2012年秋・第180回例会 北海道・道南の旅

大船遺跡
2012.10.10(水)







	私はここに2001年6月30日に訪れた。もう11年前になる。その時の模様は、「遺跡めぐり」の大船C遺跡のコーナーにまとめたが、まだ
	遺跡は全然整備されていない状態であった。11年が経って遺跡もずいぶん綺麗になった。展示室も火事にあって、遺物も大半が現在は
	新しく出来た「函館市縄文文化交流センター」へ移されている。この後このセンターを訪ねるのだが、遺跡はやはり何度訪問しても楽
	しいし、知識もまた新たになる。ホントに学習というのは繰り返しだと痛感する。以下、青字は前回訪問時のHPから全文転載した。


	縄文時代の大集落 ”大船C遺跡”

	大船C遺跡は北海道南部にあり、函館市の東、大船川左岸の海岸段丘(標高42〜47m)につくられた、縄文時代前期末から中期末までの
	約千年間にわたる遺跡である。平成8年度の約3,500平方mにおよぶ発掘調査で、大型の竪穴住居を含む92軒の竪穴住居や盛土遺構など
	が発見され、北海道を代表する重要な遺跡であることが判明した。 遺跡の主体部はまだ西側に広がっていることから、遺跡全体は非常
	に大規模な集落になるものと予想される。

	遺跡の主な特徴は、

	@.竪穴住居の規模が全体的に大型で、なかには深さが2mを超える竪穴住居が発見されていること、
	A.集落も、これまでに100軒を超える竪穴住居が見つかるなど、非常に密度が高いこと、
	B.縄文時代の廃棄(儀礼?)の場所と考えられる盛り土遺構には、当時の食べ物として利用した動物や植物の痕跡が残っていて、縄文
	    時代を知る貴重なタイムカプセルとなっていること、

	などが挙げられるが、これらはそっくり青森県三内丸山遺跡と共通する特徴である。つまり、縄文時代中期、津軽海峡を挟んでこの辺り
	一帯に一大縄文王国が繁栄していたと類推できるのだ。実際、この遺跡が栄えた時代は、東北北部と北海道南部に共通した文化圏が存在
	していた事が知られているが、クジラやオットセイなどの海獣骨が出土するなど、北海道独自の食文化も存在していた。

	遺跡そのものは、雪や霜による崩壊を防ぐため、平成9年1月埋め戻されたが、一部見学用に保存処理がほどこされて残っている。遺跡の
	すぐ横に展示室が設けられ、出土した遺物の一部が展示されているが、この地方に芽生えた縄文の息吹が感じられる素晴らしい出土品で
	あふれている。
	この記述は、前述したように「函館市縄文文化交流センター」へ移されているので、現在ここには出土物は無い。展示室はパネルやレプ
	リカによる「情報館」になっている。

	縄文時代の竪穴式住居跡は通常、深さ0.5m、長さ4〜5mというのが相場であるが、ここの住居跡には、深さ2.4m、長さ8〜11mという大型
	のものがある。見ていただいて分かるように、とてつもない深さであるし、柱穴も通常より一回り大きい。柱の材質は他の縄文遺跡と同
	様クリの木が多く用いられているが、この大きさと深さから、二階建て住居を指摘する声もある。また三内丸山遺跡同様、大型の集会場
	ではないかという意見もある。
	この遺跡から出土した発掘品の総数は約18万点で、その多くは住居に破棄されたものと思われる。トレンチ調査の結果、盛土遺構には膨
	大な遺物が包蔵されていることが判明したが、現在は未調査のまま保存されている。出土遺物の中には、土器や石器の他に、ミニチュア
	土器や漆器、垂飾等精巧なものも発見されている。また当時食料としていた、クジラ・マグロ・シカ等の骨も出土している。墓坑からは、
	副葬された個体土器や「10才前後の男の子」と判定された歯も見つかっている。



最初、台地の下に車を止めて車道を歩いたので海を背景に記念撮影したが、上まで上がれることが分かったので遺跡の側まで車を移動した。



歩いて行こうとしている皆さん。先発隊が上から「車で行けまっせー」。





海の見える一等地である。おそらく縄文時代、海岸はこの崖の下まで迫っていたものと思われる。





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中央の深い穴は何のために掘ったのか。炉にしては深いし大きすぎるので、食料の貯蔵坑かもしれない。





オジサンが一人で働いていた。おそらくこの遺跡の維持を任されているのだろう。草をむしったり、我々に解説したり。



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解説にもあるように、何代にもわたって住居を建て替えるて住むほど、この辺りには食料が豊富だったのだ。














	約千年間にわたりここに縄文人達が住んでいた。一口に千年と言っても考えたら気の遠くなるような期間である。現代から千年先が果た
	してどんな世界になっているのかは想像も出来ないが、ここでの千年間は殆ど変化の無い時代だった。千年もあるのなら、どこかの民族
	が先駆けて金属器を発明したり、社会制度を革新的に構造化したりできそうな気もするが、世界中どこを見回してもそんな民族は居ない。
	縄文時代は約1万2千年続いたとされるが、住居の形や土器・石器の形状に変化は現れるものの、大きな変革はまず訪れない。
	これはつまり、人類にとって必要な培養期間だったという事が出来る。脳の発達に、おそらくそういう長い期間が必要だったのでは無い
	かと思わせる。西欧でも長い新石器時代の期間があるが、どこかで車を発明した民族などはいやしない。世界中、等しく同じような環境
	下で生活しているのである。これを「時代の同時性」と呼ぶ。
	金属は、私見ではおそらく、自然現象、雷による山火事や火山の爆発などで岩が解け、堅いものが岩から出てきて見たこともないものに
	変わったことを発見して、それを加工できることを知って急速に金属器の発展を見たのだろう。そしてやがて武器が出来、車ができ、
	「鉄」は人類に欠くべからざる宝になった。それからコンピュータが出現するまで、縄文時代の五分の一の期間も必要としていない。
	










上の台地一帯が「縄文団地」だったのだ。我々が見たのは黄色い円の部分である。







前回はここに出土物があった。縄文土器や石器が所狭しと置かれていたが火事になった(前回訪問レポートに記事がある)。






	以下の青字部分も、前回訪れたときの解説である。

	南茅部町と縄文文化
	
	南茅部町は渡島半島南東部の噴火湾に面していて、東西33.3キロm、南北12キロmに細長く延びた町である。冬は温暖な気候のため北海道
	の中でも過ごしやすい地域であり、本州に近いため初夏には梅雨もある。近世以来、海を生活の場として良質な真昆布や大謀網による漁業
	が盛んである。特に天然昆布の採取は夏の風物詩で、最も浜が賑わう季節を迎える。バスに1時間乗れば函館市街へ出、函館空港へは35分
	である。湯ノ川温泉が函館市郊外にあり、私が泊まったホテルの屋上露天風呂からは、函館空港の滑走路のライトが美しかった。

	この地方は豊かな食料資源と気候温暖な海山に囲まれて、かつ多くの小河川を持ち、縄文人の生活が安定して営める環境を相当昔から維持
	してきたものと考えられる。この地にはじめて縄文人が住んだのは、今から約 9,000年前で、「川汲遺跡」ではその証拠となる押型文系の
	土器と竪穴住居が発掘されている。その後「縄文海進」と呼ばれる温暖化現象の中で、前期・中期を代表する「ハマナス野遺跡」や「臼尻
	B遺跡」「大船C遺跡」といった大規模な集落が形成される。また、後期・晩期になると、人々の精神文化は高揚し、土偶やストーンサー
	クルが作られるようになる。交易も盛んになり、ヒスイやアスファルトも遠隔地から入ってくる。通算すれば縄文時代早期から晩期に至る、
	約 7,000年間にわたって連綿と縄文文化が栄えていたのだ。

	この町のなかには、これまでに88ケ所の遺跡(埋蔵文化財包蔵地)が確認されていて、その面積は延べ150万平方mに及び、大部分は縄文
	時代の遺跡である。これらは昭和38年の函館中部高等学校による「黒鷲(くろわし)・八木遺跡」の発掘以来、30遺跡以上が調査され
	て多くの竪穴住居跡や多数の遺物が出土している。昭和48年には国庫補助事業として「ハマナス野遺跡」が本格的に調査され、以後約25
	年間発掘調査は継続されている。
	これまでに各遺跡から発掘された出土物の総数は400万点を超えている。調査の結果、「川汲(かっくみ)A遺跡」出土の道内最古級の
	土器や、縄文時代の前期から中期にかけての「ハマナス野遺跡」や「臼尻B遺跡」などの大規模な集落跡の発見や、さらにヒスイ製の玉や、
	「豊崎N遺跡」や「磨光(まこう)B遺跡」からは天然アスファルトや、専門技術者集団の存在を示唆するアスファルト工房跡などもが出
	土し、本州各地との交易を示す遺物が見つかるなど、考古学上貴重な発見が相次いでいる。

	縄文農耕の根拠となったヒエ・ソバの炭化した種子も「ハマナス野遺跡」から出土しているし、「臼尻B遺跡」から出土した土器には、シ
	カの絵が線刻されており、落とし穴でシカを取る様子を現わしたものとされている。なかでも昭和50年、農作業中に発見された「著保内
	(ちょぼない)遺跡」出土の中空(ちゅうくう)土偶は、中空土偶としては我が国最大の大きさという事もあって、国から重要文化財に指
	定されている。
	ご存じの通り、今回「中空土偶」は北海道初めての国宝になった。それを記念して国宝保管施設としての機能も持った「函館市縄文文化交
	流センター」が、著保内遺跡の側に新たに建設され、大船遺跡からの出土物もそこへ移転された。ここは「縄文体験館」になっている。

















































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