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歴史倶楽部 第183回例会 冬の洛北をゆく

金閣寺 2013年1月27日(日) 京都市北区










いつ来たのかも覚えていないほど昔に一回来たことがあると思う。それすら覚えてない。おそらく九州から出てきてすぐだろうな。




	鹿苑寺  出典:ウィキペディア(以下、青字部分すべて)

	所在地 : 京都府京都市北区金閣寺町1
	山 号 : 北山(ほくざん)
	宗 派 : 臨済宗相国寺派
	寺 格 : 相国寺山外塔頭
	本 尊 : 観音菩薩(方丈本尊)
	創建年 : 1397年(応永4年)
	開 山 : 夢窓疎石
	開 基 : 足利義満
	別 称 : 金閣寺
 
	鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣
	(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である。
	寺名は足利義満の法号・鹿苑院殿に因む。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐。足利義満の北山山荘をその死後に寺としたも
	のである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和
	30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。

	ちなみに、鹿苑(ろくおん)とは、釈迦が初めて説法をした場所の名前だそうだ。




	この地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んで
	いた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、
	鎌倉幕府滅亡直後に、当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、
	西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

	西園寺家
 
	西園寺家は藤原氏北家に由来し、西園寺公経(さいおんじきんつね)は、朝廷の中心人物となり、その権勢は当時の摂関家を凌ぐほ
	どだったと言う。現在の金閣寺があるこの地は、もともと田んぼや畑があり神祇伯(じんぎはく)家が所有していたが、鎌倉時代
	には氏寺として西園寺の建立を思い立った、西園寺公経の豪壮な別荘・北山第が営まれた。造営当時は地上の仙境、此岸(しがん)
	の浄土と言われ、初めて西園寺・北山第を見た藤原定家によると、その趣は比類のない斬新なもので、高さ45尺の滝と碧瑠璃を湛
	えたように美しい池に驚いたそうだ。しかし鎌倉幕府が倒されると共に西園寺家も衰退していき、北山第を大層気に入っていた足
	利三代将軍・義満が1397年に西園寺家から譲り受け、北山殿を造営した。その工事は諸大名に割り当てられ、総費用は現在の価格
	で数百億円にものぼったと言う。

	1397年(応永四年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、
	当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。
	邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。1394年(応永元年)に義満は征夷大将軍職を子の義持に
	譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を行っていた。1408年(応永15年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住
	んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌1409年(応永16年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。
	その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、1419年(応永26年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝
	殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された。
	また、1416年(応永23年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するよ
	うに命じている。
	1420年(応永27年)に、北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を
	勧請開山(名目上の開山)としている。
 



	応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も1649年(慶安二年)に大
	修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により、
	1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。




	1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。文部省文化
	財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都
	府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30
	年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
	1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に夕佳亭の解体修理、
	2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひと
	つとなった世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。




	鹿苑寺金閣は国宝保存法により国宝に指定されていたが、1950年(昭和25年)7月2日未明、学僧・林承賢(当時21歳)の放火によ
	り炎上(金閣寺放火事件)。国宝金閣(舎利殿)は全焼、国宝足利義満坐像、伝運慶作の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像
	等10体の木像等も焼失した。林は寺の裏山で自殺を図ったが一命を取り留めた。彼の母親は事情聴取のために京都に呼ばれ、その
	帰りに保津峡で投身自殺した。
	この事件は三島由紀夫の小説『金閣寺』、水上勉の小説『五番町夕霧楼』・『金閣炎上』の題材にもなっている。なお、頂上にあ
	った鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、このうち金銅鳳凰は、1999年(平成11年)
	に京都市指定文化財に指定されている。

	金閣が焼けたのは、私が生まれる半年くらい前である。

	高校三年生の時、三島由紀夫にカブれて読んでいた頃「金閣寺」も読んだと思うのだが、これまた全然覚えていない。三島は日本
	語の美しさが評判(ドナルド・キーンなど)だが、果たして美しい文章だったのかそれすらも覚えていない。それよりも市川雷蔵
	の映画「金閣寺」の方が記憶に鮮明である。白黒で、坊主頭の雷蔵が金閣の中で火を付けているシーンは記憶がある。犯人の青年
	僧が自殺を図ったのは知っていたが、母親も死んだのは知らなかった。どんな気持ちで保津川へ飛び込んだのだろうか。
 





	現在の金閣は、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)の解体修理の際に作成された旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼
	損材等の資料を基に、1952年(昭和27年)3月22日から3年を掛けて復元再建されたもので、1955年(昭和30年)10月10日に落慶法
	要が営まれた。その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その漆も紫外線で劣化するように
	なったため、1986年(昭和61年)2月から1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大
	修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われた。この修復工事に際し、金箔は通常(約
	0.1μm)の5倍の厚さ(約0.45〜0.55μm)の「五倍箔」約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5トンが使用されている。
	最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井であった。

	8代将軍足利義政は祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。銀閣
	(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。



上右の御札が入場券である。粋だねぇ。












	鐘、一撞きが200円とあったのを見て河内さんは、「こりゃ入場料千円以上やな」と言う。私は600円、錦織さんは800円、
	上村さんも千円以上と言うので、四人で賭をした。一人百円出し、当たった者の総取りとしたら、何と400円だった。京都の寺
	社にしては400円は激安。しかも境内は結構広いし、「これで400円は値打ちモンやな」とみんなで喜んだ。




	「蹲踞(そんきょ)て何やろう?」「船の形しとるな」「手洗いちゃうか?」「あれ蹲踞(そんきょ)ていいまっか?」とワイワイ。
	入り口で係員に聞いたら、「蹲踞(そんきょ)と書いて「つくばい」て読みまんねん。」との事。やっぱり手洗いだった。





下の写真は河内さん撮影。クリックすると特大写真になります。綺麗です。





上村さんは誰かに似とるなぁと思っていたら、もっと毛を多くして俳優の「榎木孝明」やね。



鏡湖池と金閣



金閣と銀閣て、何のこっちゃ。ん? どっちが金でどっちが銀やろ。答え、コートです。



右端の小僧は何を見ているのかしらん?



写真では写していないが、右側の人並みは通勤電車並でした。





金閣裏側。舎利殿(これを金閣という)。カップルも裏側やね。
この距離が、付き合ってまだ日が浅いことを示している。初デートかも。








	舎利殿は漆地に金箔を押した三層宝形造の建物である。「金閣」として有名で、寺の通称「金閣寺」の由来となった。初層・二層・
	三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築である。初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦
	如来像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。二層は書院造風(武家造)で「潮音洞」(ちょうおんどう)と称し、岩屋観
	音坐像と四天王像を安置する。三層は禅宗様の仏殿風で「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、仏舎利を安置する。屋根は椹(さ
	わら)の薄い板を重ねた?葺(こけら葺)で、頂上には金銅製の鳳凰が飾られている。なお、金箔は二層および三層に貼られている。

	舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日
	の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は
	史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により、1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝(後に特別史跡・特別名
	勝)に指定されている。









クリックすると大型写真になります。これは筑前が写したもの。








	銀河泉	義満が茶の水に使用したと伝わり、今でも清水が湧き出ている。義満は茶の愛好家で、宇治に専用の茶園を作る程だった。
 
	巌下水(がんかすい) 義満が手洗いに用いたと言われている。たかが手洗ったくらいで。何でも名所になるんやな。










	龍門の滝
 
	2,3mの滝を一段落としにしてあり、その前には傾いた鯉魚石(りぎょせき)が置かれ、登龍門(龍門の滝を鯉が登り切ると龍に
	変身したという中国の故事)に因んでいる。この辺りにはかつて、天鏡閣とか泉殿等という名前の楼閣があったと推定されている。







京都は冬でも観光客が多い。「冬の京都」キャンペーンがきいたんやろうね。京都はホンマに宣伝がうまい。



安民沢と白蛇の塚。安民沢(あんみんたく)とはこの池の名前である。
なんで中国人みたいな名前がついているのだろう。毛沢東とか江沢民のような名前じゃないか。






	西園寺家の鎮守とされる白蛇の塚。この名前もいわれは良くわからない。net でさんざん調べたが、大学教授のHPでも安民沢と白
	蛇の塚の由来は載っていない。いずれも鎌倉時代・西園寺家の別荘であった頃からの遺構である。

	安民沢では水が湧き出しているとも言われ、日照り続きでも涸れない雨乞いの場とされていたと言う記述があるので、「民が安心す
	る沢」という様な意味なのだろうか。雨賜沢・望雲沢とも言うらしい。








	夕佳亭と南天床柱

	金閣寺境内の北側出口付近の高台にある。これは室町時代のものでは無くて、江戸時代に金森宗和(金森重近/1584〜1656)による
	設計とのことで、三畳敷の母屋に二畳敷の「鳳棲楼」が連なっている。代表的な茅葺・寄棟造りの茶室の一つ。金森宗和は、金閣寺
	の住職で茶道にも通じ当時一流の文化人だった鳳林和尚と親交が深かったので、この茶室の製作に関わったのだろうと思われる。
	もしかして、金森さんのご先祖かな。ははは。



「夕日に映える金閣寺が殊に佳い」ということから「夕佳亭」と名付けられたそうだ。マンマやね。




	夕佳亭は明治元年(1868)消失してしまい明治7年(1874)に再建されて、近年、平成の解体修理が行われた際、夕佳亭の古図が発
	見され、宗和建築当初の近い形に復元された。
	正面から右斜め前方に「鳳棲楼(ほうせいろう)」と称される切妻造・柿葺の上段の間(二畳)があり、後水尾上皇に献茶をした部
	屋といわれている。母屋の床柱は有名な「南天の床柱」。南天の木の自然な形を利用した趣のある柱だが、南天の木を茶室に用いる
	ことは珍しいと言う。




	夕佳亭から下って出口のすぐ手前に「不動堂」がある。弘法大師(空海/774〜835)の作と伝えられる石不動明王が岩窟の中に祀ら
	れている。毎年節分と8月16日に開扉法要が営まれているそうな。




			頭にかけたら頭が良くなり、腹にかけたら内蔵が良くなるという「釈迦香」を下半身にもかけていると、
			錦織さんから「まだ使いまんの?」と言われた。「もう一花。」



この不動堂の辺りに来たらチラホラ雪(上下の白い点)が降りだした。
「おっ、積もらんかなぁ。」と期待したが、ホンのさわりだけだった。





雪がもっと降ってきたら、こういう光景が見れるのではと期待したのだが。





茶店の前を掘っていた。こんな発掘現場もあるんやね。ここ掘って何が出てくるんやろう。




	大学を出て日立に入った。東京での三ヶ月の研修が終わって配属希望を聞かれた時、京都の近くに住みたかった私は大阪営業所を希望
	した。京都に出先があれば迷わず京都を選んでいただろう。それ程京都には憧れていた。その一年後に結婚した私は、独身時代に京都
	を歩き倒した。休みになると有名どころを歩き回っていた覚えがあるが、新婚時代にもwifeとアチコチ廻っていたので、金閣・銀閣に
	も何度か来ているはずなのだ。その記憶が全くないというのは、人間の頭脳の、メモリーの揮発性には驚かされる。もっとも、体験し
	たこと読んだことを全て記憶していたら、メモリーはパンクしてしまいかねない。してみると人間のメモリーは、その人にとって真に
	重要では無いことは忘れるように出来ているのかもしれない。単に私の記憶力が悪いだけという意見もあるが。




	金閣寺は、現在銀閣寺と共に「臨済宗相国寺派」の山外塔頭寺院である。本山である相国寺の住職が両寺の住職も兼ねている。実は金
	閣寺の大書院には、私の好きな江戸時代の絵師・伊藤若冲が、44歳の頃(1759年)に大典禅師の斡旋により描いた水墨画「大書院障壁
	画(重要文化財)」があった。
	現在は本山・相国寺にある承天閣美術館で収蔵・展示している。50面で、中でも一之間にあったとされる「葡萄小禽図」は葡萄が壁を
	伝うかのように大胆かつ現代的に描かれていてユニークな水墨画である。承天閣美術館には他に、「菊鶏図襖絵」「松鶴図襖絵」「月
	夜芭蕉図床貼付」などもある。

	鹿苑寺(金閣寺)大書院旧蔵障壁画		相国寺・承天閣美術館


 
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/183回例会・冬の洛北をゆく