Music: 柳生十兵衛










「柳生」のバス停で降りると直ぐ裏手への階段があり、「古城山・剣塚」と標識があるので行って見ることにした。









我々は歴史倶楽部らしく「古城山・剣塚」へ登ったが、他の連中は誰も付いてこなかった。単なるハイキング組らしい。



	バス停から北方に向けて古城山(314m)へ登る鉄の階段があり、その先から数珠口坂という急坂がある。この坂は笠置へ抜ける
	“殿さま街道”という別名を持つらしいが、現在はそんな大層な道では無く獣道に毛が生えた程度の山道である。又、今は剣塚
	から先は行き止まりらしいが、昔、柳生藩主はこの道を通って参勤交代を行っていたと言う。




	林の中を5、6分も歩くと広場に出てそこに東屋が作ってあった。どうやらここは、まだ柳生が有名になる前の、豪族だった頃の
	城跡のようだ。柳生氏の本拠地であった柳生城の北に位置し、眼下に街道の交差点を見下ろし、ここから十兵衛杉も見えると書
	いてあるが、もう鬱蒼とした林に囲まれ何も見えない。




	その後調べたところによると、古城山は元弘の乱(元弘元年:1331年、第96代後醍醐天皇が討幕の計画を進めたが密告により
	発覚して、天皇は笠置山へ逃れた。)の時、柳生美作守永珍( 柳生永暦の二男 )がこの山に陣を張り、後醍醐天皇が潜幸して
	いた笠置山の南部を守ったところだと言う。天皇方の唯一の糧道であった柳生方面を守るため、南麓の数珠口坂で13名の兵が戦
	死したという。柳生家の先祖が南朝に忠勤を示した場所なのである。

	「日本城郭大系」第10巻 柳生古城」1980 村田修三 「中世の城館」奈良市史通史2/1994等々によると、ここは柳生
	氏の番城であったとみられ、天文十三年(1544)に筒井順昭の攻撃を受けて落された「外城」にあたるとされる。

	笠置から柳生・奈良へは歩いて一日の距離で、奈良盆地を南下すると一日で更に五條市のあたりまでは行けると思われる。五條
	市から吉野川( 紀ノ川 )を渡って、吉野山へはいくらも無い。落ち延びる後醍醐天皇一行は、もしかしたらこの柳生街道を歩
	いたのかもしれない。



広場の端っこの小高い丘の上に「剣塚」という碑があった。裏になにやら彫ってあるが全然読めない。剣を埋めたんだろうか。



午前二時になると、 ここに現れるそうです。





	柳生氏の登場	出典:ウィキペディア 

	古代の柳生郷のことは明らかではないが、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によれば、仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・
	邑地庄・小柳生庄の神戸四箇郷が関白藤原基経の所領となったとある。以後、藤原氏の荘園となっていたが、長暦二年(1038)、
	宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である春日神社に社領として寄進した。そして、大柳生庄は右京利平、坂原庄は左京基経、
	邑地庄は修理包平、小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させた。このなかの小柳生がのちの柳生で、永家の
	末がこの地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったという。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられる。

	やがて、神戸四箇郷は管理者である荘官に押領され、荘官たちはそれぞれ武士化していったようだ。しかし、大膳永家以後の柳
	生氏代々の動向はようとして知れない。柳生氏が歴史の表舞台に登場するのは、大膳永家より数代を経た播磨守永珍(ながよし)
	のときであった。
	元弘三年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒そうと計画をめぐらしたが発覚、京都から笠置山に潜行して幕府打倒の檄を発し
	た。いわゆる元弘の乱で、この乱に際して播磨守永珍と弟の笠置寺衆徒中坊源専は、天皇の檄に応じて笠置山に馳せ参じた。
	中坊源専は笠置山の南一の木戸の将として幕府軍を迎え撃ち、播磨守永珍は柳生に拠って奈良方面から押し寄せる幕府軍に備え
	た。戦いは柳生兄弟の奮戦もむなしく、天皇方の敗北となり、笠置山は灰燼に帰し、捕えられた天皇は隠岐に流された。柳生一
	族は柳生の地を没収され、没落の運命となった。それから三年、隠岐から脱出した後醍醐天皇により幕府は倒れ、建武の新政が
	開始された。ここに、柳生の地は笠置山の戦功によって中坊源専が賜り、源専はこれを兄永珍に譲った。かくして、柳生氏はふ
	たたび柳生を領して、戦国時代には興ケ原の興ケ原氏、丹生の丹生氏、邑地の吉岡氏らとともに北和の豪族に成長した。とはい
	え、その間における柳生氏の歴史は必ずしも明確ではない。 





	バス停へ戻ってくる途中から、十兵衛杉が綺麗に見える。後ろの立ち枯れているものが、本来の(十兵衛が植えた)十兵衛杉で、
	手前の緑一色のやつが新しい十兵衛杉である。以前のものは雷が落ちて枯れたらしい。
	十兵衛杉は、観光パンフレットによると、寛永3年(1626)柳生十兵衛三厳(みつよし)が諸国漫遊に旅立つ際、先祖の墓に参り
	植えたといわれ、樹齢約350年の堂々たる巨木だった。



バス停へ戻ってきて、柳生の街中(といっても殆ど繁華街や市中と呼べるようなエリアは無いのだが。)バス停を一つ戻る。






	あまりにも有名な柳生の里。柳生家は代々大和柳生の庄に住み、柳生石舟斎宗厳(むねよし)は言わずと知れた柳生新陰流の創始者。
	徳川家の剣術師範役としてばかりでなく諜報、外交面でも活躍し、その為様々な映画やTVドラマでは概ねあまり良くない大名と
	して描かれる事が多い。宗矩没後は長男の十兵衛三厳が父に反発、或は家光の勘気を買って全国行脚の旅に出たりする。代々、将
	軍家の剣術師範を勤める特殊な大名家で、定府(江戸在住)であった。








	バス停から田んぼの道を南に少し歩き出すと、石垣に沿って長い石段があり、そのつきあたりに、旧柳生藩家老屋敷(奈良県奈良市
	柳生町155-1)が見えている。この住居は国家老小山田主鈴の旧宅でその後、時代小説作家の「山岡荘八」が昭和55年まで住み、
	多くの小説が執筆されたところでもある。




	柳生家	出典:ウィキペディア

	石 高 : 1万2千石→(8千3百石)→1万石
	大名格 : 譜代 菊間詰め 陣屋縄張
	家 紋 : 柳生笠
	本 姓 : 菅原氏 
	家 祖 : 柳生永家 
	種 別 : 武家 華族(子爵) 
	出身地 : 大和国添上郡柳生郷 
	著名な人物 : 柳生宗厳 柳生宗矩 柳生三厳 

	柳生氏(やぎゅうし)は日本の氏族。新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、柳生氏
	の姓は菅原姓とされ、菅原道真が祖先とも言われている。実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、南北期の播磨守永珍(別名:宗
	珍、大膳亮永家の子とされる)の頃からで、柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、元弘3年(1331年)に、南朝方として、六
	波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、後醍醐帝から賜った大和国小楊生(大楊生とも)庄の領主となり、
	柳生氏と名乗った事から始まるとされる(ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという)。
	柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養
	父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。
	戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。

	宗厳は戦国時代に、松永久秀に仕えたが、その久秀が織田信長と争って滅亡し、代わって大和を守護した筒井順慶にも従わず、縁の
	深い十市遠長と結託した(多聞院日記)。さらに豊臣秀吉の太閤検地によって隠田の罪で 2,000石の所領を没収されるなど、次第に
	落ちぶれていった。しかし、黒田長政の仲介により当時秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康と出会った宗厳は、家康の前で「無刀取
	り」を披露したことにより、兵法指南役に迎えたいと申し出を受ける。宗厳は当時、すでに66歳という老齢だったため、これを辞退
	し代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として推挙したのである。これは文禄3年(1594年)5月3日のことである。そのことが、『玉
	栄拾遺』にも詳細に記されている。
	「文禄甲午の年、聚楽紫竹村にて宗厳公の剣術始て神君(徳川家康)上覧。木刀を持玉ひ。宗厳是を執るべしと上意あり。即ち公無
	刀にて執り給ふ。其時神君後ろへ倒れ玉はんとし、上手なり向後師たるべしとの上意の上、景則の刀を賜ひて誓詞を辱くす。時に5
	月3日也。且俸禄200石を賜ふ」
	なにはともあれ、信長・秀吉時代に落ちぶれた柳生氏は、家康時代に再び世に出ることとなったのである。
	宗矩は宗厳の五男である。徳川氏に仕えることとなったのは、長男の柳生厳勝は久秀配下として筒井順慶と戦ったとき、鉄砲により
	戦傷を負い、次男の柳生久斎と三男の柳生徳斎は僧侶となり、四男の柳生五郎右衛門は中村一氏に仕官していたからである。
	家康に仕えた宗矩は、大いに活躍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の命を受けて大和の豪族の調略に従事し、西軍
	の後方攪乱作戦も務めた。翌年、その功績により旧領2,000石に加えて新たに1,000石を加増され、徳川秀忠の兵法指南役となる。
	宗矩は秀忠からの信任が厚かったと言われている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川軍の大和国の道案内役を務め、翌年の
	大坂夏の陣では秀忠の身辺警護を務め、敵兵7名を斬り殺した。
	元和7年(1621年)からは徳川家光の兵法指南役となり、寛永6年(1629年)には従五位下但馬守を叙任する。寛永9年(1632年)に
	は井上政重らと共に総目付(後の大目付)に任じられ、3,000石を加増された。寛永13年(1636年)には4,000石を加増され、合計1
	万石の大名となる(柳生藩)。寛永19年(1639年)にも2,000石、翌年にも500石を加増され、合計して1万2,500石を領する大名とな
	った。
	宗矩と同時期に徳川氏に仕えていた小野派一刀流の開祖・小野忠明(御子神典膳)の所領はわずか 600石ほどに過ぎなかった。一方
	の宗矩は家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えて大名にまで栄進したのだから、相当の信任を受けていたことがうかがえる。
	宗矩の死後、遺領は3人の息子(三厳、宗冬、列堂義仙)によって分知されたため、柳生氏は一代で旗本に戻るが、三厳の死後に家
	督を相続した宗冬の代に再び大名に復帰する。以後、明治維新まで柳生藩を領し、維新後に子爵の位を授けられた。
	宗家の他に尾張藩に仕えた宗矩の甥・柳生利厳(兵庫助)の系統(尾張柳生)がある。


	系譜  太線は実子。細線、二重線は養子。

		柳生永家
	     ┃
	     永珍(宗珍)
	     ┃
	     家重
	     ┃
	     道永
	     ┣━━━┓
	     家宗  秀政
	     ┃   ┃
	     光家  秀国
	     ┃   ┃
	     重永  秀友
	     ┃
	     家厳
	     ┃
	     宗厳
	     ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
	     厳勝  久斎  徳斎  宗章  宗矩
	     ┣━━━┓   ┏━━━┳━━━╋━━━┓
	     久三郎 利厳  三厳  友矩  宗冬 列堂義仙
	     ┏━━━╋━━━┓   ┏━━━┫
	     清厳  利方  厳包  宗春  宗在
	             ┃             ┃
	         厳延        俊方
	                ┃             ‖
	         厳儔        俊平
	     ┏━━━┫             ‖
	     厳春  房吉        俊峯
	     ┣━━━┳━━━┓      ‖
	     厳教  厳之  厳政  俊則
	              ┃      ┃     ‖
	         厳久  厳広  俊豊
	                ┃      ┃     ┃
	         厳蕃  厳直  俊章
	              ┃      ┃     ‖
	         厳周  鎮雄  俊能
	     ┏━━━┫      ┃     ‖
	     厳長  包治  延夫  俊順
	     ┃           ‖
	     厳道            俊益
	     ‖            ‖
	     厳信



	<歴代藩主>

			藩主 				官位・通称 			出自(実父・嫡出関係) 

	初代 		柳生宗矩(むねのり) 	従四位下 但馬守 		柳生宗厳の五男 
	二代 		柳生三厳(みつよし)					柳生宗矩の長男 
	三代 		柳生宗冬(むねふゆ) 	従五位下 飛騨守 		柳生宗矩の三男 
	四代		柳生宗存(むねあり) 	従五位下 対馬守 		柳生宗冬の二男 
	五代		柳生俊方(としかた) 	従五位下 備前守 		柳生宗冬の長男柳生宗春の子 
	六代		柳生俊平(としひら)	従五位下 但馬守 		伊勢桑名藩主松平(久松)定重の十一男 
	七代		柳生俊峯(としみね)	従五位下 但馬守 		信濃松代藩主真田信弘の四男 
	八代		柳生俊則(としのり)	従五位下 但馬守 		交替寄合松前邦広の二男 
	九代		柳生俊豊(としとよ) 	従五位下 但馬守 		大和郡山藩主柳沢保光の六男 
	十代		柳生俊章(としあきら)	従五位下 但馬守		柳生俊豊の長男 
	十一代	柳生俊能(としよし) 	従五位下 飛騨守		遠江相良藩主田沼意正の子 
	十二代	柳生俊順(としむね) 	従五位下 但馬守		交替寄合武田信之の二男 
	十三代	柳生俊益(とします)	従五位下 但馬守 		交替寄合武田信之の五男 

 



	旧柳生藩家老屋敷

	旧柳生藩家老屋敷(きゅうやぎゅうはんかろうやしき)は奈良県奈良市柳生町にある武家屋敷。 かつての柳生藩家老小山田主鈴
	の隠居宅で、現在は小山田主鈴と柳生藩の資料館として公開されている。奈良県指定文化財。 近年は作家山岡荘八が所有し、柳
	生宗矩を主人公にした小説「春の坂道」(大河ドラマ化)の構想を練った屋敷としても知られる。

	柳生藩の財政再建を成し遂げた家老小山田主鈴が藩主柳生俊章から賜った土地に営んだ旧隠居宅である。大規模な石垣は天保12年
	(1841年)に尾張国の石工が築いたと刻まれている。石垣上の屋敷は弘化4年(1847年)8月に着工し、嘉永元年(1848年)6月に上
	棟された。 1964年に作家山岡荘八の所有となり、山岡没後の1980年に山岡の遺志により遺族山岡賢二から奈良市に寄贈され、庭
	園と塀、主屋を補修した後1981年11月1日から小山田主鈴と柳生藩および山岡荘八に関する資料館として公開された。  

	利用情報
	開館時間 - 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
	休館日 - 12月27日〜1月4日
	所在地 - 〒630-1237 奈良県奈良市柳生町155-1




	【旧柳生藩家老屋敷 奈良市経済部観光課発行:柳生の家老屋敷パンフより】

	柳生藩(1万石)の家老、小山田主鈴(おやまだしゅれい)の旧邸。主鈴は、文政9年(1826)国家老として江戸から奈良
	に移り、柳生藩南都屋敷を預かって藩財政の立て直しに成功、弘化3年(1846)家督を譲って退隠、さきに藩公柳生但馬守
	俊章から賜っていたこの地に新邸を営んで余生を送った。
	それがこの屋敷で、弘化4年(1847)8月に着工、翌嘉永元年(1848)6月に上棟したものである。主鈴は、安政3年(1856)
	75歳をもってこの世を去ったが、その子孫は明治4年(1871)の廃藩置県後もここにとどまり、旧藩主柳生俊益(俊郎)
	も三たびこの屋敷に立ち寄っている。昭和を迎えて米蔵その他の付属施設が撤去されたりしているが、主屋はほぼ創建当初
	の姿をとどめ、奈良県下ではほとんど唯一の武家屋敷の遺構である。  (略)




	【小山田主鈴 奈良市経済部観光課発行:柳生の家老屋敷パンフより】

	天明元年(1781)〜安政3年(1856)。岩代国岩瀬郡牧之内村(現福島県天栄村牧之内)に生まれた。白河藩の郷士小山田孫
	右衛門の弟、幼名を弥一郎と言った。文化3年(1806)25歳のとき江戸の柳生藩邸に仕え、才腕を認められて重職に栄進、
	文政9年(1826)45歳のとき国家老として奈良に移った。柳生藩南都屋敷を預かり、大阪堂島の米相場で巨利を得て藩財
	政の窮乏を救うなど、よく経世の実をあげた。伝承によれば、米相場の成功の陰には、こんにゃく橋の下の流れの水温によ
	って米価の騰落を予想した妻保女の示唆があったという。



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松ちゃんは、儂の全盛時代のような腹をしとるなぁ。













皆さん何やら玄関先でたたずんでいるが、スピーカーから流れてくる解説を聞いているのです。



廻りに建っていて、今はもう無い建て物の跡がレンガで囲まれている。




	城かと見まがうような見事な石垣の上にある。昭和39年に作家の山岡荘八氏の所有となり、昭和46年のNHK大河ドラマ「春の坂道」
	の原作もここでその構想が練られたという。山岡氏の死後の昭和55年遺族により奈良市に寄贈された。柳生藩の関係資料が展示され
	ている。音声ガイドによると柳生は、多くの柳があったのが名前の由来とか。柳生新陰流は、剣術の極致として無刀の術理を案出し
	た柳生宗厳(むねよし)(石舟斎)を流祖とする。人を殺すのではなく人を活かす「活人剣」だという。



柳生一門は全国に居るんだねぇ。将軍家指南役にはみんな靡いておこうとする、「日和見の侍」の面目躍如。






	文禄3年(1594)石舟斎は、黒田長政の紹介で息子宗矩を伴って徳川家康と面会、柳生新陰流の秘技無刀取りを披露し、家康に
	感心される。山岡荘八の「柳生宗矩 春の坂道」によると、家康は「学問によって人間を作り変えねば戦乱の世は終わらぬ」と
	言い、石舟斎は、「武道によって人間を作り変えねば戦乱の世は終わらぬ」と言ったというから目指す方向は同じだったのだろ
	う。これを機に宗矩は家康、秀忠、家光の三代に仕えることになる。
	一方、宗厳の長男厳勝(よしかつ)の次男利厳(兵庫助)は尾張藩主徳川義直に仕え、以後子孫代々尾張藩主の剣術師範を務め
	た。宗矩の系統は江戸柳生、利厳の系統は尾張柳生と呼ばれる。
	宗矩の子柳生十兵衛が考案したという「柳生杖」も展示されている。山岡荘八の「柳生宗矩 春の坂道」によると鋼鉄を芯にし
	てこよりで幾重にも巻き上げて漆をかけた、一見いかにも細身の弱そうに見える杖で、大小の刀を取り上げられてもこれで殺生
	せずに懲らしめられるという。

































































あ、じいちゃん死んでる!











伊賀上野マラ豚の連中はけっこう後から後から走ってくる。別にタイムを競う訳では無く、家老屋敷に寄っていったりしている。











<小山田家分家>

途中さっき見た家老屋敷と同じような建物があって、小山田家分家だという。こちらみ堂々たる石垣の上に立っていて立派だ。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 186回例会・柳生の里へ