Music: 柳生十兵衛





もう植えてしまった田もあったが、多くは今から田植えに掛かろうかという様子である。



摩利支天碑・柳生藩陣屋跡(城跡)方面へ向かう。



急坂を数分登り切ると岡の頂上へでる。そこが柳生十兵衛の弟「宗冬」が祀った摩利支天があった。




	ここからは柳生の町が一望できる。一万石の大名にしてはすこぶる小さな領域の城下町である。残っている時代絵によれば、同じ
	一万石でも青森の松前藩の賑わいなどは、ココに比べれば大都会のような有様である。尤も、あそこはコメはとれないので、一万
	石格という待遇なのだが。




	柳生氏といえば、石舟斎宗巌、但馬守宗矩など剣豪を輩出した剣の一族として知られる。そもそも柳生氏が名字とした柳生は大和
	国添上郡の一郷で、四方を山に囲まれた南北に細長い大和国最北端に位置する山里である。「柳生」は、楊生、夜岐布、夜支布、
	養父などとも書かれ、いずれも「やぎう」と読む。




	大和の戦乱	出典:ウィキペディア

 	大和国の中心をなす奈良盆地は国中(くになか)と呼ばれ、中世を通じて守護は置かれず、代わって興福寺が守護的な立場にあって
	一大勢力をなしていた。そのため、国中地方では、興福寺の寺僧である衆徒(しゅと)と、春日大社の神人(じにん)である国民が
	武士として成長していった。衆徒の代表としては筒井氏・古市氏らが知られ、神人では越智氏・十市氏らが代表格であった。

	南北朝の争乱期、興福寺の両門跡である一乗院と大乗院が南北に分裂して勢力を弱め、それが衆徒・国民の勢力を強めることになっ
	た。そして、越智氏が南朝方武士の中心勢力に位置し、筒井氏が北朝方武士の中心勢力として、大和国の南北朝の抗争は推移したの
	である。やがて、南北朝の争乱が終熄して、室町幕府体制が確立されたのちも、越智氏と筒井氏を軸に大和の争乱は続いた。永享元
	年(1429)、「大和永享の乱」が勃発し、戦乱のなかで越智氏が没落。さらに筒井氏に内部抗争が起り、それに幕府、河内守護の畠
	山氏らの介入があって、大和の武士たちは離合集散を繰り返しながら抗争を続けた。

	そのような大和争乱のなかで、山城と大和の境に位置する柳生を所領とする柳生氏も安閑とはしていられなかったと思われる。系図
	によれば、柳生新六郎光家が細川高国に属したとあるが、年代的に疑問が残るものである。とはいえ、応仁の乱後の戦乱のなかで、
	柳生氏も幕府内の権力闘争と無縁ではなかったことをうかがわせている。

	系譜  太線は実子。細線、二重線は養子。

		柳生永家
	     ┃
	     永珍(宗珍)
	     ┃
	     家重
	     ┃
	     道永
	     ┣━━━┓
	     家宗  秀政
	     ┃   ┃
	     光家  秀国
	     ┃   ┃
	     重永  秀友
	     ┃
	     家厳
	     ┃
	     宗厳
	     ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
	     厳勝  久斎  徳斎  宗章  宗矩
	     ┣━━━┓   ┏━━━┳━━━╋━━━┓
	     久三郎 利厳  三厳  友矩  宗冬 列堂義仙
	     ┏━━━╋━━━┓   ┏━━━┫
	     清厳  利方  厳包  宗春  宗在
	             ┃             ┃
	         厳延        俊方
	                ┃             ‖
	         厳儔        俊平
	     ┏━━━┫             ‖
	     厳春  房吉        俊峯
	     ┣━━━┳━━━┓      ‖
	     厳教  厳之  厳政  俊則
	              ┃      ┃     ‖
	         厳久  厳広  俊豊
	                ┃      ┃     ┃
	         厳蕃  厳直  俊章
	              ┃      ┃     ‖
	         厳周  鎮雄  俊能
	     ┏━━━┫      ┃     ‖
	     厳長  包治  延夫  俊順
	     ┃           ‖
	     厳道            俊益
	     ‖            ‖
	     厳信


	十六世紀になると、下剋上の横行もあって将軍の権威は凋落し室町幕府体制は大きく動揺していた。柳生氏の動向が明確にあらわれ
	てくるのは、そのような政情下におけるなかで、光家の孫にあたる美作守家巌の代であった。天文五年(1536)、河内半国・山城下
	五郡守護代を兼ねる木沢左京亮長政が、大和乱入を目論み信貴山に城を構えた。このとき柳生家巌は木沢左京亮に属して、伊賀の仁
	木氏、大和の筒井氏らと戦った。
 	やがて木沢左京亮は、管領細川晴元、三好長慶らと対立するようになり、天文十一年、河内大平寺の戦いに敗れて滅亡した。その後、
	三好氏の与党であった筒井順昭が大和の木沢残党を攻略しはじめた。天文十二年、須川の簀川氏を滅ぼした順昭は、翌年、一万余の
	軍勢をもって柳生に攻め寄せた。戦いは小柳生合戦と呼ばれ、家巌・宗巌父子の奮戦で攻防は三日間に及んだが、衆寡敵せず小柳生
	城は落ち柳生家巌は筒井氏に降った。 



摩利支天碑を降ったところに八坂神社があるので参拝する。その先が陣屋跡である。








	八坂神社と言えば京都東山の祇園八坂神社が有名である。現在では、ここが八坂神社の総本山とされているが、祇園さんとも呼ばれる
	この八坂神社は元々素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る神社では無く、牛頭天王(ごずてんのう)、八王子(はちおうじ)、頗梨采
	女(はりさいにょ・ばりうねめ)を祀る、渡来の社祠であった。牛頭天王は日本では素戔嗚尊と同神とされ、頗梨采女は牛頭天王の后
	神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同
	一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の八人の王子であり、暦神の八将神に比定された。




	という過程を経ているので、今では京都の八坂神社と言えば、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約 2,300社)の
	総本となっている。しかし、そもそもの素戔嗚尊を祀る神社とは系統が別で、恐らくは何か違う神社があったのだろうと思われるが、
	それが何であったのかはもう判らないのである。
	京都の八坂神社は、慶応4年(1868年)の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれ
	ていたのを「八坂神社」と改めている。




	この柳生の八坂神社も、そうなってからの柳生への勧請だろうと思われる。以下の解説にあるように、まず京都から柳生の大保へ勧請
	し、それから此の地へも分社されたものと思われる。











ここが八坂神社の正式な(?)正面である。我々は裏側から神社へ入った事になる。裏口が好きだ事。





八坂神社の2,30m先で道が上下に分かれており、上(左)へ行けば陣屋跡である。かっては小学校だったようだ。





その陣屋の石垣の中に大岩があって、そこに一体の地蔵さんが刻まれていた。かすれていて、もうお地蔵さんか観音様か、はたまた・・






	陣屋とは、本格的な城を持たない大名が建てる居館である。つまりお城と言う事になるが、およそ城のイメ−ジとは程遠く、やや
	広めのお屋敷という感じである。江戸時代大名の殆どはこの陣屋に住んでいる。姫路城や松本城など、綺麗なお城が全国にあるの
	で、江戸時代の大名はみんなああいうお城に住んでいたと思いがちだが、実際は「城持ち大名」はわずかである。

	一般的に5万石あたり以下の、城を持たない大名が陣屋を持った。また上級旗本も知行地に陣屋を構えた。さらに大藩の家老の所
	領地である知行所の政庁が置かれた屋敷も、陣屋と呼ばれる。飛地を所領に持つ大名が、現地の出張所として陣屋を設置すること
	もあった。また、箱館奉行所や長崎奉行所なども陣屋として扱われることがある。さらには幕府直轄領地である支配所に置かれた
	代官所を含む場合もある。陣屋と屋敷の違いは、そこに政庁つまり役所が含まれているかどうかである。




	私の故郷、筑前秋月藩も5万石であったが陣屋大名であった。陣屋に藩庁を置く大名のことを無城大名あるいは陣屋大名と呼ぶが、
	無城大名が城主格大名へ昇格した場合、国許の陣屋を城に転換することは許されず、実際には城門の構築を許されるのみであった。
	それにしてもこの柳生の陣屋は小さい。一家族しか住めないのでは無いかと思うような配置図である。ま、柳生家は特別に江戸常
	駐の大名で、殆ど国元へ帰ってくることは無いのでこれで良かったのかも知れない。




	学校の跡地のような感じだなと思ったら、明治以降ここに小学校があったそうである。柳生陣屋跡は宗厳(石舟斎)の子宗矩が、
	亡父宗厳の菩提を弔うため芳徳寺を建て、ひきつづき3年の歳月を費やし寛永19年(1642)この地に建築したものである。その後、
	宗冬により増築整備されたが、延享4年(1747)の火災により全焼し、仮建築のまま明治維新を迎えた。







高台からは山間の狭い盆地に柳生ののどかな田園風景が広がっている。




	陣屋の隅にあった東屋で本日の昼食。私はいまDiet中なのだが、wifeの作った弁当は、炊き込みご飯にステーキ。一日一回は豪華
	な飯を食べもう一食はところてんなどの一日二食だが、一食はカロリーゼロの食事なので、実際は一日一食かもしれない。



陣屋跡から谷筋を挟んで、前方の小高い山に芳徳寺が見える。



かっての建物の形に石の土台が組まれ、当時の間取りが再現されている。



上左は井戸である。結構深かった。ここは丘の上なので、水を求めて相当深く掘ったのだろう。










	柳生陣屋の高台を下りると、対峙するように小高い山があり、その山道を登って行くと、柳生藩菩提寺の「芳徳禅寺」に出る。
	やっとここまで上ってきたのに、また、下って、正木坂を上らないといけない。今日のコースは結構アップダウンが激しい。


上左が芳徳寺への石段。

	芳徳寺は、柳生宗矩が父石舟斎の菩提を弔うために建立したもので、宗矩と親交のあった沢庵和尚を開山とする。その後柳生家の
	菩提寺となり、本堂裏手には宗矩の墓所を中心に宗厳(石舟斎)・十兵衛など柳生一族の墓石が80基あまり整然と並んでいる。
	ここの墓所入口にも一石六地蔵がある。ここ境内の小高い丘からはのどかな農村風景の柳生の里が遠望できる。

	左のテーブルはマラ豚の連中への給水所である。ここで水を貰ってまた奈良方面へ引き返していたが、おそらくどっかから上野方
	面への道を曲がるのだろう。ここはチェツク・ポイントなのだ。











この建物は何か良く判らなかったが、裏手の池の畔の「藤の花」が綺麗だった。この上が正木坂道場である。



「あなた上から藤の花ぁ〜、あたしゃ下から百合(揺り)の花ぁ。」と。昔の都々逸は色気満開やね。



正木坂の上から藤と皆さんを写す。



上左へ入ってゆくと正木坂道場。右の道をまっすぐ行けば芳徳寺である。
	<多くの剣士が育っていった正木坂道場>

	かって柳生十兵衛が1万3600人の門弟を鍛えた道場で陣屋内にあったものを、この寺の境内に移築した。徳川将軍家指南役の
	柳生流道場として、どれだけ数多くの剣士がこの正木坂道場で修業を積んだことか。宮本武蔵や荒木又衛門もここで修行したのだ。
	この道場境内の小高い丘からも、眼下にのどかな農村風景の柳生の里が遠望できる。




	<柳生十兵衛(1607-1650)>

	慶安3年(1650)3月21日、剣客として知られる柳生十兵衛三厳(1607生)が死去した。柳生十兵衛は徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた
	柳生但馬守宗矩の長男で、同じく家光の剣指南役をしていたが、後に諸国を漫遊。やがて郷里の伊賀・正木坂で道場を開き1万人以上
	の弟子に剣術を指南した。その弟子の中に、鍵屋辻の仇討ちで知られる荒木又右衛門などがいる。
	新陰流(しんかげりゅう)は上泉伊勢守信綱が戦国末期に編み出した剣術で、二世の柳生石舟斎宗厳以降、柳生家に伝えられたため、
	柳生新陰流とも呼ばれる。江戸時代には将軍家だけが学ぶお留め技とされ、一般への伝授が禁じられていたようである。
	時代劇でおなじみ柳生但馬守は石舟斎の五男だが、彼は剣術よりも政治力により徳川幕府の中核に進出したもので、新陰流の完成者は
	但馬守の甥である四世・柳生兵庫助利厳であるとされる。




	ただし、兵庫助は結局尾張徳川家に仕えるようになり、以後兵庫助の系統は尾張柳生と呼ばれ、対して但馬守の系統は江戸柳生と呼ば
	れる。柳生家は代々大和国柳生庄に居を構えていたが、石舟斎の代に織田信長から所領を没収されてしまった。しかし但馬守が徳川家
	康から1万2千石を与えられ大名となる。但馬守はその所領を十兵衛に8千石、弟で家を継いだ飛騨守に4千石分け与えるが、十兵衛
	の死後はその所領は飛騨守の所領に合併されて、再び大名に復した。

 

ここにはタヌキも修行に来たそうです。

	十兵衛が江戸を出て諸国を巡るようになったきっかけとして、家光との関係が言われている。ある時、家光は辻斬りの味を覚えてしま
	った。夜な夜な密かに城を抜け出しては、闇に紛れて通行人を斬るということをやっていた。これは表沙汰になる前に何とかせねばと
	考えた十兵衛は、通行人に身をやつして(女装説もあり)、家光が来るのを待っていた。そして家光が、いい獲物が来たとばかり斬り
	かかると、家光の腕をつかんで、堀の中へ思いっきり放り込んでやった。お陰で家光も反省するのだが、十兵衛と目を合わせるのが照
	れくさく感じるようになり、十兵衛もそれを察して、城を辞し、各地を廻って剣の腕を鍛えたという。

	なお、十兵衛は片目が見えなかったが、これは小さい頃剣の練習を していて、相手(父の宗矩という)の剣が誤って目に当たってし
	まい失明 したものといわれている。しかし最近、両眼とも見えていたという節も現れているそうだ。遺骨を納めた柳生十兵衛の墓は、
	東京練馬の広徳寺にある。私も一度行って見た事がある。



これは誰だが判らない。おそらくはこの道場を再建するのに金を出した地元の篤志家だろうと思われる。或は剣道界の重鎮か。









松ちゃんは、家へ持って帰れそうな紅葉の苗を必死こいて探している。




	かって柳生十兵衛が1万3600人の門弟を鍛えた柳生新陰流の道場で陣屋内にあったものを、芳徳寺の境内に移築したと言う。寺と
	道場という組み合わせは、仏道修行の場を思わせるが、家老屋敷の解説に、それまで仏道修行の場の呼称として使われていた「道場」
	という言葉を使ったのは武技の技法にも「道」がなければならないと考えたからに違いないと書かれていた。「道場」という言葉は、
	ここから始まって居たのだ。





スターウォーズの帝国軍もシュワちゃんもここで修行しました。などと言いつつ、もとの道へ戻り、芳徳寺へゆく。



石舟斎時代に彼が持っていた城の跡(のようだ)。


	<戦乱に翻弄される>

	柳生氏が筒井氏に従属していたころ、幕府体制は有名無実化し、三好長慶が畿内を押えて幕政を牛耳っていた。永禄二年(1559)、
	長慶から大和方面の軍事を委任された松永久秀が大和に進攻、信貴山城を修築してこれに拠り、筒井氏ら大和の国衆を攻撃した。この
	情勢の変化に対して、柳生家巌と宗巌の父子は筒井氏から離れて松永氏に与した。大和の支配に乗り出した久秀は、井戸・万歳・沢の
	諸氏を破り、永禄六年には多武峰を攻略し、大和国衆を圧倒した。

	その間、多武峰合戦に出陣した柳生宗巌は、傷を負いながらも奮戦、敵味方も舌を巻く活躍を示し久秀から感状を受けている。この戦
	いにおける勇猛ぶりによって、柳生宗巌の武名は畿内に鳴り響いた。ちょうど、そのようなおり宗巌は、新陰流祖の上泉伊勢守秀綱と
	出会うことになるのである。すでに宗巌は新当流の名手として知られた存在であったが、秀綱の弟子疋田文五郎と立ち会い完璧に敗北
	した。以後、秀綱に弟子の礼をとり新陰流の教えを受け、永禄八年、「一国一人の印可状」を授けられるまでに精進した。

	一方、宗巌が新陰流兵法の研鑽につとめていた頃、三好長慶が河内飯盛山城で没し、柳生氏を取巻く情勢も大きな変化をみせていた。
	長慶の死後、甥で養子の義継が三好氏を継ぐと、松永久秀が家宰として義継を支え、宗巌も三好義継に仕えた。永禄八年、久秀は三好
	三人衆と結んで将軍足利義輝を殺害、同十年には反久秀勢力である筒井順慶、袂を分かった三好三人衆らと戦い東大寺大仏殿を焼き払
	った。翌十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀は信長に臣属し、興福寺、筒井氏らの勢力駆逐に奔走した。

	この間、宗巌は久秀に属し、細川藤孝、柴田勝家らが率いる織田軍の大和進攻に際しては、久秀の推挙を受けた宗巌がその先導をつと
	めている。その後、宗巌は信長に招かれて京都に上り将軍義昭に仕え、但馬守に任じられた。しかし、松永久秀との関係も保持し、元
	亀二年(1571)久秀が大和辰市において筒井順慶と戦ったとき、宗巌は久秀に味方して奮戦した。戦いは久秀方の敗北となり、『多聞
	院日記』から宗巌の嫡男新次郎巌勝が負傷したことが知られる。辰市合戦後、筒井順慶は明智光秀を通じて織田信長に降り、大和の戦
	乱も一応の終熄をみせた。
	天正元年(1573)、将軍足利義昭が信長打倒の兵を挙げたが、あっけなく敗れて降伏、義昭は追放されて室町幕府は滅亡した。ほどな
	く、世の無常を感じたのか、あるいは期するところがあったのか、宗巌は柳生の地に帰り、以後二十年間にわたって柳生に隠棲して世
	に出ることはなかった。一説に、宗巌は信長に接近しようとしたが、信長は柳生一族を顧みることが少なかったため失望した宗巌は柳
	生に隠遁したのだともいう。 






























沢庵禅士和尚



上右が列堂和尚木造。





上が柳生宗矩像。


	<柳生氏、近世へ>

	天正十年、本能寺の変によって織田信長が死去し、信長の部将であった豊臣秀吉が天下人として大きく台頭した。秀吉も信長と同様に
	柳生氏を取り立てることはなかった。信長・秀吉たちは戦略気質の人物であり、剣術のような個人的技術を用いることはなかった。
	そこに、柳生氏における不幸があったのであろう。
	そして、天正十三年の太閤検地によって宗巌は隠田を摘発され、所領没収の憂き目となった。もっとも、豊臣秀次から百石の扶持を受
	け、一家離散にまで落ちることはなかったようだ。柳生氏系図によれば、宗巌には嫡男新次郎巌勝をはじめとして五男六女があった。
	嫡男巌勝は辰市合戦の負傷がもとで不具となり、二男久斎、三男徳斎は出家し、四男の五郎右衛門は小早川氏に仕えてのちに戦死、五
	男が近世柳生氏の祖となる又右衛門宗矩である。
 
	文禄三年(1594)、石舟斎宗厳は家康の召しに応じて、自得の剣法を示して賞せられた。家康は宗巌に誓詞を差し出し、兵法師範とし
	て直ちに仕えるようにいった。しかし、宗巌は老齢の故をもって辞退し、従えていった又右衛門宗矩を出仕させるとみずからは柳生に
	帰った。これが、柳生氏が剣をもって世に出るきっかけとなった。
	慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に際して、柳生に帰った宗矩は三成方の情報を探って東軍へ送るなど、石田方の後方牽制に活躍した。
	戦後、それらの功によって柳生旧領二千石を回復、翌年には千石を加増されて三千石を領する徳川旗本となった。さらに徳川秀忠の兵
	法師範となり、柳生新陰流は徳川家の御流として天下の剣となったのである。

	かくして、宗矩は但馬守に任じられ、二代将軍となった秀忠に新陰流を伝授し、大坂の陣にも軍功があり、剣法のみならず、行政的手
	腕を発揮して寛永九年(1632)惣目付(大目付)の職についた。その後も累進を重ねて、ついに小さいながらも一万二千五百石の大名
	柳生家の基礎を築いた。宗矩のあとは嫡男の十兵衛が継ぎ、ついで二男の宗冬、三男の友矩が継いで子孫は明治維新に至った。

	ところで、宗矩の嫡男十兵衛は諸国武者修業に出て情報収集につとめたとか、隻眼であったとかいわれるが多分に後世の創作であるよ
	うだ。
	江戸時代、柳生氏は江戸と尾張の二流に分かれた。幕府に仕えた宗矩の流れを江戸柳生といい、宗矩の兄新次郎の二男で尾張徳川家に
	仕えた利厳の流れを尾張柳生氏と称された。祖父石舟斎宗巌の薫陶を受けた利厳は新陰流三世の印可を与えられ、その技倆は宗矩を凌
	ぐものがあったといわれている。利厳ははじめ加藤清正に仕えたが、のち尾張義直の招きに応じて尾張柳生氏の祖となったものである。
	利厳の子厳包も剣の天才で、晩年に名乗った 連也斎の名で知られる。 

	【参考資料:奈良県史-大和武士-/地方別日本の名族八-近畿編-/歴史読本・柳生一族 ほか】  



芳徳禅寺の庫裏が資料室になっており、柳生新陰流や柳生藩の資料を見学する。































































































この二人と私は同年です。



松ちゃんは相変わらず自宅の庭に植えるモミジの苗を探している。



本堂裏手には宗矩の墓石を中心に「石舟斎・十兵衛」など柳生一族の墓石が80基あまり整然と並んでおり圧巻である。



上は芳徳禅寺の歴代住職の墓。ここに、宗矩が大柳生の里で見初めて妾にしたお藤の子「列堂」も眠っている。





さらに奥へ行くと、一番高いところに柳生一族の墓がある。



この看板は、NETの中での写真から更に朽ちていた。



芳徳禅寺の裏手にある柳生一族累代の墓


芳徳禅寺境内、柳生一族の墓所にある宗矩の墓

	柳生宗矩	出典:ウィキペディア

	時代		安土桃山時代から江戸時代前期 
	生誕		元亀2年(1571年) 
	死没		正保3年3月26日(1646年5月11日) 
	別名		新左衛門、又右衛門(通称) 
	戒名		芳徳院殿故但州剌吏荘雲宗巌居士。 西江院殿前但州太守大通宗活大居士 
	官位		従五位下、従四位下、但馬守 
	幕府		江戸幕府将軍家剣術指南役・大目付 
	主君		徳川家康→秀忠→家光 
	藩		大和柳生藩主 
	氏族		柳生氏 
	父母		父:柳生宗厳(石舟斎) 母:奥原助豊の娘・奥原鍋(春桃御前) 
	兄弟		厳勝、久斎、徳斎、宗章、島清興室宗矩 
	妻		正室:松下之綱の娘・おりん
	側室		おふじ、おゆり 
	子		4男2女:三厳(長男)、友矩(次男)、宗冬(3男)、列堂義仙(4男)、娘(武藤安信室)ほか 

	柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は、江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では
	将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。

	<生涯>

	・誕生から徳川家仕官
	大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の5男として生まれる。
	母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)である。兄に厳勝、宗章らがいる。少年時代に太閤検地の際の隠田の露見によって父が
	失領していたが、文禄3年(1594年)、徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父の推挙により、家康に仕えることとなった。

	・柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣
	慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受け、筒井氏や大和の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領の
	大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。更に慶長6年(1601年)に後の2代将軍徳川秀忠の剣術師範役となり同年9月11日に1000石
	加増、合わせて3000石の大身旗本となる。慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍秀忠のもとで従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7
	人(人数に異同あり)を愛刀で瞬く間に倒したという。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。

	・坂崎事件
	大坂の役の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件(坂崎事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一
	式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛
	の説得を行った宗矩は結果的に友人を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」
	(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ば
	れる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子平四郎と2人の家臣を引き取っている。

	・家光の下での躍進から大名へ
	元和7年(1621年)3月21日、徳川家光に剣法を伝授する。その後、将軍へと就任した家光の信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)
	3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府
	惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4000石加増で計1万石を
	受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて2000石の加増もあ
	り、所領は1万2500石に達した。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ
	一人である。
	肺癌のため正保3年(1646年)に没し、自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳
	禅寺に葬られた。享年76。なお、そのほかに、練馬区桜台の圓満山廣徳寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。
	また死に際し、その死を惜しんだ家光の推挙により同年4月に従四位下を贈位された。
	子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三
	厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他2女がいる。

	<評価>

	剣術面においては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古
	今無双の達人「刀法の鳳(おおとり)「剣術無双と賞賛されている。新陰流(柳生新陰流という呼称は現在の通称)を将軍家御流儀として
	確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、柳生新陰流は当時「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った(江戸時代前半、
	多くの藩に宗矩の門弟が指南役として仕官している)。また戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術に「一人の悪人を殺したゆ
	えに万人が救われ『活きる』」という「活人剣、「剣禅一致」などの概念を組み込み人間としての高みを目指す武道に昇華した。この宗
	矩の思想は柳生家の伝書である『兵法家伝書』として著され、後に『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』などにも影響を与え、勝海舟が絶
	賛している。剣の修行が心の修行にほかならない、という教えは、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に多大な影響
	を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれた平成15年(2003年)には宮本武蔵と並んで全日本剣道連盟の剣道殿堂(別格顕彰)に列
	せられている。
	幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏(伊達政宗)、鍋島氏(鍋島勝
	茂、鍋島元茂)、細川氏(細川忠興、細川忠利)、毛利氏(毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川
	忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家
	光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。
	将軍家光には若い頃よりの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。
	肩書きは剣術指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長
	じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受け、最後まで信頼され続けた。
	父親としては、子息4人のうち、長男三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、3男宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、
	子の教育について、これは沢庵よりも忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方
	で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさるとしてそ
	の出藍の誉れをたたえている。

	宗矩の言葉

	兵法家伝書「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人
	勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
	「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
	「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
	「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
	「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、
	人にきられじとの無刀也」
	「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐ
	て、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」

	宗矩の門下

	将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。それらの弟子達には、大名家へ指南役として
	仕えた者も多かった。

	また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。

	当主自身が門下に入門している家

	徳川将軍家  :徳川秀忠、徳川家光
	熊本藩細川家:細川忠利
	佐賀藩鍋島家:鍋島勝茂、鍋島元茂
	三池藩立花家:立花直次

	大名家に仕えた門弟御三家・一門・親藩
	紀州藩 紀州徳川家:木村助九郎、小夫浅右衛門、村田与三
	水戸藩 水戸徳川家:小滝与三衛門
	高田藩 越後松平家:荘田嘉左衛門
	福井藩 越前松平家:出淵平兵衛
	会津藩 保科家   :小瀬源内
	伊予松山藩 久松家:松下源太夫、松下八郎右衛門、松下小源太
	譜代下総古河藩 土井家:萩原猶左衛門
	上野厩橋藩 酒井家:辻茂右衛門
	大和高取藩 植村家:西江織部
	山城淀藩石川家  :野殿貞右衛門
	岸和田藩岡部家  :多羅尾又兵衛
	外様熊本藩細川家 :雲林院弥四郎、梅原九兵衛、田中甚兵衛
	津藩藤堂家  :柳生源太夫、津田武太夫、戸波又兵衛
	柳川藩立花家 :戸塚治太夫
	萩藩毛利家  :馬木家六
	仙台藩伊達家 :狭川新三郎[10]
	徳島藩蜂須賀家:佐々木藤左衛門
	加賀藩前田家 :笠間九兵衛
	久留米藩有馬家:山形八郎右衛門
	土佐藩山内家 :小栗仁右衛門

	その他の門弟

	柳生内蔵助
	汀佐五右衛門
	渡辺幸庵(茂)
	時沢弥平:天心流流祖
	久米平内兵衛長守
	岡本仁兵衛:当流神影流流祖
	竹永直人:柳生心眼流流祖
	平井八郎兵衛:鹿島神道流流祖

	門弟とする説もある人物

	荒木又右衛門…ただし史実を踏まえると可能性は薄い
	酒井忠勝
	松平定綱
	茨木俊房:起倒流流祖(ただし起倒流の成立の歴史には諸説あり)…石舟斎の門弟という説もあるが、宗矩から俊房に与えられた
		 『新陰流兵法目録』が現存している

	逸 話
	武芸者/為政者の両方に於いて高名を為したため、宗矩の逸話には、史実上のものと、真偽が不明なものがそれぞれ多数存在する。

	<史実上の逸話>

	紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海や堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。これに対し、沢庵は後に手紙にて
	「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の
	時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している(『沢庵和尚書簡集』)
	家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」と答
	え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけをつくった(『徳川実紀』)。
	島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜』)。
	またその際、落城までの流れを正確に予見したため、家光はじめ周囲は驚いたという(『沢庵和尚書簡集』)
	島原の乱の鎮圧後、抜け駆けを咎められた鍋島家のために家光へ赦免嘆願を取り成し、減刑に成功したという。(『元茂公御年譜』)
	亡くなる際、鍋島元茂に与える伝書(『兵法家伝書』)への花押を最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識が朦朧とし、元茂の
	家臣・村上伝右衛門の力を借りて印したため、花押は大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠の口述者
	山本常朝の伯父である(『兵法家伝書』小城藩(小城鍋島家)版)。
	宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。
	家光は宗矩の死後何かあると、「この問題は宗矩がいたらどうしただろう」と言ったという(『藩翰譜』)。
	甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳)が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬)に嫁がせた件をき
	っかけに、不和になったという(『玉栄拾遺』)。
	乱舞や能を好み、大名家に押しかけて踊ったり、立ちくらみを起こすまで踊ったことがあったという(『不動智神妙録』)。また、
	秘曲とされる関寺小町を踊ったという。かなりの喫煙者であり、沢庵より癌になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている
	(『沢庵和尚書簡集』)。しかし喫煙を続けたことが仇となり、最後は肺癌で死去することとなった。[要出典]

	<真偽が定かではない逸話>

	家光より大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した(『玉栄拾遺』)。
	家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪
	戯を防いだという。
	能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのこ
	とか」と讃えた。
	乗馬の達人諏訪部文九郎と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作で
	ある」と讃えた(『明良洪範』)。
	猿を飼っており、これを牢人と立ち合わせたという話がある。(『翁草』・『撃剣叢談』)
	家光の命で虎の檻に入った際、気迫で虎の動きを封じた。
	『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある。
	年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという。
	喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、
	「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという。
	嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛
	ばした礫が誤って目に当たったためとも(『柳荒美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目が描かれており、
	三厳生前の記録に隻眼であったことを示すものはない。
	『柳生藩旧記』には、次男・友矩が家光の寵愛を受けて自分を超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光か
	ら友矩を大名に取り立てるという話が出た際にはこれを固辞し、ほどなく友矩は幕府を致仕して病死したという(『玉栄拾遺』)。
	三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたこ
	とがあるという(『明良洪範』)。
	柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつあ
	りますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に末子六丸(後の列堂義仙)の母となったお
	藤(おふじ)とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがあ
	る。

	<他流派の伝承上における宗矩の逸話>

	宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と
	相反するものもあり、注意が必要である。
	宮本武蔵の逸話の中には、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。この逸話は
	武蔵の死後、100年以上後に書かれた武蔵の伝記『ニ天記』が初出である。
	一刀流の逸話の中には、秀忠の指南役として宗矩と相役であった一刀流二世・小野忠明が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位
	を手に入れたという逸話がある。一方、史実において忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年))に仕官している。なお、この逸話の
	出典は一刀流内部の伝記『一刀流三祖伝記』である。
	同じく一刀流の逸話の中には、忠明、またはその後を継いだ小野忠常が(宗矩と違い)将軍相手にも手加減をしなかったことで不興
	を買ったために加増されず、宗矩に差がついたと記されている。ただし、史実においては、相役となって以降の忠明、及び忠常には
	特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門を受けたことなどに鑑みると、上がらないことに不思議
	はなく、多分に自己正当化の側面が強いと言える。
	富田流の宗家富田重政と宗矩の立ち合いを家光が望んだ際、重政が「これは但馬守も承知の上か」と不審に思い、「本当によろしい
	か」と確認した後、直前で沙汰止みとなったという。
	タイ捨流の流祖丸目長恵が、新陰流の正統をかけて宗矩に直談判し、東国では柳生が、西国では丸目が天下一を名乗ることを認めさ
	せたという逸話がある。ただし、その西国(九州)の大藩である熊本藩細川家、佐賀藩鍋島家において当主自ら柳生新陰流に入門し、
	大いに隆盛したこと、およびその両藩(特に丸目の住地である人吉藩に隣接する熊本藩)で上記逸話を証する史料は存在しない。一
	方で、上泉信綱より丸目宛に「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状がある。
	示現流の逸話には、流祖である東郷重位が、元和の頃、宗矩の高弟で旗本の福町七郎右衛門、寺田小助を破ったとするものがある。
	ただし、この出来事、及び、この両旗本の名は『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』では確認できない。
	無住心剣流の逸話には、宗矩が無住心剣流流祖・針ヶ谷夕雲に対して「其の方の只今兵法の理に立向て勝ちを得べき覚えなし」と賛
	嘆し、試合を避けたというものがある。
	尾張柳生家の主張では、柳生宗家を継いでいるのは自家であり、江戸柳生家は分家であるとされる。ただし、『徳川実紀』や『寛政
	重修諸家譜』、及び『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などの江戸時代に書かれた記述において、石舟斎の嗣子とされているのは一貫
	して宗矩であり、尾張柳生家を柳生宗家と認めている記述は無い(利厳の父、新次郎厳勝は廃嫡されている)。
	同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統と認め自身の技法をあますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人の印
	可」と「新影流目録」を継承した利厳のみであり(柳生厳長『正傳新陰流』)、宗矩や他の上泉の門弟が伝える系統は傍流であると
	している。これに対し今村嘉雄は、「一国一人」とは日本に一人という意味では無く甚だ稀なという修辞の意味であり[15]、「新影
	流目録」に類する目録も疋田豊五郎や丸目蔵人といった石舟斎以外の信綱の門弟にも与えられていることから、これらに新陰流正統
	の証の意味合いがあったとは考えづらいと主張している。また石舟斎の道統についても、尾張柳生家に伝えられた目録等は全て江戸
	の柳生家にも伝わっており[16]、宗矩と利厳等に皆伝されていると考えるのが妥当であるとしている(『定本大和柳生一族』)。
	なお『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などにおいても、尾張柳生家を新陰流正統と認めている記述は無い。

	著作

	『切合極意見之心持之事』	直弟子である小城藩藩主・鍋島元茂に与えられた伝書。
	『新陰流兵法心持』		家光に与えられた伝書。なお、家光への伝書は、これを披露する老中酒井忠勝宛になっている。
	『外の物の事』			これも家光に与えられた伝書。「外の物」とは太刀以外の物の意であり、槍、長太刀、小脇差、
					馬術等の術に加え、日常での心がけなども記されている。
	『兵法家伝書』			宗矩の代表的著作にして『五輪書』と並ぶ近代武道書の二大巨峰。『進履橋』『殺人刀』『活人
					剣(「無刀之巻」含む)』の3部構成となっており、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一
					致」などを説いた宗矩の兵法思想の集大成の書。柳生家の家伝書となった他、鍋島勝茂、鍋島元
					茂、細川忠利にも与えられている。岩波文庫にて渡辺一郎校注で刊行されている。
	『玉成集』			鍋島直能に与えられた伝書。


	<柳生宗矩についての資料/研究>

	・出版物

	 宗矩本人の著作を主体とした史料『兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事』(岩波文庫):柳生宗矩/渡辺一郎(注釈)
	 	…宗矩自身の著作ではあるが、注釈者による補足もあり

	『英文版 兵法家伝書 - The Life‐giving Sword』(講談社インターナショナル):柳生宗矩/ウィリアム・S・ウィルソン(訳)
	『史料 柳生新陰流(改訂版)』上下(新人物往来社):今村嘉雄(編)
	  …宗矩の主な伝書の殆どと手紙などを収録

	・宗矩を題材として取り扱っている(またはそれに準ずる)資料

	『柳生一族―将軍家指南役の野望』(新紀元社):相川司/伊藤昭
	『徳川将軍と柳生新陰流』(南窓社):赤羽根龍夫
	『定本 大和柳生一族』(新人物往来社):今村嘉雄
	『柳生遺聞』(エルム):今村嘉雄
	『柳生宗矩の人生訓―徳川三代を支えた剣豪、「抜群の智力」とは?』(PHP研究所):童門冬二
	『柳生宗矩 物語と史跡をたずねて』(成美文庫):徳山真一郎
	『近世日本武芸思想の研究』(神戸学院大学人文学部人間文化研究叢書):前林清和
	『禅と武士道―柳生宗矩から山岡鉄舟まで』(ベストセラーズ):渡辺誠
	『柳生一族 新陰流の剣豪たち』(新人物往来社):別冊歴史読本
	『物語柳生宗矩』(現代教養文庫):江崎俊平

	・研究論文

	『江戸思想と柳生新陰流』(基礎科学論集 : 教養課程紀要):赤羽根龍夫
	『新陰流を哲学する : 江戸柳生の心法と刀法』(基礎科学論集 : 教養課程紀要):赤羽根龍夫
	『近世初頭の剣術伝書に関する一考察--「兵法家伝書」と仏教の関係』(立正大学教養部紀要):大森宣昌
	『「剣禅一如」思想の源流 : 沢庵と柳生新陰流』(印度學佛教學研究):笠井哲
	『柳生新陰流に見る修学と致知格物』(日本体育学会大会号):加藤純一
	『柳生宗矩『兵法家伝書』における心』 : 「具放心心」を巡って (日本体育学会大会号):加藤純一
	『『兵法家伝書』伝本の比較研究 : 細川家本と小城鍋島家本』(目白大学人文学研究):加藤純一
	『兵法家傳書(ハングル版)』(目白大学人文学研究):加藤純一(訳)
	『兵法家伝書上巻序の武道観』(体育學研究):黒木俊弘
	『柳生宗矩の「兵法家伝書」における剣術思想』(年報日本思想史):中野寛美
	『剣道修行過程における心的変容についての一考察: 主として『兵法家伝書』よりみたる』(体育科学系紀要):前林清和/渡辺一郎

	<創作物上の扱い>

	史実においては、将軍家兵法指南役(公的な場における武芸の最高権威)にして、当時最大の剣術流派の宗家という立場、使番や惣
	目付などを歴任し大名にまでなった将軍側近としての立場、個人としての家光や沢庵その他諸大名との交流、十兵衛三厳などの子供
	達との関係や尾張柳生家との不仲など、同時期の他の武芸者と比較し様々な側面を持つことから、その人物像は作家/作品によって
	大きく異なる。

	山岡荘八は大河ドラマ『春の坂道』のために原作(「柳生宗矩」)を書き下ろしている。山岡は他の小説『徳川家康』、『伊達政宗』、
	『徳川家光』にも登場させ、これらの作品内における宗矩は、一貫して情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれている。
	また、吉川英治の『宮本武蔵』においても、実直な理性家として描かれている。
	一方で五味康祐・荒山徹・宮本昌孝・朝松健らの小説や、映画・ドラマ『柳生一族の陰謀』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』などにお
	いては、幕府安泰のために陰謀や暗殺を遂行する闇の世界の人物として描かれている。また、その中でも、秀忠を悪役とする作品では、
	宗矩もその配下の悪役として描かれがちである(小説では隆慶一郎の諸作や漫画『あずみ』、ゲーム『新 鬼武者 DAWN OF DREAMS』
	など)。
	また惣目付に就任していた影響などから、「裏柳生」と呼ばれる密命を帯び謀反の芽を摘み取ったり、柳生一族の邪魔になるような
	者を排除を目的とする忍者や武術、暗殺集団の頭領とされることもある。

	同様に剣豪小説的な視点(津本陽、戸部新十郎の諸作。また漫画『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』など)から描かれた場合、同時代の
	剣豪(宮本武蔵など)や同じ柳生一族(父・石舟斎、息子・十兵衛、甥・兵庫助利厳)と比較し、隔絶した地位を得た事から、剣で
	はなく、政治面で立身した「剣士として純粋ではない人物」という捉え方をされ、この場合、比較的評価を下げた描かれ方をされる
	傾向がある。
	また柳生一族や将軍家剣術指南役の確執の主軸として描かれる場合もあり、柳生利厳が「一国一人の印可」を受けて新陰流を継承し
	た尾張柳生、天下の剣術指南役の江戸柳生といった史実から江戸柳生と尾張柳生の対立の軸としてとりあげられる事や同じく将軍家
	剣術指南役の小野派一刀流との確執などが描かれる。また逆に江戸、尾張のまとめ役となり一族共闘の下、互いにそれぞれの役割を
	担い任に当たるなどもある。
	いずれにせよ、善悪どちらの役柄であれ、当時の代表的剣士にして強い権力を持った人物という点ではぶれがなく、厳格で知勇兼備
	な傑物としての宗矩像は共通している。





	柳生三厳十兵衛	出典:ウィキペディア

 	時代	江戸時代前期 
	生誕	慶長12年(1607年) 
	死没	慶安3年3月21日(1650年4月21日) 
	別名	七郎(初名)、十兵衞(通称) 
	戒名	金甫宗剛長岩院 
	氏族	柳生氏 
	父母	父:柳生宗矩。母:松下之綱の娘・おりん 
	兄弟	三厳、友矩、宗冬、列堂義仙 
	妻	正室:秋篠和泉守の娘 
	子	2女:娘(跡部良隆正室)、娘(渡辺保室) 

	柳生三厳(やぎゅう みつよし)は、江戸時代前期の武士、剣豪、旗本(ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数える場合も
	ある)。初名は七郎、通称は十兵衞(じゅうべえ)。江戸初期の著名な剣豪として知られ、三厳を題材とした講談や小説が多く作られた。

	<生涯>

	慶長12年(1607年)に柳生藩初代藩主の柳生宗矩(但馬守)の長男として誕生。次弟は柳生友矩(刑部・左門)。三弟は柳生宗冬(飛騨
	守)。柳生家累代の記録『玉栄拾遺』には「弱冠にして天資甚だ梟雄、早く新陰流の術に達し、其書を述作し玉ふ」と記されている。
	13歳の頃より徳川家光の小姓として仕え、宗矩が家光に剣術を教える時は稽古に相伴して「寵隅甚だ厚かった」が、寛永3年(1626年)
	20歳で家光の勘気を被り(諸説あり小田原の阿部正次にお預けの身となる。その後、三厳本人の著した伝書によると「素性の国(柳生の
	庄)に引き籠り、12年間は古郷を出ず、日々家道の兵法の事を考え続けて過ごしていたとしている。一方で、この間諸国を放浪しながら
	武者修行や山賊征伐をしていたとする噂があり、このことが講談の種となって今日に至るまで彼を主人公とした様々な物語が生まれるこ
	ととなった。
	寛永14年(1637年)、勘気を受けて以来11年ぶりに江戸に戻り、宗矩の元で学びながらその極意をまとめて『昔飛衛という者あり』を著
	して印可を得る。翌寛永15年(1638年)には、家光に重用されていた次弟友矩が病により役目を辞すのに前後して再び家光に出仕し、以
	後は書院番として仕えた。
	正保3年(1646年)父宗矩が死去。遺領は弟宗冬との間で分割され、三厳は八千三百石を相続して家督を継ぐ。宗矩生前の三厳は「強勇絶
	倫」で皆畏れて従う風があったが、家督を継いで以後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰
	することもなかったという。宗矩の死後間もなく再び役目を辞したと見られるが詳細は不明。
	慶安3年(1650年)鷹狩りのため出かけた先の弓淵(早世した弟友矩の旧領)で急死。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人達も尋問
	を受けたが死因は明らかにならないまま、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺および奈良県奈良市柳
	生町の芳徳寺にある。大和の豪族秋篠和泉守の娘との間に二女があり、三厳の死後は弟の宗冬によって養育された。

	宗矩の死後石高が1万石を切ったために三厳が大名に列した事はないが、三厳の遺領を相続した宗冬が再度大名としての地位を回復させた
	ことで、便宜上三厳が大和柳生藩第2代藩主とされている。

	<容姿の特徴>

	若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした姿で描かれることが多い。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太
	刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たったとか(『正傳新陰流』)、宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たっ
	たため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物の両目はあいており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であっ
	たという記述は無い。

	<他流派の伝承上における逸話>

	紀州藩に伝わる西脇流の伝書『新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動きを待っ
	て、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」になったとある。
	鍋島家に伝わる『御流兵法之由諸』では、三厳は不行跡により父宗矩から勘当されたため、一子相伝の秘事は宗矩から鍋島直能に相伝され
	たとされる。
	尾張柳生家に伝わる伝承には謹慎中の三厳が従兄の利厳を頼り、その教えを受けて「ぬけ勝ち」「相裁り」「相架け」の三法を完成させて
	柳生流の基礎を固めたとするものがある。(神戸金七『月の抄と尾張柳生』)
	一刀流の伝書『一刀流三祖伝』には、小野忠明と立ち合うも戦わずして負けを悟った三厳が、後日密かに忠明を訪ね教示を受けたとする逸
	話がある。















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