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売布神社


清荒神駅まで降りて来て、阪急電車の線路伝いに「売布神社駅」を目指す。



20分程で「売布神社駅」に到着。ここから神社までまた15分程である。売布神社駅から約5−600mくらいかな。






	売布神社

	売布神社(めふじんじゃ)は、兵庫県宝塚市にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。旧川辺郡米谷村(まいたにむら)の産土神。
	正式には旧字体を用い「賣布神社」と記す。社伝では、推古天皇十八(610)年の創建とされる。

	「延喜式」記載の神社で食物と衣服の神様を祀っている。『延喜式』神名帳の摂津国河辺郡に「売布神社」がみえ、中世以降、貴布禰
	神社や貴布禰明神(貴船大明神)と称していたが、元文元年(1736年)、寺社奉行大岡忠相(おおおかただすけ)より地誌編纂を命じ
	られた並河誠所(なみかわせいしょ)の調査によって当社が式内・売布神社に比定され、以降は売布神社と称するようになった。本殿
	前の石碑はその時に立てられたものと言う。明治6年(1873年)、郷社に列格した。
	この辺りは米谷(まいたに)村と言い、あちこちに米谷という名前が残る。売布谷(めふたに)が訛って生じた地名と考えられている。



	
	下照姫神(高比売神)を主祭神とし、天稚彦神を配祀する。下のウィキペディアの解説にもあるように、下照姫神は古事記、日本書紀、
	先代旧事本紀などに登場し、出雲国譲神話では大国主神の娘で、天稚彦神は高天原からの使者として天降ったその夫である。

	しかし祭神については、このあたり一帯が物部氏一族の若湯坐連(わかゆえのむらじ)の拠点だったという伝承に基づき、本来は若湯
	坐連の祖である意富売布連(おおめふのむらじ)/大燈z命(おおめふのみこと)が祭神だったと見る説もある。伴信友の『神名帳考
	證』にこの説があり、『宝塚市史』はこの立場をとっている。
	大燈z命は『旧事本紀』天孫本紀に、宇摩志麻治命の七世孫、十市根命らの末弟としてみえ、若湯坐連などの祖とされる。『高橋氏文』
	には、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)の表記で景行天皇の側近としてみえ、やはり若湯坐連らの始祖であるという。

	ほかにも、『姓氏録』和泉国神別の志貴県主条に大売布、山城国神別の真髪部造に大売大布乃命がみえる。『姓氏録』には、摂津国神
	別に物部氏族の若湯坐連氏がみえ、『三代実録』貞観五年八月八日の条に、摂津国河辺郡の若湯坐連宮足・若湯坐連仁高ら三人の本居
	を右京へ改めたという記述があるので、物部氏一族に関係があったのは間違いない。とすれば、この神社が物部氏ゆかりの氏神だった
	可能性は高い。

	・新撰姓氏禄(815) 「摂津国神別(天神) 若湯坐宿禰 石上朝臣同祖 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」
 	・先代旧事本紀・天孫本紀(9世紀後半)「伊香我色雄命の子・大燈z命 若湯坐連等の祖 垂仁天皇の御代に侍臣として仕え奉った」



	
	推古天皇18年(605年)の創建と伝える。下照姫神は当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを愁い、稲を植え麻を紡ぎ布を織ること
	を教え、その後豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。米谷村の由来もこの伝承にちなみ、米種(まいたね)か売布
	谷(めふたに)が転訛したといわれている。延喜式神名帳では小社に列格している。




	
	本殿は桧皮葺流造で、文化13年(1816年)の建立。兵庫県南部地震で被災、修復された。末社は、豊玉神社、稲荷社、市杵島比売命
	(弁才天)。10月18日・19日に行われるだんじり祭は八坂神社(宝塚市清荒神)と共催で、米谷東(売布、米谷)、米谷西(清荒神)
	の2基の地車が宮入りする。1736年に立てられた「賣布社」の標石と、4,100m2の社叢が宝塚市文化財に指定されている。





これですな。この石碑が1736年、寺社奉行大岡忠相の命令による調査時に建てられた「賣布社」の標石。宝塚市文化財。



エライもんですな。徳川吉宗、大岡忠相ですぜ。ホンマにいたんだねぇ。



	シタテルヒメ	出典:ウィキペディア

	シタテルヒメは、日本神話に登場する神道の神である。『古事記』、『日本書紀』などに記述される他、『先代旧事本紀』などでも
	記述される。
	『古事記』では、高比売命(たかひめのみこと)の亦の名が、下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)。
	『日本書紀』では、下照姫。亦の名は高姫、稚国玉。
	『先代旧事本紀』地神本紀では、下照姫命。

	<両親>
	『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹。
	『日本書紀』では、顕国玉(大国主)の娘。
	『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹。

	『古事記』の大国主神の系譜においては、アヂスキタカヒコネの同母妹と記されている。そのため、高比売(高姫)はシタテルヒメ
	の別名とされるが、姉妹の別神とする解釈もある。『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神と高津姫神の子、都味齒八重事代主神
	の同母妹に高照光姫大神命がおり、これと混同された可能性もある。

	『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した。天若日子が
	高天原からの返し矢に当たって死んだとき、シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いたアメノ
	ワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯?を行った。それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、そ
	の姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。アヂスキタカヒコネは穢わ
	しい死人と間違えるなと怒り、喪屋を蹴り飛ばして去って行った。シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。
	この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』本文にはない)。『日本書紀』の第一の一書で
	は、アメノワカヒコの妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみシタテルヒメの名が登場し、アヂスキタカヒコネの
	妹であるとしている。



	
	<神社>
	・大穴持御子玉江神社(乙見社とも。出雲大社:荒垣外摂末社):主祭神 下照比賣命
	・比売許曽神社(難波 大阪市東成区東小橋)[1]:主祭神 下照比売命(江戸時代までは牛頭天王) 『延喜式神名帳』では下照比
	 売社が比売許曽神社であると記す。なお、比売碁曾社の主祭神は明治以降は牛頭天王から下照比売命に代わっている。
	・売豆紀神社:主祭神 下照比賣命
	・売布神社:主祭神 下照姫神
	・倭文神社(鳥取県) 現在は建葉槌命が主祭神となっているが、社伝にはシタテルヒメに関するものが多く、大正時代まではシタ
	 テルヒメが主祭神であると考えられていた。倭文神社内の塚がシタテルヒメの墓であると考えられていたが、発掘により経塚であ
	 ると判明した。

	<シタテルヒメの原像>
	『記紀』において、卑弥呼の原像をもとに、天上界ではアマテラス(天照)、下界ではシタテル(下照)ヒメとして記載したとの説
	もある。そういう意味で、シタテルヒメは卑弥呼をより実像に近い形で記されたものとも解釈できる。

	<異説・俗説>
	記紀の比売許曽神社の記述Tから阿加流比売神とシタテルヒメを同一視し、垂仁天皇の条に登場する清彦は、天日矛の四代後とされて
	おり、天日矛が来たのは3世紀前半となり、魏志倭人伝に描かれた卑弥呼の年代と一致するとする説を唱える者もある。
	兄弟となるアジスキタカヒコネについては、各地の神社の伝承から事代主、一言主、大物主、大山咋神などがその異名同神の可能性
	が高くそのアジスキタカヒコネあるいは父神の大国主、母神の多紀理毘売との組み合わせから市杵島姫(イチキシマヒメ)(宗像三
	女神、弁才天と習合)、ミツハノメ、アメシルカルミズヒなどもシタテルヒメの異名同神と考える者もいる。
	江戸時代の偽書 『ホツマツタヱ』では、タカヒトとイサコの間に生まれた長女ヒルコ(昼子姫)が、結婚した後に天照大神の妹神と
	して下照姫と名乗ったとされている。同書では和歌の女神の和歌姫として記されており、天照大神の妹としてワカヒルメ(稚日女尊)
	とも名乗り、他界するとき、アマクニタマ(天津国玉)の娘のオグラヒメ(小倉姫)に、和歌の奥義を記したクモクシ(雲奇)文を
	授けて、下照姫を襲名させたとされている。神上(かみあ)がってから後に、歳徳神と称えられたと記されている。

	<注釈>
	1. 『古事記』では、天日矛(アメノヒボコ)、『日本書紀』では都怒我阿羅斯等が逃げた妻(阿加流比売神)を追って渡来し、逃げ
	  た阿加流比売神が身をひそめたという記述がある。『延喜式神名帳』では阿加流比売命の赤留比売神社は住吉郡にあるとする。



こちらは厳島神社で、今日この後に行く「市杵島姫神社」の市杵島比売命を祀る。



	
	物部氏(もののべし)は「物部」を氏とする氏族で、河内国の哮峰(いかるがのみね:現大阪府交野市か)に瓊瓊杵命(ににぎのみ
	こと)よりも前に天孫降臨したとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖先と伝えられる氏族である。そもそもの物部氏がどこ
	から来たのかは、『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、現在の福岡県遠賀郡・鞍手郡あたりである可能性が高い。『続日本紀』『公
	卿補任』などもその可能性を示唆する。我が歴史倶楽部の例会でも、饒速日命の墳墓を探して交野市周辺を歩いたのでご記憶の方も
	あるだろう。
	飛鳥時代に蘇我氏と仏教崇拝をめぐって争った話は有名で、物部麁鹿火、物部尾輿、物部守屋などが史書に登場する。また兵器の製
	造・管理を主に管掌しており、奈良県天理市の石上神宮を氏神としていた事も広く知られている。本貫は河内国哮峰であるが、その
	おもな居住地は河内国、大和国などとされる。しかし物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めると
	その例は枚挙にいとまがない。

	石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある。扶桑略記、陸奥
	話記などには陸奥大目として物部長頼という人物が記載されている。いわゆる「古史古伝」のひとつである物部文書に拠ると出羽物
	部氏は物部守屋の子孫と称しているが証拠はない。一方で六国史に散見する俘囚への賜姓例の中には、吉弥候氏が物部斯波連を賜っ
	たという記録も見える。
	また、下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承に、布都久留の子で木蓮子の弟の物部小事が坂東に進出、征圧したというも
	のがある(平安中期に作られた和名類聚抄の国郡部第十二「下総国第八十六」項には下総国千葉郡物部郷〈四街道市物井〉の記述が
	あり、物部と地名が刻まれた石碑も出土している)。またこれについては常陸国信太郡との関連を指摘する説があり、香取神宮と物
	部氏の関連も指摘されている。

	古代尾張の東部に物部氏の集落があり、現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。石見国の一の宮
	「物部神社」(島根県大田市)は、部民設置地説以外に出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、社家の長田家・金
	子家は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。
	岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社がある。縁起によると、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した「十握劒」(あるいは
	「韓鋤(からさひ)の剣)を山上の磐座に納めたのが始まりといわれる。江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓を名
	乗ることを許されたといい、今の宮司も物部氏をついでいる。大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。

	ここ摂津においても物部氏族の若湯坐連氏が広く根を張っていたものと考えられ、売布神社はもともと若湯坐連氏の氏神だったもの
	が神話の下照姫神と結びついたものと思われる。なお、蘇我氏によって滅ぼされたという物部氏の子孫はその後も生き延びて、長門
	守護の厚東氏、物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、江戸幕府の幕臣・荻生徂徠などが子
	孫といわれる。



ここから住宅街を通ってゆくのは迷いそうだと言うので、又池の畔へ戻って「中山荘園古墳」を探す。



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