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2013.8.13HP製作


		尼崎は、猪名川・神崎川の河口に12世紀頃形成された砂州が陸地化した土地である(地名にも「長洲(ながす)」
		や「杭瀬(くいせ)」という地名があることからもそれは伺える)。中世には、神崎が淀川と大阪湾を結ぶ港町・
		一大遊興地として栄えていた。

		<歴史年表>	出典ウィキペディア

		紀元前100年頃、弥生時代、上ノ島で稲作がはじまり、この頃から田能で人々の生活が始まる
		400年頃、古墳時代、池田山古墳(4世紀後半)、御園古墳(5世紀後半)、伊居太古墳(5世紀末)など塚口古墳群が築かれる
		500年頃 猪名県主などの豪族が支配した
		756年 東大寺の荘園として猪名荘が成立する
		785年 長岡京遷都に際して、平安時代後期には、現尼崎市域の神崎・浜崎・今福・杭瀬といった港が栄える
		11世紀頃 大物浦(大物町付近、淀川河口の要港)が繁栄する
		1185年 大物浦から源義経率いる源氏軍が四国に撤退した平氏を追撃するため出航
		1350年 長遠寺が日恩により創建される
		1409年 性曇上人により塚口城が築かれる
		1420年 本興寺が日隆により創建される
		1467年 大内政弘によって市街地が焼き討ちにあう
		1487年 薬師寺氏により富松城が築かれる
		1569年 織田信長によって市街地が焼き討ちにあう
		1617年 尼崎藩が設置され、戸田氏鉄により尼崎城が築かれて城下町となる
		1871年 廃藩置県により尼崎県となる
		1872年 兵庫県に編入
		1873年 尼崎最初の小学校、常松小学校が開校
		1874年 大阪と神戸を結ぶ官設鉄道(後の東海道本線、JR神戸線)が開通し、神崎ステーション(現・JR尼崎駅)が設置される
		1889年 町村制施行により、川辺郡尼崎町・小田村・園田村・立花村、武庫郡大庄村・武庫村が発足
		1889年 尼崎紡績(現・ユニチカ)が発足。この頃から工業が発展しはじめる
		1891年 尼崎市と伊丹市を結ぶ川辺馬車鉄道(のち摂津鉄道・阪鶴鉄道を経て、現・JR福知山線(JR宝塚線))が開通する
		1905年4月12日 大阪と神戸間を結ぶ日本初の本格的都市間電気鉄道、阪神電気鉄道本線が営業開始。市内に杭瀬駅、大物駅、
			尼崎駅、出屋敷駅が設置される
		1916年 立花村の一部を合併して尼崎市となり、市制施行
		1917年4月26日 - 初代の市章を制定する。[7]
		1920年 阪神急行電鉄(後、京阪神急行電鉄を経て、現・阪急電鉄)神戸線・伊丹線が開通。当初、市内には塚口駅のみを設置
			(園田駅と武庫之荘駅は昭和10年代の設置)
		1927年 阪神国道(現・国道2号)が開通。国道上の交通機関として阪神国道電軌(後・阪神国道線)開業
		1936年 尼崎市と小田村が解消合併(合体)
		1936年8月4日 - 2代目の市章を制定する[8]
		1942年 大庄・武庫・立花村を合併
		1945年6月1日・6月15日 米軍のB29による大空襲によって大きな被害をうける
		1947年 園田村が尼崎市に合併し、現在の尼崎市域となる
		1955年 尼崎の海岸部全域を覆う大防潮堤建設が完了する
		1962年 市庁舎竣工。設計は村野藤吾
		1963年7月16日 日本初の都市間高速道路として名神高速道路、尼崎−栗東間(71.1km)が開通
		1969年 西宮市との境界変更を実施、武庫川東岸の平左衛門町を西宮市から尼崎市に、西岸の田近野町を尼崎市から西宮市に
			変更
		1975年 阪神国道線を廃止
		1995年1月17日 阪神・淡路大震災発生。市内での死者49人、負傷者7145人
		2001年4月1日 県下で初となる特例市の指定を受けて移行
		2005年4月25日 JR福知山線脱線事故が発生
		2009年4月1日 県下で3番目となる中核市へ移行


		

		<尼崎藩>	建部家→戸田家→青山家→松平(桜井家)

		建部政長が大坂の陣の功でそれまでの700石から一気に尼崎1万石の大名となり、尼崎藩が成立する。播磨林田へ転出。
		近江膳所より、5万石で入った戸田氏鉄は尼崎城を築城し、美濃大垣へ。
		遠江掛川より、青山幸成が5万石で入り、4代継いで信濃飯山へ。
		遠江掛川より、松平(桜井)忠喬が4万石で入り、以後、桜井松平家の支配となる。

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		歴代藩主

		<建部家> 新知 1万石 外様 柳間 陣屋
			藩主 				官位・通称 			出自(実父・嫡出関係) 
		初代  建部政長(まさなが) 		従五位下 丹波守 		建部光重の三男 播磨林田へ


		<戸田家>  近江膳所より 5万石  譜代 帝鑑間 城主
 			藩主 				官位・通称 			出自(実父・嫡出関係) 
		初代	戸田氏鉄(うじかね) 		従五位下 采女正 		戸田一西の子 	美濃大垣へ


		<青山家>  遠江掛川より 2万石  譜代 城主
			藩主				官位・通称			出自(実父・嫡出関係) 
		初代	青山幸成(ゆきなり) 		従五位下 大蔵少輔 		青山忠成の四男 
		二代	青山幸利(よしとし)		従五位下 大膳亮 		青山幸成の長男 
		三代	青山幸督(よしまさ) 		従五位下 播磨守 		青山幸利の子青山幸実の長男 
		四代	青山幸秀(よしひで) 		従五位下 大膳亮 		青山幸督の長男 	信濃飯山へ


		<松平(桜井)家>  遠江掛川より 4万6石  譜代 帝鑑間 城主
			藩主 				官位・通称 			出自(実父・嫡出関係) 
		初代	松平(桜井)忠喬(ただたか) 	従五位下 遠江守 		松平(桜井)忠倶の子忠継の二男 
		二代	松平(桜井)忠名(ただあきら)	従五位下 遠江守 		松平(桜井)忠喬の二男 
		三代	松平(桜井)忠告(ただつぐ) 	従五位下 遠江守 		松平(桜井)忠名の三男 
		四代	松平(桜井)忠宝(ただとみ) 	従五位下 遠江守 		松平(桜井)忠告の二男 
		五代 	松平(桜井)忠誨(ただのり) 	従五位下 遠江守 		松平(桜井)忠宝の二男 
		六代 	松平(桜井)忠栄(ただなが) 	従五位下 遠江守 		松平(桜井)忠告の子、忠宝の弟 
		七代	松平(桜井)忠興(ただおき) 	従五位下 遠江守			松平(桜井)忠栄の七男 


尼崎城公園



		3年前の写真フォルダーが出てきた。まだ現役時代に仕事で尼崎へ来た時、部下と一緒に散策した時の写真だ。
		すっかり忘れてしまっていた。何の仕事で来たのかもよく覚えていないが、こうやって城下町散策をしている
		くらいだから大した仕事では無かったのだろう。3年前までは働いて(遊んで)いたんだなぁ。





		尼崎城 (兵庫県) 出典:ウィキペディア

		別 名 : 琴浦城、尼丘城 
		城郭構造: 平城 
 		天守構造: 複合式層塔型4重4階(1618年築・非現存) 
		築城主 : 戸田氏鉄 
		築城年 : 元和3年(1617年) 
		主な改修者:青山氏でほぼ完成 
		主な城主: 戸田氏鉄、青山氏、松平忠喬 
		廃城年 : 明治6年(1873年) 
		遺 構 : 地上面に遺構なし 
		指定文化財:なし 
		再建造物: 石垣および土塀が復興復元 

		尼崎城(あまがさきじょう)は兵庫県尼崎市にあった尼崎藩の藩庁の城郭である。
		元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し、戦国時代の城跡に築いた。3重の堀をもち、本丸には
		4重の天守と3重の櫓が上げられた。
		戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平
		家の支配が7代と続き幕末を迎えた。最後の藩主は松平忠興である。
		明治6年(1873年)の廃城令により建物は一部を除き取り壊されたが、明治7年(1874年)、本丸御殿の一部が菩提
		寺・深正院(市内大物町)の本堂として移築された。この本堂は戦前まで残っていたが、戦災に遭い焼失した。
		城跡に尼崎城址公園が整備され、石垣および土塀が模擬復元されている。




		<歴代城主>

		戸田氏鉄が尼崎城を築城してから松平忠興で廃城をむかえるまで3氏12代の城主が入れ替わった。歴代城主について
		は尼崎藩歴代藩主を参照。

		<松平忠喬>
		松平 忠喬(まつだいら ただたか)は、信濃飯山藩の第2代藩主、のち遠江掛川藩主を経て、摂津尼崎藩の初代藩主。
		尼崎藩桜井松平家4代。
		天和2年(1682年)(異説として天和3年(1683年)1月9日)、飯山藩初代藩主・松平忠倶の長男・忠継の次男として
		生まれる。父の忠継は病弱だったために廃嫡され、忠喬の兄・忠敏が祖父の世子に指名されていたが、その忠敏も早
		世したため、忠喬が祖父から世子として指名された。元禄9年(1696年)の祖父の死去により家督を継いだ。
		宝永3年(1706年)1月28日、遠江掛川に移封される。宝永8年(1711年)2月11日に摂津尼崎に移封され、その初代藩
		主となった。幕命により朝鮮通信使の接待役、江戸城西の丸大手門番、日光東照宮の警護役などを務めている。寛延
		4年(1751年)3月20日、家督を次男の忠名に譲って隠居する。宝暦6年(1756年)2月5日に死去した。享年75。


		<K縄張り>

		

		

		尼崎城は、大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築城された城で、尼崎城に直接船が横付けできた事から、海
		に浮かんだような城であったと言われている。
		水堀は2重、3重に巡らされ、縄張りはほぼ正方形で本丸を中心に、天守・三重櫓・門・本丸御殿・二之丸・松之丸・
		西三之丸・東三之丸・南浜などを備えた近世城郭であった。


		<本丸>

		本丸は東西、南北とも約115mで尼崎城の中心に位置し、政務をつかさどる重要な場所であった。方形の敷地に天守1基、
		3重櫓が他の3隅に1つずつ建てられ、中心に御殿があった。虎口は東に虎之門、南に太鼓門、西に搦手門の3つが開か
		れていた。本丸跡地は尼崎市立明城小学校になっている。
		天守本丸の東北隅に位置し、東西21m、南北17m、高さ18m、西側と南側に付櫓を持つ複合式層塔型4重天守で「分間城図
		付絵図」では「四重組大櫓」とも併記されている。外観は白漆喰総塗籠で2重目から4重目に唐破風や切妻破風が付けら
		れていた。隅櫓隅櫓は天守以下の4隅に建てられ、何れも3重で2重目屋根に唐破風、切妻破風、千鳥破風を付けていた。
		東南隅:武具櫓、西南隅:角櫓(伏見櫓)、西北隅:塩?櫓

		

		

		






		<尼崎城と大物城>

		

		尼崎城と大物城は同一の城か、別の城かの議論がある。
		大物城細川高国が永正16年(1519年)に当初は柵程度の城を築城。その後、増改築をし本格的な戦国期の城が大永6年
		(1526年)には築城していたと思われる。また、この大物城が別名「尼崎城」とも呼ばれていたので、現在の尼崎城と
		も混同されやすい。

		

		尼崎へ入封した戸田氏鉄が元和3年(1617年)に築城。本丸の位置は、中世の絵図を参考にすれば、本興寺の故地に当
		たる。この「近世尼崎城」は、現在の尼崎市北城内・南城内に位置する。
		尼崎市史(昭和40年代発行)によると、大物城を取り壊しその上に規模を拡大して近世尼崎城築城と判断していた。
		これが同一の城という根拠になり、他の尼崎城の文献にもそのような記載が見かけられる。しかし、その後に尼崎市立
		地域研究史料館が編集している地域史研究に掲載されている小野寺逸也の論文「江戸時代前期の尼崎城下絵図について
		(2)」では、戦国期大物城はむしろ近世尼崎城の北東、大物の西側付近にあったものとの考えが示されている。
		『尼崎城下絵図』によると、池のような場所の南に「古城」という場所が記載されており、これが大物城のことではな
		いかと推察されている。現在の阪神電車車庫東端からその東側辺りで、近世尼崎城でいうと城下町にあたる。


		これらよりただちに「同一の城ではなかった」とは言えないが、現在では「別の城であった」という説が有力である。







		<尼崎城の遺構・遺物>

		

		現在、尼崎城の地上の遺構としては、確認できるものは少ないが、尼崎市教育委員会は20回以上の発掘調査を実施して
		おり、本丸御殿跡等建物遺構や、外堀として利用されていた庄下川の堤防下より石垣の一部の遺構や、その他多数の遺
		物が出土している。発掘調査に関しては、尼崎市立地域研究史料館で調査報告書を見ることができ、出土された遺物に
		関しては尼崎市立文化財収蔵庫にて閲覧することができる。


		<参考文献>

		『尼崎城築城』(Web版尼崎地域史事典『apedia』)
		『地域史研究第11巻第3号』尼崎市立地域研究史料館、昭和57年3月
		『尼崎城ミニ事典』尼崎市立地域研究史料館





公園の隅に図書館があって、ここで尼崎城関係資料が公開されている。



上は当時部下だった大島君。奥さんは漫画家だった。私が定年になってすぐ辞めたと聞いたが、いまどうしているのだろう。







































櫻井神社







		櫻井神社 (さくらいじんじゃ)

		主祭神 櫻井信定公より十六代忠興公までの歴代城主

		当神社は、明治15年、尼崎城内に建立された。櫻井松平の祖、信定公は、戦国の世に勢力拡大に尽力され、三河安城に
		その基盤を築かれた。当時の世のならいで、七代目忠頼公が、28才で亡くなり、家が断絶するが、八代目忠重公の努力
		と徳川家康公のはからいで、お家再興がかなう。十代目忠喬公の御代、遠州掛川より尼崎城に移封。即ち尼崎初代の城
		主となる。代々の城主は文芸に優れ、中でも尼崎三代目城主忠告公は亀文と号して、「まづ霞む竈々や民の家」の一句
		を境内石柱に残されている。 
		最後の城主忠興公は、明治10年の西南戦争で敵味方区別なく戦傷者を看護され、これが世界赤十字に認められ、日本赤
		十字社の誕生を見るに至る。


















































契沖生誕の地(比定地)


尼崎市立中央図書館南側

		契沖	出典:ウィキペディア

		契沖(けいちゅう、1640年(寛永17年) - 1701年3月4日(元禄14年1月25日))は、江戸時代中期の真言宗の僧
		であり、古典学者(国学者)。
		摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川氏、字は空心。祖父下川
		元宜は加藤清正の家臣であったが、父元全(もとたけ)は尼崎藩士から牢人(浪人)となったため、8人の子は
		長男を除いて出家したり養子として家を離れざるを得なかった。
		契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の■定(かいじょう)に学んだ
		後、高野山で阿闍梨の位を得る。ついで摂津国西成郡西高津村(現在の大阪市天王寺区生玉町)の曼陀羅院の住
		持となり、その間下河辺長流と交流し学問的な示唆を受けるが、俗務を嫌い畿内を遍歴して高野山に戻る。
		室生寺では命を捨てようとしたこともある。
		その後、和泉国和泉郡久井村(現在の和泉市久井町)の辻森吉行や同郡万町村(現在の和泉市万町)の伏屋重賢
		のもとで、仏典、漢籍や日本の古典を数多く読み、悉曇研究も行った。1678年(延宝6年)妙法寺住持分となっ
		た後、晩年は摂津国東成郡東高津村(現在の大阪市天王寺区空清町)の円珠庵で過ごした。

		『万葉集』の正しい解釈を求める内に、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名
		遣いの例を『万葉集』、『日本書紀』、『古事記』、『源氏物語』などの古典から拾い、分類した『和字正濫抄』
		を著した。これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えた。

		<著書>

		徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』(『万葉集』注釈書。1690年)をはじめ、『厚顔抄』、『古今余材抄』、
		『勢語臆断』、『源註拾遺』、『百人一首改観抄』、『和字正濫抄』など数多く、その学績は実証的学問法を確
		立して国学の発展に寄与し古典研究史上、時代を画するものであった。

		<著作集>

		『契沖全集』 (全16巻、岩波書店)。

		<詠んだ和歌>

		和歌の浦に至らぬ迄もきの國や心なくさのやまと言の葉

		<主な伝記研究>

		『契沖研究』(築島裕ほか編著、岩波書店)
		久松潜一『契沖』(人物叢書・吉川弘文館)
		『久松潜一著作集12巻 契沖伝』(至文堂)
		井野口孝『契沖学の形成』(和泉書院・研究叢書)







契沖が尼崎の人だったとは





尼信博物館



		尼信博物館

		尼信博物館(あましんはくぶつかん)とは、兵庫県尼崎市にある尼崎信用金庫の企業博物館で平成13年6月1日に
		オープンした。1〜3階に展示室があり、2階の常設展示室では、旧尼崎城に関する資料が展示され、復元模型も
		設置されている。また、世界の貨幣も体系的に展示されている。






























		<常設展示品>

		城下町・尼崎展 尼崎藩領図
		太刀守家家
		金小札白糸威二枚胴具足
		槍の穂先(文殊包定作)
		使来聘自兵庫至大坂引船図
		尼崎藩札
		コイン・ミュージアム

		などがあるが、3年も経つと全く覚えていない。また行かなければ。
		阪神電車「尼崎駅」より南西へ徒歩5分。館無料。





本興寺




		本興寺 (尼崎市) 出典:ウィキペディア

		本興寺(ほんこうじ)は、兵庫県尼崎市寺町地域(現在の行政区画では開明町)にある法華宗本門流の大本山。京都の
		本能寺と並ぶ大本山である。
		1420年(応永27年)に日隆が開基。本能寺が伝道の中心地であったのに対し、本興寺は教学の中心地であり、勧学院と
		いう教育機関が設置された(現・学校法人法華学園興隆学林専門学校)。塔頭が6院ある。現住は134世小西日遶貫首。

		<歴史と沿革>

		1420年(応永27年) 尼崎の辰巳(南東)の大物(現・尼崎市大物〜東本町)に建立される。この最初の造営地は、近世
			の尼崎城本丸の故地である。
		1617年(元和3年) 尼崎城築城に伴い、現在地に移転
		1822年(文政10年) 本堂が類焼、5年後に再建
		1914年(大正3年) 勧学院、光長寺檀林と合併して、本門法華宗学林と改称
		1941年(昭和16年) 本門法華宗学林、法華宗興隆学林と改称。同年、学林教授ら6人が教義綱要の不敬罪で検挙(戦時
			宗教弾圧である)
		1984年(昭和59年) 法華宗興隆学林、法華学園興隆学林専門学校と改称。現在に至る

		<日隆聖人>

		日隆は18歳で京都の妙顕寺日霽門下に入り、本勝迹劣本門八品正意を唱えて当時の法華宗門下に、日蓮の本来の教えに
		立ち返るように説いたが、論戦となり妙顕寺を退出、応永22年(1415年)に本能寺を創立した。応永25年(1418年)、
		宗教上の対立から月明に刺客を送られるも、刺客らも日隆に帰伏したという逸話(『歴史と宝物』より)が伝わってい
		るが、この事件をきっかけに日隆は尼崎辰巳の浜に移った。この地で細川満元の男子誕生を祈願、無事に男子が誕生し、
		土地を寄進されて本興寺を創立した。

		<境内>

		本堂 - 1822年に焼失、1827年に再建された。
		開山堂 - 1558年に建立され、大物から移築した。1469年製の木造日隆聖人坐像を祀る。
		三光堂 - 三間社流造銅板葺で室町時代後期の建築。大物から移築した。拝殿は1597年に豊臣秀吉・加藤清正が再建。法
			華経信徒守護神を祀る。
		三光堂向唐門 - 一間一戸向唐門で江戸時代前期の建築。
		方丈 - 1617年に現在地で建立された。初期狩野派や伝小堀遠州作の障壁画が残る。
		祖師堂 - 1822年に焼失、1852年に再建された。日蓮聖人像を祀る。
		鐘楼 - 1633年に建立。
		御霊水井戸 - 1420年日隆聖人により掘られ、以来水が枯れることがないという。
		日隆聖人荼毘所塚
		三重宝塔
		塔頭 - 一乗院、恵運院、尭運院(鬼子母神を祀る)、本教院、本成院、養寿院

		<文化財>

		重要文化財(国指定)太刀 銘恒次(数珠丸恒次、じゅずまるつねつぐ):日蓮の戒刀。天下五剣の一つ。
		木造日隆聖人坐像
		開山堂
		三光堂
		方丈

		<その他の文化財>
		三光堂向唐門:市指定文化財(建造物)
		鐘楼:県指定文化財(建造物)
		笠塔婆:市指定文化財(建造物)
		海北友松筆押絵貼屏風:市指定文化財(絵画)
		本興寺文書:市指定文化財(書跡)
		流水文銅鐸:市指定文化財(考古資料)

		所在地     兵庫県尼崎市開明町3-13
		交通アクセス  阪神電気鉄道本線・阪神なんば線尼崎駅から徒歩5分。


		海北友松の屏風なんかがあるんだ。






















		我々夫婦は結婚後長男が生まれるまでこの尼崎に住んだ。結婚届は尼崎市に提出して、アルバムのような冊子と
		記念品を尼崎から貰った。アパートはJR東海道線と阪急神戸線の間だったので、この阪神沿線の南側には殆ど
		来たことがない。尼崎城は知っていたが、尼崎城趾が残っているのも知らなかったし、城下町の雰囲気が残って
		いるのもしらなかった。
		私が大阪へ来た頃は、尼崎南部の認識は「阪神工業地帯」であり、スモッグの街だったので、仕事以外ではこの
		あたりへ来ることは無かったのだが、これは認識を新にせねばなるまい。


邪馬台国大研究 / 歴史倶楽部ANNEX / 尼崎城下