Music: 夕焼け小焼け
中山寺奥の院
中山寺から18丁に旧寺跡があったとされている。付近に瓦片が散乱する場所もあり、奥の院には大悲水と白鳥の窟など仲哀天皇
の皇子にまつわる伝承も残っている。この大悲水は厄除けの水として多くの人々の信仰を集めている。摂津88ケ所第71番札所。
聖徳太子によって創建されたと伝えられ、多くのハイカーで賑わう。拝殿は現在改修中で、一帯は工事現場の壁に囲まれており、
付近散策には注意が必要。
旧拝殿。今はもう取り壊されている。
白鳥塚古墳から上っていった所に「奥の院」への入り口がある。どうして十八丁という設定なのかよくわからん。
後ろの林の中へ進んでゆく。相当上ったところにも住宅があって驚く。神戸方面は山の上まで開発しきっている。
芦屋も山頂まで住宅街があるし、駅まで降りてくるのも大変だね。横浜もそんな感じだったし、いやエライもんだ。
ここを登り切った所が住宅街の頂点のようだった。
この道の至る所にお地蔵さんが鎮座している。
この辺りは完全にハイキングです。
遠く大坂から神戸方面も見えている。
上の景色を見ているのが、下の皆さんです。
夫婦岩園地 天気の良い日には伊丹空港、大阪平野まで一望できる見晴らしの良い展望がうり。
後でゆく賣布(めふ)神社がこの真南に鎮座している。何か関係があるのかな。
誰が置いたか木彫りの夫婦像が。河内さんは「うまいこと彫っとるなぁ」と感心しきり。
「儂もこんなん彫ってみたい」と、一言ぼそり。やっと懺悔する気になりましたか。
岩には何やら文字か模様が彫ってあったが、何が書いてあるのか全然わからんかった。
大隈君もよく見ればお地蔵さんみたいな顔をしてますな。
「花盛りの森」って、昔そんな小説がありましたな。三島由紀夫だったかね。
正面に宝塚の町と甲(かぶと)山が綺麗に見えています。甲山は月見の名所で、私も昔wifeと、あそこで寝っ転がって月を見ました。
「えーっと、ココをこう行ってやなぁ」「そない行ったら山頂へ行ってしまいまっせ」「あ、そやな」
我々がどう来たのか、これからどう行くのか知りたい人は上をクリックしてみてください。
十五丁まで来ました。しかしエライもんやなぁ、徳川吉宗時代に立った石碑でっせ! これを彫った人、立てた人は吉宗時代の人なんや!
森林浴も浴びすぎるほど。ハイキングそのものです。
どうして十八丁という設定になっているのかはよく判らんが、やっと十七丁まできた。ココは聖徳太子修行の地だと。ホンマかね。
この奥の院には忍熊王と物部守屋が祀られている。忍熊王の御陵もここにあると言う。中山寺境内の大仲姫の御陵と言い、聖徳太子
はお告げに現れた「大仲姫」の所縁の地にすべて寺院を建立したというわけなのだろう。物部氏・蘇我氏の崇仏論に端を発した戦争
は飛鳥朝廷の旧勢力を新興勢力とのせめぎ合いでもあった。逆臣物部守屋の祟りを除く為にここに寺を建立し、やがて厄神明王が本
尊として祀られるようになったのだろう。奥の院によれば、我が国最初の厄神明王といわれ、以来千四百年余り幾多の興亡を経て今
日まで法灯が継承されてきたと言う。聖徳太子がここで修行したという伝説も、そういう過程で形成されていったものと思われる。
物部守屋は大阪市天王寺の「四天王寺」にも祀られている。これも祟りを恐れてである。聖徳太子が忍熊皇子の墓の蓋を開けた時、
白鳥が飛び出し、岩間より清水がわき出したので、大仲姫と忍熊皇子の二人を崇めたと言う。さすれば忍熊皇子の墓はこの辺りに
あったのだろうか。見たことは無いが、『摂津名所図絵』の紫雲山中山寺の本社の項に、「忍熊王、疫神、大仲姫」と載っている
そうだ。
また聖徳太子は、四天王寺をどこに建てるか決めるためにここで馬上から矢を放ち、落ちたところに現四天王寺を建立したと言わ
れ、馬の蹄の跡が残っているとされる石が奥の院背後の山中にあるらしいが、馬をここへ引っ張ってくるだけでも嘘っぽいし、こ
こから矢が天王寺まで飛んでゆく訳も無い。要は、聖徳太子が此の地でも人々に崇拝され、事象を全て太子信仰に結びつけたとい
う事なのだろう。
宇多天皇が自ら彫ったという「天神」の絵。よく判らない人は上をクリックしてみてください。
やっと十八丁。「中山寺奥の院」に到着。前日ゴルフで疲れていた西本さんは、
やっと登りが終わったと安堵の表情。早速「我孫子弁財天」にお参り。
上の写真が取り壊される前の奥の院。下は取り壊した後の工事現場。今から本格的な工事が始まるんだそうだ。
この辺りは我孫子という所なんやね。我孫子てあっちこっちにあるなぁ。
昼食場所の「やすらぎ広場」を目指して降りてゆく。
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 187回例会・宝塚歴史散策