)
	・越前敦賀の民家
	・小豆島の農村歌舞伎舞台
	・河内布施の長屋門
	・堂島の米蔵
	・堺の風車(倒壊のため復元中)
	・奄美大島の高倉
	・大和十津川の民家
	・南部の曲家 ほか


	<重要文化財>
	・旧山田家住宅(信濃秋山の民家) - 長野県下水内郡栄村から移築。茅壁、土座(土間に直接茅などを敷き詰め、ムシロを敷いたもの)、
	 掘立柱などの古い形式を残す民家で、建築年代は江戸時代中期にさかのぼる。
	・旧泉家住宅(摂津能勢の民家) - 大阪府豊能郡能勢町から移築
	 入母屋造妻入、茅葺きの民家。屋根構造に垂木構造(おだち鳥居組)という畿内特有の古い形式が用いられている。
	・旧椎葉家住宅(日向椎葉の民家) - 宮崎県東臼杵郡椎葉村から移築

	<重要有形民俗文化財>
	・飛騨白川の合掌造(旧大井家住宅) - 岐阜県大野郡白川村から移築


	 <利用情報>
 	料金 - 大人500円
 	開館時間 - 9:30-17:00(入館は16:30まで)
	 休館日 - 毎週月曜日(月曜日が祝日又は振替休日の場合は翌日)
	 及び12月27日-1月4日


	 2).千里中央ホテル プールサイド・ビアガーデン結局予約満杯で、千里中央白木やになりました。

	千里中央駅から徒歩すぐ。北摂最大級 全500席!ホテルのプールサイドで飲むビールはリゾート感NO.1!
	40種類のお料理と30種類のドリンクが” 時間内無制限!食べ放題&飲み放題 ”

	『今年のテーマはカーニバルリゾート!』 ホテルグルメをお祭り気分で心ゆくまで満喫!

	 【期間】2013年6月1日(土)〜2013年9月30日(月)
	 【時間】
	 ■月〜金 17:30〜21:00
	 ■ 土  17:00〜21:00
	 ■日・祝 17:00〜20:30 ※ラストオーダーは各30分前
	  ※プール期間中 7/20〜9/1は17:30より営業 ※6/1〜6/9は17:30より営業 ※9月の土日祝は17:30より営業の場合がございます

	 時間内無制限!食べ放題&飲み放題
	 ■ .(料 金) 大人3,900円 ホテル会員3,600円 お子様1,500円
	  ※お子様は、3才〜小学生まで .
	(営業時間) 2013年6月1日(土)〜2013年9月30日(月)
 	 [平日]17:30〜21:00
	 [ 土 ]17:00〜21:00
	 [日祝]17:00〜20:30
	(ラストオーダー各30分前)
	  ※6/1〜6/9、プール期間中(7/20〜9/1)は17:30より営業
	  ※9月の土日祝は17:30より営業の場合がございます
	=================================


余りに暑いので、8月同様7月も例会は中止にした方がいいのではなかろうかと思ったが、そうだ!いつかやったみたいに「暑気払い」 をやろうと考えた。しかし一応例会であるし、ただ呑むだけというのも気が引けて、近場の博物館と考え、日本民家集落博物館を思い ついた。それよりも先に千里中央ホテルのプールサイド・ビアガーデンを考えていたのでそこに近い所と考えたのだが、結局プールサ イド・ビアガーデンは予約満杯で行けなかったし、梅田のビアガーデンも土曜夜の巨人−阪神戦の日と言う事でこれまた満杯だった。 仕方なく千里中央の居酒屋「白木や」で暑気払いとなったのだが、ま、皆さん呑めれば良いという人達ばかりなので、これはこれで満 足だったようだ。しかし最近の気候変動の様子を見る限り、7月の例会はもう炎天下は無理かも知れない。いっそのこと、7月例会は 「暑気払い」と決めた方がいいかもしれない。 日本民家集落博物館は、民俗学や日本各地の庶民のくらしに興味がある向きには非常に興味深いところである。昔の日本の家屋がどの ようなもので、どういう生活をしていたかを思い計るには格好の題材と言える。翻って、西欧家屋やアジア各地の集落との違いなどに 思い至れば、日本民族の起源にも迫れるかも知れない。


北大阪急行「緑地公園駅」西側。ここは予備校や専門学校が多く、若者でひしめいている。





本日の参加者5名。終了後西本さんが「暑気払い」(反省会)に参加。









河内さんは豊中生まれで、小学校の遠足は殆どここだったそうである。豊中から1時間ほど歩いてここへ来たそうだ。











しせき・ちょうこうじえんしょうくらばあと
史跡・長興寺焔硝蔵場跡



なんと! 大阪城の火薬庫の跡である。こんな所に造ったんか。街から遠く離したんやな。円形花壇の右手林のなか。







豊中に寺があってそれにちなんで長興寺村というのがあったそうで、この辺りまでその領域だったのだろう。


	
	次の梅塚古墳と言い、思いもかけなかった史跡に緑地公園の中で出会えた。なお、焔硝蔵についての記載がある資料は以下の通り。

	・『とよなか歴史・文化財ガイドブック』「大坂城鉄砲奉行支配焔硝蔵跡」(豊中市教育委員会)
	  府営服部緑地の円形花壇の北東に「長興寺焔硝蔵場跡」の看板と碑がある。
	・『新修豊中市史第1巻 通史1』(豊中市)「長興寺の焔硝蔵」
	  享保18(1733)年に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩
	  保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であったが、一部保科氏領の敷地もあった。現在も土塁の一部が服部緑地
	  内に残っている。
	・『豊中の史跡たずね描き』(豊中市立教育研究所)「長興寺焔硝蔵場跡」
	  石碑と看板・土塁のスケッチと解説。
	・『長興寺村文書』(岡町図書館)
	 「村絵図面長興寺村東部」「焔硝蔵敷地絵図」などに焔硝蔵が見られる。
	・『徳川大坂城 西国支配の拠点』(大坂城天守閣特別事業委員会
	 「長興寺村焔硝蔵ならびに周辺絵図」のカラー写真。
	・『豊中の伝説と昔話』(鹿島友治)「煙硝ぐら始末記」
	  蛤御門の変のころに、爆破されるのを防ぐために焔硝蔵の火薬を近隣の池に投げ込んだとの記載。
	・『新修豊中市史第7巻 民俗』
	  焔硝蔵の跡地は田になったことと、江戸時代に火薬が神崎川の渡しから高川沿いに運ばれるときには、沿道では火を使うことが
	  禁止されていたとの記載。
	・『大阪の歴史 第53号(1999年6月)』(大阪市史料調査会)、
	・『北条覚書 校区周辺の歴史散歩』(豊中市立北条小学校PTA)等々
 


うめづかこふん
梅塚古墳


















	これが造りだしだとすると、上左一帯に高さ10mの前方後円部があった事になる。昔の豊中市民たちが崩して畑にしたんだろうな。
	しかし高さ10mの巨大な前方後円墳をよく崩したねえ。まさにアリさんの働きは偉大ですな。造るのもアリ、壊すのもアリってか。
	古墳は、既に古墳時代に盗掘されている事が記録にあるから、アリさん達は権力者に心の底から服従していたわけでは無い事が判る。
	ここに埋まっていた埋蔵品はどこへ行ったんだろうか。河内さん、先祖から受け継いで、こっそり家に持ってまへんか?

	(緑地公園造成によって削り取られたのはその残骸だと思われます。)






若い連中の、焼き肉の匂いが立ち込めてたまらん。この辺りはバーベキュー・コーナーの一角だった。



その先に博物館が見えてくる。緑地公園の駅からは真っ直ぐ来れば10分くらいかな。











かわちふせのながやもん
河内布施の長屋門
(正面入り口)







南部の曲り屋は工事中とあったが、3月だったのでもう終わってるだろうと思ったがまだ入れなかった。



このあたり(北摂一帯)で使用されていた大八車。





おおさかどうじまのこめぐら
大阪堂島の米倉





	
	船大工町と言えば、今は「北の新地」の一番南の通りでANAホテルがある所だ。あそこから持ってきたんだな。大阪の古地図を見る
	と、我が(筑前の)故郷・秋月藩の米倉も、福岡藩の米倉と並んで堂島川に面して建っていた。今の三井ビルのある辺りである。
	江戸時代、堂島川の両岸は各藩の蔵屋敷で埋め尽くされていた。

















今日は何やら博物館公園内でイベントをやっているらしく、こういうコスプレ集団が沢山居て写真撮影に興じていた。



昔のくらし展示館



むかしのくらし展示館



「昭和初期のちゃぶ台」が隅の方に置いてある。昭和30年代にも親戚の家はあんな「ちゃぶ台」だった。




	
	これは私が子供の頃、九州の実家のどっか近所にあった。右下のペダルを踏んでワラでロープを造る機械だ。見たときはまだ現役だっ
	た。あの頃の農具はみんな「大阪・・社」と入っていて、殆どが大阪製造だったように思う。クボタやヤンマーや井関なんかもみんな
	農具から発展した会社だもんな。今でもそうだが。錦織さんはこれの電動も見たことがあるそうだ。



ひのし(火熨斗)は古墳時代からある。江戸時代にもあるし、これなんかは最近まで使っていたもののようだ。


	
	これは触っているのではありません。寸法を測っているのです。錦織さんの話では、この寸法のわらじは足にちょうどハマルくらいの
	おおきさで、こんなものを履けるのは農民でも裕福な方だそうで、貧乏な農民はこの半分の大きさの草鞋、つまり足の長さの半分の草
	鞋しか履けなかったそうである。それを「あしなか」と呼んでいたそうだが、昔は草履なども半分の大きさで安い物をそう呼んで売っ
	ていたようだ。



これは全部ちゃんとした草鞋ですな。あしなかもどっかから持ってきて、そういう解説を入れてくれれば「民俗学」らしくなるのにねぇ。



これも子供の頃、家で婆ちゃんが使ってました。


	
	このオカマも子供の頃実家で使っていた。かまどがあって、子供の誰かがその前に座って火の番をしていた。あまり鮮明には覚えてい
	ないので、或いはお祭りとか、年に何回か使っていたのかも知れない。

	しかしこうして見てくると、我々が子供の頃(昭和30年代)まで、こういう民具館や民俗館においてあるようなものはみんな現役で
	使われていたように思う。農具などはあまり変わりようが無いのかもしれないが、殆ど弥生時代以降千年以上にわたって変化していな
	いのではないか。日本人の生活習慣や生活用具が目まぐるしく変わりだしたのは、昭和40年代に入っての高度成長期を迎えてからで
	ある。生活はアメリカナイズされ、食卓にはご飯よりパンが並ぶことが多くなり、電器機械がやれることはみんな電器に任せてきた。
	確かに便利で生活は快適になったが、こういう所に来て思うのは、ただ懐かしいというノスタルジィーだけではなく、何か同時に大事
	なものも捨て去ってきたのではないかという不安である。



ひだしらかわのがっしょうづくりのみんか
飛騨白川の合掌造りの民家




	
	白川郷・五箇山の合掌造り集落	出典:ウィキペディア

	白川郷・五箇山の合掌造り集落(しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛越地方の白川郷と五箇山にある合掌
	造りの集落群である。1995年12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、日本では6件目の世界遺産となった。

	白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は
	中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は岐阜県白川村と高山市荘川町に分かれている。五箇山は富山県の
	旧平村、上平村、利賀村の3村に含まれていたが、現在はいずれも南砺市に属する。
	この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ
	確認できるが、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。

	江戸時代の白川郷は金森藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保
	護されていた。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山
	は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており、稲作に不向きな土
	地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作さ
	れたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分
	が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった。合掌造りは、そうした家内工業の発展にあわせて、大型化、多層化し
	ていったと考えられている。なお、合掌造りが普及する以前の住居形式については、まだはっきりしていない。



我が歴史倶楽部の、栗本さんのお母上の出身はこの白川だそうで、昔はよく白川へ行ったそうだ。



これがオリジナルです。







































窓の外にはくノ一忍者たちがいる。





















































白川合掌造りへやってきたくノ一軍団。





せっかくだから記念撮影。コスチュームは全部自分たちで造るのだそうだ。歴女もやるもんだねぇ。





せっつのせのみんか
摂津能勢の民家




























ひゅうがしいばのみんか
日向椎葉の民家



	
	日向椎葉の民家(旧椎葉家住宅)	出典:豊中市HP

	宮崎県日向の椎葉村は、飛鳥白川村や阿波祖谷村と共に、わが国三大秘境として知られている。昭和34年(1959)に移築されたこの
	民家は、急峻な山の斜面に建てられるため、「竿家造り(さおやづくり)」と呼ばれる併列間取りの細長いつくりをしている。奥行
	きが狭く、ドジ(土間)・ウチネ(茶の間)デイ(下座敷)・コザ(上座敷)の各部屋が一列に並んでいる、山村特有の間取りをし
	ている。一番の上座・コザには神棚・床があり、肥を手にした者はその日一日この部屋に入ることができなかったと言われている。
	デイとウチネにはいろりが切ってあり、家族の者はここで寝る。これらの各部屋の前面3分の1くらいのところに中仕切をしたウチ
	エンがあり、その外にホカエンが続く。背後は山腹に接しているため窓のない板壁となり、物入戸棚・神棚などが並べてある。
	屋根は下地に筵(むしろ)をかぶせ、この上から茅(かや)で葺(ふ)いている。寄棟(よせむね)の屋根にはウシと呼ぶ自然木の
	置千木をのせて、棟押えとしている。大家族でもないのにこのような大きな家が建てられたのは、12月の夜、神楽を催すためで数
	日前より忌み清められたデイで演じられる。コザは楽人、世話人たちの控室になり、ウチエン、ホカエンには村人が家格の順に座っ
	て神楽を楽しんだ。































庭先にはカリンが植わっていた。これは韓国南部に一杯生えていた。




あまみおおしまのたかくら
奄美大島の高倉




















はらだじょうしゅ はらだうえもんのじょうのごりんとう
原田城主 原田右衛門尉の五輪塔



	

	原田城跡		出典:豊中市パンフレットより抜粋

	原田城跡(北城)は、昭和38年(1963年)、当時の豊中市文化財保護規則により市史跡に指定され、昭和62年(1987年)の豊中市
	文化財保護条例の施行にともなって、あらためて市史跡に指定された中世の城館である。「城」というと、天守閣がそびえ立つ江
	戸時代の城郭、あるいは山そのものを要塞にする戦国時代の山城をイメージする。しかし、原田城跡はそうした大規模な城郭では
	なく、原田・曽根一帯を中心に活動した土豪原田氏の居城で、いわゆる「小規模城館」と呼ばれるものである。


	
	原田村には、北城と南城という二つの城があった。江戸時代末期に作成された絵図(『文政七年原田村絵図』)を見ると、原田村
	の中に南城跡を示す四角形の堀跡が描かれている。南城は、発掘調査によって16世紀後半に内堀と外堀が掘削されたことが確認さ
	れ、その範囲と位置が推定されている。一方、北城については「北城跡」と記され、その一帯には松林が描かれている。北城につ
	いても発掘調査によって鎌倉時代に築かれたことがわかってきた。
	北城は、豊中台地南西端の丘陵にあり、南西に広がる平野を一望できる絶好の位置に立地する。その丘陵の東側には、南北140m・
	東西120mの城域を示すように、「ヨ」字状の外堀が巡らされている。丘陵先端にある約50m四方の主しゅかく郭部は、荒木村重の
	乱が起きた16世紀後半に、幅15m・深さ5mもある内堀を巡らすなど、大規模な改修を行なって守りを固めている。


	
	原田氏は、弘安元年(1279年)に能勢一帯に君臨した多田の院御家人の一員としてはじめて記録(『多田神社文書」)に登場する。
	一方、北城は13世紀後半〜 14世紀初頭のうちに築かれたことが、発掘調査で出土した遺物から推定されている。康永3年(1344年)
	に、原田氏は大炊寮の所領である六車御稲の年貢を横取りするなど、徐々にその力を蓄えていく。15世紀中頃には原田一帯を支配
	する土豪に成長するとともに、室町幕府の管領(将軍の補佐役)で、摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれ、戦乱の世に巻
	き込まれていくことになる。
	天文16年(1547年)、細川氏の内紛で細川氏綱側についた原田氏は細川晴はる元もとの大軍に攻められ、北城は落城した。これに
	より北城は廃城し、荒廃していったことが推測される。16世紀後半には南城の堀が掘削されていることから、これ以降、原田氏は
	南城を中心に活動していたとみられる。



これは「若狭地方の地蔵像」とある。




さかいのすいしゃ
堺の水車




木陰の向こうに何やら風車のようなものが見えてきたが、風車だった。





錦織さんは昔小さな頃、家族で堺に住んでいたことがあるそうで、この風車がずらりと並んでいる光景を見たそうである。







くりぶねてんじこーなー
クリ舟展示コーナー




















やまととつかわのみんか
大和十津川の民家








河内さんがのぞき込んでいる家屋は厠(便所)である。その中に刀置きが造ってある。





ここではコスプレ組が、この一棟を借り切って本格的な撮影をやっていた。









十津川村のジオラマ















えちぜんつるがのみんか
越前敦賀の民家

































	昔出産は汚れたものとされ、粗末な小屋や日の当たらないような部屋の隅ですることが多かった。一番衛生的で無ければならない
	行為が、すこぶる非衛生的な環境で行われていたのである。町人も農民も侍もその考えは同じで、出産中の武士は血に汚れている
	と言う事で登城禁止だったし、裕福な商人の家などでは出産小屋を新に建て、出産後は取り壊された。京都郊外には最近まで、藁
	葺きの粗末な出産小屋が残っていた。馬小屋で生まれたのはキリストだけではないのである。

















きたかわちのちゃしつ
北河内の茶室




ここではこの日、お茶の会が催されていたので内部の撮影はしなかった。









なんぶのまがりや
南部の曲家






3月から修理初めてまだ終わっていない。おそらく業者が飛び飛びにしかこないのだろう。もう半年も経っているのに。







しょうどしまののうそんかぶきぶたい
小豆島の農村歌舞伎舞台


























くるすやまみなみふんぼぐんのせきぞうぶつ
来栖山南墳墓群の石造物




昔の例会で、茨木のキリシタン遺跡を訪ねたときこの来栖山にも登ったが、あそこにあったんだ。







しなのあきやまのみんか
信濃秋山の民家










なんか縄文遺跡の竪穴住居の中へ入っていくような感じだった。





















地面の上にそのまま筵や御座をひいて、その上で生活するのだ。

















錦織さんはこの秋山郷が気に入ったようで、「秋の例会小旅行はここに行こう!」と叫んでいた。



































おしまい
反省会・暑気払い




千里中央「白木や」の男ジヨッキで乾杯ーっ!



ブラックマン二人。右の三人は同年です。昭和25年生まれ。



「いゃー暑かったねぇ」「その分ビールが旨いわ」「ほんま、ほんま」「たまらんのぉ、こののど越し」「よくぞ酒飲みに生まれけり」









クリックすれば超デカクなります。




邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 189回例会・日本の民家を見てビアガーデンへ行こう!