Music: 夕焼け小焼け

清荒神

	やすらぎ広場

	奥の院から降りてくると、やがて寺が工事のために作った道へでる。麓からここまで工事用の道路を作るのに1年掛かったらしい。
	そこからさらに2,30分歩くと、道から少し入った林の中に、「やすらぎ広場」という広場がある。周囲を林に囲まれた本当の
	広場である。どっかのガイドに「宏大な草原に吹くそよ風を感じながらハイキングの疲れを癒やせる。加山雄三が「旅人よ」を作
	曲した所。」とあったがこれは嘘っぽい。大体、加山雄三がここまできたんかい!



真ん中の芝生には誰も居ないが、廻りの林の下に、ズラリと陣取ってみんな昼食を取っているのである。



我々もこの広場の入り口付近に陣取って昼食にした。後から広場へやってくる連中がみんな我々を見ながら通ってゆく。



やすらぎ広場から少し車道を通って脇へ入ると、岩ごつごつのガレ場である。幾つもの岩場にロープが渡してある。



大げさにポーズを取っているが、ハイキングに慣れた人ならそう危険では無い。むしろ面白い位だ。



岩場を過ぎると高台へでる。



驚いた事に、この高台まで住宅が建ちこめている。相当な高台なのにここから通勤する人は大変だ。



そこから大林寺という墓地に出る。寺の建物より墓地の方が大きいくらいである。







人は死んだら生前の行いによって六道のいずれかへ落ちてゆく。人間界か天上界がいいねぇ。餓鬼道や地獄は御免被りたい。



大林寺のすぐ下が清荒神(きよしこうじん)の駐車場&参道である。しかしこれ、関西人で無いと(きよしこうじん)とは読めんで。



河内さんは毎年大晦日にはここへお参りにくるそうで、参道は満員電車並だそうだ。「ま、それだけが儂の大晦日の仕事ですわ。」












	清荒神清澄寺(きよしこうじん せいちょうじ)は、兵庫県宝塚市にある真言三宝宗の寺院(大本山)。摂津国八十八箇所第72番。
	896年(寛平8年)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられた。本尊は大日如来。鎮守社として三宝荒神社があり、竃の神
	の荒神などを祀る神仏習合から「清荒神清澄寺」の名称がある。

	ここにも小生は一度は来ていると思うのだが、全く記憶が無い。始めて来る感じだ。それに荒神て、てっきり康申尊天かと思ってい
	たら、荒神なんやね。日本の神仏習合はホンマにわけわからん。何でも拝めばええっちゅうもんじゃないが!

	ま、しかし、字も読めん、学問もしてない中世の庶民達が奥戸さんやご不浄に手を合わせる気持ちもわからんじゃない。




	開山の導師で真言宗の長者・益信僧都(やくしんそうず)は、この聖地に荒神尊を祀(まつ)り、仏法守護、三宝の加護を祈ったところ、
	社前の榊(さかき)の木に荒神尊の御影が映るという吉兆が起こり、宇多天皇から「日本第一清荒神」の称号を賜ったと伝えられる。
	1183(寿永2)年、清澄寺は源平の兵火により諸堂は焼失したが、1193(建久4)年源頼朝の手によって再興、さらに400年後の戦国の
	兵火で再び炎上したが、三宝荒神社は再度の兵火から免れました。このことから、「火の神様」「台所の神様」として広く信仰され
	参拝者で賑わっている。本尊は大日如来で、国の重要文化財に指定されている。



上記をクリックして貰えれば大画面になります。

	山内には画家富岡鉄斎の作品を集めた鉄斎美術館が1975年に設立された。近隣地域では、「荒神さん」と呼び慣わされ、かまど神の
	一種として、ここで受け取ったお札を台所の神棚に祀るなどの信仰が根付いている。門前の緩やかな坂道には、屋台を含め200近い店
	舗が軒を並べて門前町を形成している。極道から弁護士になったことで話題になった大平光代の更生のきっかけとなった寺としても
	有名。大平は初めて訪れた日から17年間毎日通ったという。今どうしてるんかね。





	荒 神	出典:ウィキペディア

	仏教。神道。荒神(こうじん)とは、日本の荒ぶる神、悪神の一種。

	<概要>
	日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和
	に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。
	後者が一般的な意味での荒神である。後者は害悪をなす悪神であったので、本来これを祀るものはなかった。
	仏教の伝来とともに、インドで行われた、例えば夜叉・羅刹などの悪神を祀りこれを以って守護神とする風習が伝わった。そして古典
	上の荒ぶる神の類を、陰陽師(おんようじ)やその流れを汲む祈祷師(きとうし)が、外来教典に基づく神のように説いたことからこ
	の呼び方が普及したのである。
	すなわちヒンドゥー教での悪神が仏教に帰依した後に守護神・護法善神とされた風習が、日本の風土でも同じくされたものである。
	つまり古来からいう荒魂を祀って荒神としたということになる。

	<信仰史>
	荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島
	(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸
	内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多い。
	荒神信仰には後述するように大別すると二通りの系統がある。(三系統ともいう。)屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」、屋
	外の「地荒神」である。
	屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰
	が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と
	呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
	御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神
	の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王
	(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だと
	している。
	牛頭天王は、祇園会系の祭りにおいて祀られる神であり、インドの神が、中国で密教、道教、陰陽思想と習合し、日本に伝わってから
	さらに陰陽道と関わりを深めたものである。疫神の性格を持ち、スサノオ尊と同体になり、祇園会の系統の祭りの地方伝播を通して、
	鎮守神としても定着したものである。

	<種類>
	三宝荒神は、「无障礙経(むしょうげきょう)」に説かれているところの a.如来荒神(にょらいこうじん) b.麁乱荒神(そらんこう
	じん) c.忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三身を指すとされたようであるが、偽経とされる説がある。偽経は中国で作成されたお経で
	あり純粋な釈迦の教義とは言いがたいが、熱烈な信者も存在することは確かである。
	後世、下級僧や陰陽師の類が、財産をもたない出家者の生活の援助をうけやすくするため、三宝荒神を信仰(帰依)するように説いた
	ことに由来している。像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝
	荒神はその代表的な物である。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られること
	が多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから、しだいに俗間で信仰されるようになったものである。

	竈荒神の験力によると、生まれたての幼児の額に荒神墨を塗る、あるいは「あやつこ」と書いておけば悪魔を払えると信ずる考え方が
	ある。また荒神墨を塗ったおかげで河童(かっぱ)の難をのがれたという話も九州北西部には多い。
	荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒
	神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う。

	地荒神は、屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の総称である。 中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九
	州北部には、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとにまた小集落ごとにこれを祀る例が多い。山の神荒神・ウブス
	ナ荒神・山王荒神といった習合関係を示す名称のほか、地名を冠したものが多い。

	祭祀の主体によりカブ荒神・部落荒神・総荒神などとも称される。旧家では屋敷かその周辺に屋敷荒神を祀る例があり、同族で祀る場
	合には塚や石のある森を聖域とみる傾向が強い。部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い。
	樹木の場合は、地主神、作神(さくがみ)であり、牛馬の安全を守るが、甚だ祟りやすい。また祀る人たちの家の火難、窃盗を防ぐと
	いうから、三宝荒神の荒神と全然別質のものとも言えない。地荒神にみられる地域差は、その成立に関与した者と、受け入れ側の生活
	様式の差にあったとみられる。

	地荒神も三宝荒神と同様、毎月28日とか、正月、5月、9月の28日に祭りを行う例が多い。あるいは旧暦9月か11月かに、稲作の収穫祭
	のような感じをもって行われる。頭屋(とうや)制で同族や集落の家々が輪番で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えているものがある。

	<仏教における荒神信仰>

	・三宝荒神
	仏教系では仏・法・僧の三宝を守る神様とされる。荒神の尊像は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)であり、
	不動明王に通じた怒りの形相である。六臂の持ち物はその像によって差異があるが、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛
	剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。江戸時代には民家の台所には必ずとい
	ってよいほど祀られていた。そしてその祀り方は御札あり、御宮あり、幣束もあっていろいろな形がとられていた。
	ここにいう三宝とは、
	三宝の本質は真理の一体化であるとする(同体三宝の説)
	三宝はそれぞれ別のすがであるとする(別三宝の説)
	三宝は仏教を維持し伝えて行く上の三宝で仏像と経巻と出家僧の三つを言
	すなわち仏教で最も尊いものを宝に例えたもの
	1.仏=仏様:悟りを開き衆生を教え導く者
	2.法=教え:仏の説いた真理
	3.僧=お釈迦様の教えを守る人達:仏教教団 と説かれていたらしい。





ここは金串や火箸の使用済みのものを持ってきて奉納するという慣習があるそうだ。



「あれ、こんもん無かったがなぁ」と河内さん。この辺りに古墳があったが無くなってるそうなので、古墳を役行者に変えたかな。











	鉄斎美術館

	幕末から大正期にかけて活躍した南画家の富岡鉄斎(とみおかてっさい)と当時の清澄寺の坂本光浄法主との間には親交があり、お
	寺の所蔵する鉄斎のコレクションは一千点に及ぶ。これらの作品は海外でも展示され、高い評価を受けている。



































生まれて初めて白蛇を見たような気がする。子供の頃「白蛇伝」というアニメ映画を見たがあれ東映じゃなかったかな。









ここから売布神社、中山荘園古墳、一杵島姫神社と歩いて又中山寺へ戻る。都合一時間半くらいだったかな。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 187回例会・宝塚歴史散策