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歴史倶楽部 第183回例会 冬の洛北をゆく 御霊神社 2013年1月27日(日) 京都市北区





	この神社には、 2008.5.25に第132回例会「怨霊の旅−京都市の怨霊を訪ねて−」と題して訪れた事がある。あの時も、服部さん、杉
	本さん、郭公さん、筑前の4人だった。あれからもう5年にもなるのか。




	上御霊神社  出典:ウィキペディア

	所在地 : 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
	主祭神 : 崇道天皇  他部親王  井上皇后  火雷神  藤原大夫神  文屋宮田麿  橘逸勢  吉備大臣
	社格等 : 府社
	創 建 : 貞観5年(863年)
 
	上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社である。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応
	するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。

	現在の祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。火雷神と吉備大臣(吉備聖霊)は後年追加された。

	 崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
	 井上大皇后(光仁天皇の皇后)
	 他戸親王(光仁天皇の皇子)
	 藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
	 橘大夫(橘逸勢)
	 文大夫(文屋宮田麿)
	 火雷神(以上六柱の荒魂。)
	 吉備大臣(吉備真備)
 
	祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。
	当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六
	所御霊であった。追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子と
	する説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある。
	相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。これらの諸神は(吉備真備を除いて)
	いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
 
	桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催
	された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊
	会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
	現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられ
	た。室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。
	この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
	なお、延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳
	であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。





ウィキペディアにみる祭神たち



	早良親王  (崇道天皇)  出典:ウィキペディア

	早良親王(さわらしんのう、天平勝宝2年(750年)? - 延暦4年9月28日(785年11月8日))は、奈良時代末期の皇族。光仁天皇の
	皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。
	母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親
	王禅師と呼ばれていた。天応元年( 781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。だが
	延暦4年(785年)、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食して淡路国に
	配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。
	藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明である。だが、東大寺の開山である良弁が死の間際に当時僧侶として東大
	寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事
	に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。種継が中心
	として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながり
	が深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方もある。
	その後、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓
	武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀
	式が執り行われた。延暦19年( 800年)、崇道天皇と追称され、大和国に移葬された。その場所は奈良市八嶋町の崇道天皇陵に比
	定されている。またこの近くには親王を祀る社である八嶋神社があり、さらに北に数キロ離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神
	社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京
	区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。


	<早良親王(さわらのみこ)>  生没年 750(天平勝宝2)〜785(延暦4)   出典:「天皇陵めぐり 崇道天皇陵」より

	光仁天皇の皇子。母は高野新笠。能登内親王・桓武天皇の同母弟。妻子がいたという記録はない。立太子以前親王禅師と称され、死
	後崇道(すどう)天皇と尊称された。761(天平宝字5)年、11歳のとき出家し、東大寺等定僧都を師とし、羂索院に寄住。768
	(神護景雲2)年、東大寺より大安寺東院に移住。770(宝亀1)年、21歳のとき登壇受戒。同年父白壁王が即位し(光仁天皇)、
	以後親王禅師と呼ばれた。この頃東大寺運営の主導権を握ったとも言われ、宝亀2年には実忠に命じて大仏殿副柱を構立している。
	781(天応1)年4月、兄山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられた。この時32歳。仏教界に重きを置き人望もあっ
	た早良親王を父光仁が推輓したものかという。同年4.14、藤原田麻呂が東宮傳大伴家持が春宮大夫、林稲麻呂が春宮亮となる。
	一説に、この頃家持が集めた歌集が早良皇太子に献上され、後の万葉集勅撰の契機となったともいう。

	延暦3年(784)、桓武帝は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。785(延暦4)年9.23夜、長岡京造営工事を検分中の藤原種
	継が賊に弓で射られ翌日死亡したのである。当時の朝廷は、新興貴族の藤原氏と、旧勢力の大伴家持(おおともやかもち)一族が反
	目しており、また、皇室内も桓武天皇の子安殿(あて)親王と、光仁天皇(桓武天皇の父)の遺志で皇太子に立てられた早良親王と
	の、皇位継承の問題が微妙な時であった。種継の暗殺されたことを知って長岡に戻った桓武天皇は徹底的に追求。とり調べの結果、
	家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継人・大伴永主・林稲麻呂らによる皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。桓武天皇は、
	反目勢力の大伴継人をはじめ、その関係者の数十人をわずか一日で処刑してしまった。

	親王は乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉され、淡路へ配流されることになった。親王は無実であることを訴え、自ら食を断った。そして
	10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭(河内国、淀川の橋)で絶命した。恒守は、そのまま早良
	親王の遺体を淡路へ運んで葬った。

	異変が連続して起こったのは、それからである。桓武帝の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と他界。
	さらに皇太子安殿の病気が長びいているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。朝廷はさっそく諸陵頭調使王
	(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早
	良祟る、の思いは桓武帝をはじめ為政者たち共通の思いであった。延暦19年(800)7月、桓武帝はついに早良親王に「崇道天皇」
	の尊号を贈り、遺骨を淡路から運び、墳墓を大和国添山郡八島陵に改葬した。そして更なる祟りを恐れ、平城京から遷都した「長岡
	京」も、わずか10年間という短命の都となり、平安京が誕生する。

	早良親王を廃したことは、おそらく桓武天皇にとって心の負担となり、さらに絶食して死に至らしめたという罪悪感は、その後の怨
	霊騒ぎの素地を造っていたとも言える。桓武天皇の近親者に続く不幸に加え、延暦10年8月には、伊勢神宮の正殿などが盗賊に放火
	されるという異変が起こっている。延暦11年には皇太子に立てた安殿親王が原因不明の重病に陥る。こうした凶事は早良の怨霊が祟
	りを起こしていると陰陽師に言われ、天皇もそれを信じたのである。早良親王を乙訓寺に幽閉し死に至らしめたことは、桓武天皇に
	とって逃れられない罰を背負ったも同然であった。

	延暦13年( 794)10月22日、都が平安京へ移されて、長岡京はわずか10年たらずの都としてその歴史の幕を閉じたが、早良親
	王の怨霊が平安京遷都の要因の一つとなったことは今日ほぼ定説となっている。親王の怨霊に対する天皇の恐れは平安京に移った後
	も治まらず延暦16年5月に僧侶二人を淡路に行かせ、墓前に金剛般若経を転読させている。さらに18年2月にも春宮亮大伴是成
	(とうぐうのすけおおともこれなり)と、一人の僧を淡路島へ派遣し供養している。天皇の心の負担は想像以上のものであったのだ
	ろう。翌19年7月に早良親王に祟道(すどう)天皇の尊号を追贈。再び春宮亮を淡路に派遣して墓前に奉告させ“祟り”を避けよ
	うとしている。ここに一旦埋葬され、その後掘り返されて奈良へ運ばれた。
	思えば桓武天皇は、怨霊の祟りから逃れるためにだけ生きたような一生を送っている。




	伊予親王  出典:ウィキペディア

	伊予親王(いよしんのう、延暦2年(783年)? - 大同2年11月12日(807年12月14日))は、平安時代初期の皇族。桓武天皇の第三
	皇子(異説あり)。官位は三品・中務卿、贈一品。
	大同元年(806年)中務卿兼大宰帥に任ぜられる。しかし、翌大同2年(807年)反逆の首謀者であるとして母・藤原吉子とともに
	川原寺(弘福寺)に幽閉され、絶食した後毒を飲んで自害した。異母兄平城天皇の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤
	原宗成に失脚させられたものとされる(伊予親王の変)。後に親王の無実が判明し、承和6年(839年)に一品が追贈された。
	伊予親王の墓所は、京都市伏見区にある「巨幡墓」。




	藤原吉子  出典:ウィキペディア

	藤原 吉子(ふじわら の よしこ、生年不詳 - 大同2年11月12日(807年12月18日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけて
	の桓武天皇の夫人。父は藤原南家藤原是公(これきみ)。伊予親王の母。
 	783年(延暦2年)に伊予親王を生む。807年(大同2年)藤原北家の出身である藤原宗成によって謀反の嫌疑がかけられ、伊予親王
	とともに川原寺(弘福寺)に幽閉されて飲食を絶たれた(伊予親王の変を参照)。母子は自害したが、その後、祟りを怖れた朝廷
	によって復位・贈位がなされた(819年に復位、839年に贈従二位)。

	ウィキペディアには、「藤原夫人」で検索すると他にも何人かの人物が登場するが、伊予親王の母であるし、伊予親王とともに殺
	されたとみれば、この人物なのだろうと思う。




	藤原仲成  出典:ウィキペディア

	藤原 仲成(ふじわら の なかなり、天平宝字8年(764年)- 大同5年9月11日(810年10月16日))は、平安時代初期の公卿。
	藤原式家、中納言・藤原種継の長男。官位は従四位下・参議。
	延暦4年(785年)父・種継が暗殺されたことから、若年ながら従五位下に叙された。桓武朝では出雲介・越後守・山城守・大宰大
	弐・大和守・伊勢守と地方官や、衛門佐・弁官などを歴任する。この間、延暦16年(797年)従五位上、延暦17年(798年)正五位
	下、延暦20年(801年)従四位下と順調に昇進した。
	平城朝では妹の尚侍薬子が天皇の寵愛を受けたこともあり、仲成は重用され権勢を誇ったが、陰険で専横な振る舞いが多かったた
	めに人々から憎まれたという。また、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変にも関与していたともされ、変後仲成は右兵衛督
	・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に任ぜられ公卿に列した。
	同年に平城天皇が嵯峨天皇に譲位すると、権勢の失墜を恐れた仲成・薬子兄妹は平城上皇とともに平城京に移り上皇の重祚を画策
	して二所朝廷の対立を招く。大同5年(810年)6月観察使制度の廃止により参議となる。しかし、9月6日の平城上皇による平城京
	への遷都命令により平城上皇・嵯峨天皇の対立が激化すると、9月10日 嵯峨天皇に先手を打たれて捕縛、右兵衛府に監禁の上、佐
	渡権守に左遷され、翌日紀清成・住吉豊継の手により射殺された。
	仲成の射殺を最後として以後、平安末期の保元の乱まで中央では死罪は行われなかったと言われているが、仲成に対して行われた
	「射殺」という処刑方法は養老律にある斬・絞の方法とは異なり、かつ一旦正規の左遷手続が下された相手に行われていることか
	ら、法律の規定に基づいた「死刑」ではなく、天皇独自の判断による「私刑」であった可能性が指摘されている。

	欲が深い性格で、酒の勢いで行動することがあった。親族の序列を無視し、諫止にも憚ることがなかった。妹の薬子が朝廷で自分
	の思うままに行動するようになると、その威を借りてますます傲り高ぶるようになり、王族や高徳者が多く陵辱を受けた。
	妻(笠江人の娘)の叔母が非常に容貌が優れていたことから仲成は好意を寄せるが、嫌われていうことをきかなかったため、力ず
	くで意に沿わせようとした。そのため、叔母は佐味親王の許へ逃げ込むが、仲成は親王とその母(多治比真宗)が住んでいた家に
	あがりこみ、叔母を見つけると暴言を吐き道徳に反する行動に出た。
	仲成が殺害されるに及び、人々は「自らの行いが招いたことだ」と思ったという。




	橘逸勢  出典:ウィキペディア

	橘 逸勢(たちばな の はやなり、延暦元年(782年)? - 承和9年8月13日(842年9月24日))は、平安時代の書家・貴族。参議・
	橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。嵯峨天皇皇后・橘嘉智子、右大臣橘氏公はいとこにあたる。官位は従五位下・但馬権守、
	贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。
 	延暦23年( 804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強がで
	きないと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、帰国後はそれらの第一人者となった。 
	承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられる。のち、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていた。性格は放誕で、細かいことに
	は拘らなかったという。

	承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、
	伴健岑とともに捕縛された。両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。しかし、7月23日には仁明
	天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって包囲された。結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、
	参議・文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊
	豆へ、健岑は隠岐(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった(承和の変)。
	逸勢は伊豆への護送途中、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した。60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板
	築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営
	み、菩提を弔い続けた。
	死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)太皇太后嘉智子の没後まもなく正五位下の位階を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行
	の話が都に伝わり賞賛されている。仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。仁安元年(1166年)には橘以政によって伝記
	『橘逸勢伝』が著された。
	また、無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻
	呂・早良親王・伊予親王などとともに祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。
 
	在唐中、書は柳宗元に学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わってい
	ない。その中で、空海の三十帖冊子の一部分、興福寺南円堂銅燈台銘、伊都内親王願文が逸勢の筆とされているが確証はない。た
	だ逸勢以外の書家からその書風を見出すことができないので、逸勢の筆と推定されている。
 
	『伊都内親王願文』(いとないしんのうがんもん)は、桓武天皇の第8皇女・伊都内親王が生母・藤原平子の遺言により、天長10年
	9月21日(833年11月6日)、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進した際の願文である。楮紙
	に行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。書風は王羲之風であるが、その中に唐
	人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大である。御物。
	



	文室宮田麻呂 出典:ウィキペディア

	文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ、生没年不詳)は、平安時代初期の官人。備前守三諸大原の六男。文室綿麻呂の弟。位階は
	従五位上。
	839年(承和6年)に従五位上に叙せられ、840年(承和7年)に筑前守に任じられたが、842年(承和9年)には解任されていた。こ
	の間、新羅の商人張宝高(ちょうほうこう)に■(あしぎぬ)を贈って唐の物産を得ようとしたが、張の死により失敗した。
	843年(承和10年)散位従五位上のとき謀反の罪により伊豆国へ配流され、同様に子息の忠基(佐渡国)・安恒(土佐国)も流罪と
	なった。配所で没したと思われるが、詳細は不明である。のちに、無実であることがわかり、863年(貞観5年)に神泉苑の御霊会
	で慰霊されている。同じ年、近江国に所有していた家10区、土地15町、水田35町が勅により貞観寺に施入された。




	井上内親王 出典:ウィキペディア

	井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代聖武
	天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后。
	養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月
	13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。
	帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。同19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時と
	しては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関してはあまりに
	も高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違
	いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかしながら酒
	人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。
	光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、また翌2年(771年)1月23日には
	他戸親王が立太子される。

	宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。
	翌4年(773年)1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
	10月19日、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先
	で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
 
	宝亀3年(772年)、井上内親王の廃后と他戸親王廃太子事件のあった後の11月13日、にわかに井上内親王の娘の酒人内親王が19歳
	で伊勢の斎王に卜定されており、この事件と酒人内親王の斎王卜定は連動していた可能性がある。また、井上内親王の立后と他戸
	親王の立太子に尽力したと言われている左大臣藤原永手が宝亀2年(771年)の2月21日に他界して、藤原氏内部における藤原北家か
	ら藤原式家への政権移動があったことも注目すべき事柄である。
	井上内親王の光仁天皇呪詛事件は、山部親王の立太子をもくろむ藤原良継や藤原百川ら藤原式家一派の陰謀(あるいは彼らの政治
	的圧力によって内親王が追い詰められた結果とも)とする解釈がある。
 
	<異伝>
	後世の史書・史談などには『続日本紀』異なる内容を伝える記事や、信憑性に欠ける扇情的な記述も散見される。
	 『水鏡』 - 光仁天皇が皇后と賭け事で「自分が勝ったら后に絶世の美女を紹介してもらおう。自分が負けたら后に若く逞しい男性
	      を与えよう。」と言い、結果皇后の勝ちであったために山部親王を差し出したところ、皇后が若い親王に夢中になって
		  しまった。
	『一代要記』 - 他戸親王は井上内親王の実の子ではなく、内親王の生母と同じ県犬養氏出身の女嬬県犬養宿禰勇耳と白壁王との間
		  に産まれた皇子で、井上内親王が引き取り我が子として育てた。『一代要記』の所伝を採れば、 他戸親王は『続日本
		  紀』や『新撰姓氏録』左京皇別上に見える光仁天皇の皇子で、臣籍降下した広根朝臣諸勝と同母の兄弟ということにな
		  る。
	<鎮魂>
	宝亀7年(776年)から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った。同8
	年(777年)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称。さらに延暦19年(800年)、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、
	井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵に比定されている。のちに慰霊のために霊
	安寺(廃寺)が建立され、更には霊安寺の隣に内親王を祀る御霊神社も創祀された。





	吉備内親王 出典:ウィキペディア

	吉備内親王(きびないしんのう、生年不詳(686年頃か?) - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、草壁皇子と元明天皇の次女。
	元正天皇、文武天皇の姉妹。長屋王の妃。長屋王の変で自殺に追い込まれた。
	吉備内親王は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。和銅8年(715年)2月25日に、息子達が皇孫待遇になる。同年、元
	号が霊亀となった後に三品に叙される。神亀元年(724年)2月4日に二品に叙される。
	しかし、神亀6年(729年)2月、長屋王の使用人であった漆部造君足と中臣宮処連東人の密告により、長屋王が国を傾けるため「左
	道」を行ったとして、彼は自刃に追い込まれた。吉備内親王も、3人の息子達と共に縊死した。彼女は長屋王と同じく、生駒山に埋
	葬された。
	当時皇太子基王が急死し、自らも病弱であった聖武天皇に万が一の事があれば、天皇の叔母にあたる内親王やその子供達の皇位継承
	の可能性もあったと考えられる。天皇が根拠のない密告を信じて政府首班の長屋王を死に追い込んだ背景には、皇位を巡る天皇の疑
	心暗鬼があったとする説もある。

	この内親王がここに祀られる理由は弱いような気もする。別段桓武天皇にも、京都の町にも関係はなさそうな気がするが、しかしそ
	れは以下の吉備真備についても同様なので、いずれとも判別しがたい。

	吉備真備 出典:ウィキペディア

	吉備真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))は、日本の奈良時代の学者、政治家(公
	卿)。正二位・勲二等・右大臣。下道真備(しもつみち の まきび)、吉備下道真備(きび の しもつみち の まきび)などとも呼
	ばれた。
	備中国下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)出身。父は右衛士少尉下道圀勝(しもつみちのくにかつ)。母は楊
	貴氏(大和国(後の奈良県)の氏族と覚しき八木氏の女性)とされるが、疑わしい。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一
	族。異説として加茂氏系図に、吉備彦之孫・(鴨の)吉備麻呂・右大臣という記載があり、この人物が吉備真備であるという説があ
	る。また賀茂保憲や賀茂光栄は吉備真備の末裔とする文献もある。
 
	霊亀2年(716年)、下道真備は22歳のときに遣唐留学生(遣唐使)となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂、玄ムらと共に入唐し
	た。帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学など
	を学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器
	(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、
	矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』を持ち来たした。
 
	帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平9年に従五位に列せられた。翌10年に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、同
	時に帰国した僧玄ムとともに重用され、真備は右衛士督の役職を兼ねた。同11年8月母を葬るとされる[1]。天平12年(740年)には、
	真備と玄ムを除かんとした藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす。翌13年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)
	に『漢書』や『礼記』を教授した。その後、天平15年には従四位下、春宮大夫兼皇太子学士、同18年には吉備朝臣の姓を賜り、同19
	年に右京大夫に転じて天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。
 
	孝謙天皇即位後の翌2年には、藤原仲麻呂が専権し、筑前守、肥前守に左遷される。同3年には遣唐副使となり、翌4年に入唐、阿倍仲
	麻呂と再会する。その翌年の勝宝6年(754年)に屋久島さらに紀州太地に漂着するが、鑑真を伴って無事に帰朝する。
	天平勝宝6年(754年)には大宰少弐に昇任、翌々8年に新羅に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府
	で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌3年に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。その後、暦学が認められ、儀鳳暦に替え
	て大衍暦が採用された。
	天平宝字8年(764年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には、従三位に
	昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ(藤原仲麻呂の乱)、天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。
	翌2年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に
	昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執った。地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなった
	のも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
	宝亀元年(770年)、称徳天皇が崩じた際には妹の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立
	太子を実現した。
	『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に
	合ふ」と嘆息したという。ただし、この即位をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤
	伝あるいは作り話とする説が強い(河内祥輔、瀧浪貞子など)。光仁天皇即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇
	は兼職の中衛大将のみの解任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何
	も伝わっておらず、宝亀6年に薨去する。
	奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。職務の傍ら孔子をはじめとする儒教の
	聖人を祭る朝廷儀礼釈奠の整備にも当たった。著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがあるとされている。在唐中、
	書は張旭に学び、帰朝後、晋唐の書道を弘めた。古筆中に、虫喰切、南部の焼切が現存する。




	菅原道真 出典:ウィキペディア

	菅原 道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))
	は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
	忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平
	に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、
	天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
 
	喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、
	菅原院天満宮(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)
	説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫
	の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
 
	道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生(もんじょうせい)となった。貞観9年(867年)には文章生のう
	ち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規
	定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられた。翌年には玄蕃
	助、さらに少内記に遷任。貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)、式
	部少輔に任ぜられた。同年に家の職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)、従五位上に叙せられる。仁和2年(886年)、讃
	岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたこ
	とにより、事件を収める。寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。
 
	これまでは家格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を
	振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。寛平3年(891年)、蔵人頭
	に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大
	弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年
	(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。寛平7年(895年)には従三位権中納言に叙任。
	春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御とした。翌年、民部卿を兼任。寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉
	世親王の妃とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真に
	のみ官奏執奏の特権を許した。正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。またこの年には宇多天皇の元で太政官
	を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が薨去している。
 
	醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族
	の反撥が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改
	革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止
	足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位
	に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそ
	うとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、
	時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説あ
	る。
	道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)
	吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んで
	きたという「飛梅伝説」も有名である。





	以上、見てきたようにここは全くの「怨霊封じ」の為に立てられた神社である。桓武天皇は、弟の早良親王を初めとする身内を死に
	追いやったことで、終生その怨霊達から逃れられなかったという。日々、怨霊に怯えて暮らしていたと言うのだ。天皇もそうである
	から、一般大衆の中にも「怨霊思想」は深く根付いていたと言える。絶えず「怨霊」や「死霊」たちに囲まれて暮らしていたのだ。


	怨 霊 出典:ウィキペディア

	怨霊(おんりょう)とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。悪霊に分類され
	る。憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている。
	霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える。怨みや憎しみなどの感情があまり
	に激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える。
	戦死、事故死、自殺などの非業の死をとげた人の場合は、霊肉がともにそろった状態から、突然、肉体だけが滅びた状態になる、と
	される。したがって、その人の霊魂は行き所を失い、空中をさまよっていると考えた。これらの霊が浮遊霊である。平安時代の書物
	にさかんに現れる物の怪(もののけ)、中世の怨霊や御霊、近世の無縁仏や幽霊などは、いずれもこうした浮遊霊の一種とみること
	ができる。怨霊を主題とした講談や物語などがあり、こういったフィクションなどでは様々な設定で描写されることもある。
 	神霊においての怨念(おんねん)とは、祟りなどを及ぼすとされる「思念」を指す。
 
	日本においては、古くは平安時代の菅原道真や平将門、崇徳上皇などの歴史上の政争や争乱にまつわる祟りの伝承、時代が下った近
	世では江戸時代に「田宮家で実際に起こったとされる妻のお岩にまつわる一連の事件」としてまとめられた『四谷雑談集』を鶴屋南
	北(四世)が怪談として脚色した「東海道四谷怪談」などが挙げられる。
	また、近代に入っても、明治時代から第二次世界大戦終戦直後に東京で起きたとされる、大蔵省庁舎内およびその跡地における『首
	塚』移転などにまつわる数々の祟り」など、伝承されてきた怨霊に関する風聞が膾炙している。

	「江戸時代に至ってもなお、庶民は一般的に怨霊に対する畏怖感、恐怖感を抱いていた」という民俗学上の分析もある。上に挙げた
	死者の霊は両義的側面を持っていることが分かるが、怨霊と反対に祝い祀られているのが祖霊である。また民俗学と全く関係ないわ
	けでもないが哲学者の梅原猛は日本史を怨霊鎮めの観点から捉えた「怨霊史観」で著名である。
	インドの仏教では人は7日に1度ずつ7回の転生の機会があり、例外なく49日以内に全員が転生すると考えられているために霊魂と言
	う特定の概念がちがうが、日本では神仏習合のため、日本の仏教では霊を認める宗派もある。
 
	怨霊の神格化をいい、平安時代以前の怨霊とみられるものとしては、大和政権が征服を進める際に敵方の霊を弔ったという隼人塚が
	ある。いくつかの神社などにおいて、実在した歴史上の人物が、神として祀られている。日本三大怨霊とされる、

	 菅原道真は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)や北野天満宮(京都市上京区)
	 平将門は、 築土神社(東京都千代田区)や神田明神(東京都千代田区)
	 崇徳天皇は、白峰宮(香川県坂出市)や白峯神宮(京都市上京区)









2012年8月、集英社発行「ビッグコミック」の鼎談記事。



	以下の文章は歴史倶楽部の会報「風の中へ」に寄稿したものだが、久しぶりに「怨霊」について考えてみた。

	怨霊とは、その名の通り怨みを持った霊である。一般的に、人間の目には見えず、特定の人間や不特定の人間、或いは世の中(社会)
	全体に対して敵意や悪意を抱いているとされる。霊魂(れいこん)とは異なる。
	霊魂とは、一般に生物、特に人間が死んだのち、その肉体は滅んでも存在し続けている生命の源や精神そのものを言う。また場合によ
	っては生きている人間の霊魂を生霊(いきりょう)と呼んで、魂(たましい)がその肉体から抜け出したものや、その人間の意識が身
	体から離脱した状態などを言うこともある。
	三大宗教は、公式に「神」や「仏」の存在を認めているし、死後の世界や霊界、天国と地獄、輪廻転生(転生輪廻)の思想なども広く
	一般に知れ渡っている。しかし現代の科学では、そのようなものの存在が物理的に証明されているわけではない。

	私は死後の世界は信じないし、勿論霊魂の存在も信じられない。もう40年近く前、祖父と弟が相次いで死んだとき、私は霊魂の存在
	を信じたかった。幽霊でもいいから祖父や弟に会いたかった。しかし一晩中庭に立ちつくしていても、結局二人が現れる事はなかった。
	自分の目で見ていないからという訳ではないが、私にはそのようなものの存在は信じがたい。受けてきた自然科学の教育から判断して
	も、死後の人間の何かが、死後も他人や社会に対して何か作用するとは、私にはどうしても考えられないのである。「霊」とは、人や
	生物の、死生観の根源的な解釈のための概念に過ぎないと思う。しかし、それらの存在を信じている人々も多数存在し、現代でもごく
	身近な人々(家族や友人たち)にそういう人たちがいるのも事実である。現に、歴史倶楽部の栗本さんや錦織さんは幽霊を見たと言う
	し、今でも信じていると言っていた。

	人が死ぬと、魂が霊として肉体を離れるという考え方は全世界共通のようである。いつ頃から「霊魂」という概念が生まれたかははっ
	きりしないが、ネアンデルタール人については、死者を埋葬した時、花を供えた遺跡が幾つか知られているので、死者を敬う、或いは
	死者を慰めるという宗教的な儀式が行われたことははっきりしており、このときネアンデルタール人の頭には死者の「霊魂」という概
	念が存在していたのだとも考えられる。つまり、原初的な死生観を持っていた可能性がある。ホモ・エレクトス以前の猿人・古人類に
	は死者を埋葬した証拠は発見されていない。
	クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在がはっきりしており、食料や道具などの供
	物、墓の上に大石を置いたり、日本の縄文期に見られる屈葬のような、死体の手足を縛って埋葬するといった風習も出現して、原始的
	な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観念もより明確になっていたものと思われる。
	そうなると、死者の「霊魂」が人々に様々な災いを起こすという考えも、その頃から出現したと考えていいだろう。

	死者は手厚く葬らないと残った者に祟る、或いは、非業の死を遂げた者がその原因となった人物や社会に災いをもたらす、という考え
	方が生まれてきたのだ。太古にあっては、それは殆ど社会通念に近く、むしろ「太陽は東から昇る」のと同じくらい「当たり前のこと」
	として信じられていたと考えられる。奈良時代には、生霊として呪術が皇室や貴族の間で盛んに行われていたし、それらは民衆レベル
	にも発展していたと思われる。怨霊や御霊に対する考え方は特殊なものではなく、むしろ古代人は霊魂と共に暮らしていたと見るべき
	であろう。

	平安期になると、御霊信仰(ごりょうしんこう)というものが現れるようになる。御霊信仰とは、人々を脅かすような天災や疫病の発
	生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟
	りを免れ、平穏と安心を得ようとする信仰のことである。日本においては、平安時代の菅原道真や崇徳上皇の祟りや、江戸時代に「田
	宮家で実際に起こった、妻のお岩にまつわる一連の事件」を、四世鶴屋南北が怪談として脚色した「東海道四谷怪談」などが有名であ
	るが、これらは全て御霊信仰に基づくものである。前述したように、こういう考えは太古の時代に始まり、ついこの前まで日本には根
	強く浸透していたような気がするが、この1世紀で人々の意識は大きく変化したように思う。
	明治時代でさえ、東京の某・旧省庁内における「平将門の首塚移転」にかかわる数々の祟りは、不特定多数の人間が確認したとされる
	現象が起きており、祟りを恐れて「将門の首塚」は結局移転されずに残り、今も皇居脇に残っている。ちなみに、この「平将門の首塚」
	のある場所が、「東京都千代田区大手町1丁目1番地1号」なのである。

	また私のように、一見無神論、無宗教論者と思われるような人々でも、日本人は実は意識下で、或いは無意識にでもこの「御霊信仰」
	にはすでにどっぷりと浸っている。
	神社では手を合わせ、必要ならお布施を払って「交通祈願」や「七五三詣り」を行なって貰うが、これらの行為はすべて「除霊」であ
	る。怨霊が車にとりつかないように、我が子に取り憑いて将来を暗雲たるものにしないように、お金を払ってでも神社で徐霊してもら
	うのだ。また日本では、神仏習合が明治以来幅広く行われているため、仏教の僧侶・尼のなかにも、除霊などを収入源としている者も
	いる。



	[徐福国際シンポジウム]に参加して、<佐賀市内散策> 2008.10.12 朝 から転載。
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	ホテルで朝食をとった後、バスの出発までだいぶ時間があったので、佐賀市内の歴史散策にでた。今日のシンポジウムの会場は
	吉野ヶ里遺跡なので、そこまでバスが運んでくれるのである。ホテルで貰った佐賀市内案内図によれば一時間も歩けば一回りで
	きそうだった。
	この日、私は不思議な体験をした。私は無神論者だが、この日の体験は「魂」の存在を肯定せざるを得ないような出来事だった。
	それとも、あれは「生き霊」のなせるわざだったのだろうか。


			(HP省略)


	冒頭に記した「不思議な体験」というのはここからである。

	佐賀城の近くに「佐賀西高校」がある。私の大学の先輩でワンゲルの先輩でもあったKさんはここの卒業生で、私とは仲が良かっ
	た。私が帰省した折には連絡してよく呑んでいた。そのKさんが喉頭癌で入院しているのを知ったのは前回帰郷した時だった。た
	しか七月だったと思うが、その時は大阪へ帰る寸前だったので見舞いにも行けなかったし、その話を聞かせてくれた別の先輩が、
	「今はシンドそうだから、もっと落ち着いてから見舞いに行ったほうがいいぞ。」と言うのでじゃそうするかと、その時は帰阪し
	たのだった。今回時間があればと思っていたが、ここへ来るまでそのことはすっかり忘れていた。

	佐賀西高の前に来たときKさんを思い出して、「あぁそうやKさんもここの卒業生やったな。」と思ったその瞬間だった。「井上」
	と後ろから声がしたのである。思わず振り返ったが勿論だれもいない。その時はKさんの事を考えたのでそれが私の精神に作用し
	て私は空耳を聞いたのだなと思って、急ぎ足でホテルへ戻ったのだった。

	Kさんは、私が声を聞いた殆ど同じその時間に、福岡市の病院で息を引き取っていたのである。

	その事を私が聞いたのは、このイベントが終わって大阪へ戻ってきたその日である。今回も時間が無くて見舞いに行けなかったし、
	まさかそんなに悪いとは思わなかったので、次回は見舞いを優先順位一位にして帰省するかくらいに考えて大阪へ戻ってきたのだ。
	戻ってきた日に、また別の先輩でKさんとは同期の先輩から連絡があった。話を聞くとまさに私がここにいた同時刻くらいに亡く
	なっていたのである。「えぇーつ、その日その時間に、わし佐賀西高の前におったんでっせ。おまけにKさんの声聞いたし。」と
	その先輩に言うと、「そりゃKが呼んだんやな。」

	私は無神論者である。私は死後の世界は信じないし、勿論霊魂の存在も信じられない。もう40年近く前、祖父と弟が相次いで死
	んだとき、私は霊魂の存在を信じたかった。幽霊でもいいから祖父や弟に会いたかった。しかし一晩中庭に立ちつくしていても、
	結局二人が現れる事はなかった。
	自分の目で見ていないからという訳ではないが、私にはそのようなものの存在は信じがたい。受けてきた自然科学の教育から判断
	しても、死後の人間の何かが、死後も他人や社会に対して何か作用するとは、私にはどうしても考えられないのである。「霊」と
	は、人や生物の、死生観の根源的な解釈のための概念に過ぎないと思う。

	しかしこの日のあのKさんの声はどう考えたらいいのだろう。死に往く寸前のエネルギーが母校の前に現れ、そこに居た私を呼び
	とめたのだろうか。死後の霊魂が母校へ飛んできたとはとても考えられない。死ぬ寸前のエネルギーが何かした可能性はある。
	生きている人間の持つエネルギーは、霊魂に比べればまだ信じられる。生体は、生きている故にまだ世の中に作用する力を持って
	いる可能性がある。いわゆる「生き霊」と呼ばれるエネルギーである。私自身はそういう経験をしたことはないが、生きている人
	間なら、何か社会に及ぼす影響力を持っているのかもしれない。上田秋成の「菊下の契り」なども、腹を切って死に絶えるまでの
	間なら千里を駆けることも出来そうな気がする。Kさんも死の直前に母校を訪れたのかもしれない。




 
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/183回例会・冬の洛北をゆく