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歴史倶楽部 第183回例会 冬の洛北をゆく 阿弥陀寺・織田信長本廟 2013年1月27日(日) 京都市北区









	阿弥陀寺(上の説明板)

	 蓮台山と号する浄土宗の寺院で、本尊は丈六の阿弥陀如来である。当寺は天文年間(1532〜1554)、清玉上人の開創になり、
	当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方の境内と塔頭11ケ寺を構えていた。また当時、正親町天皇は清玉
	上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、当寺を勅願所とされた。
	 清玉上人は織田家と深い親交があり、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の折、本能寺等にかけつけ、織田信長、信忠
	父子及び家臣百有余名の遺骸を当寺に埋葬したといわれる。
	 本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には信長、信忠や本能寺の変討死衆の墓、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等が
	ある。京都四十八願寺巡拝の16番札所でもある当寺は、天正15年(1587年)、蓮台野からこの地に移され、現在に至っている。

														京都市 



	阿弥陀寺は、もともと戦国時代の1555年に清玉上人が、現在の大津市に創建したのが始まりだという。織田信長の帰依を得て、現在の
	今出川大宮東に広大な敷地を得て移築したそうで、その後、正親町天皇や織田信長臣下らの多くの武将の援助で伽藍が建てられていっ
	た。上左は俳人蝶夢の句碑。

	蝶夢  出典:ウィキペディア

	蝶夢(ちょうむ、享保17年(1732年)- 寛政7年12月24日(1796年2月2日))は、江戸時代中期の時宗の僧・俳人。名は九蔵。号を洛
	東・五升庵・泊庵と称した。京都の出身。
	京都法国寺(時宗)に入り、其阿(きあ)に師事して9歳で得度。13歳で俳諧を志し、初めは宗屋(そうおく)の門下であった。
	1757年(宝暦9年)、敦賀に赴いたのをきっかけとして、支麦の系統の地方俳諧に接し、都市風の俳諧から地方風の俳諧に転じた。俳
	人で行脚僧の既白や加賀国出身の二柳・麦水などと交流し、蕉風俳諧の復興を志した。
	芭蕉70回忌法要に大津馬場の義仲寺(芭蕉墓所)を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。35歳のとき法嗣某に帰白院を譲り、洛東岡崎
	に草庵「五升庵」を結ぶ。そして義仲寺翁堂などを再建し、1793年に芭蕉100回忌を盛大に成し遂げた。
	また松尾芭蕉の遺作を研究し刊行した『芭蕉翁発句集』『芭蕉翁文集』『芭蕉翁俳諧集』の三部作は、はじめて芭蕉の著作を集成した
	ものである。『芭蕉翁絵詞伝』は本格的な芭蕉伝として有名。ほかにもたくさんの著作を出版した。俳書を収めるために義仲寺に設け
	た粟津文庫も蝶夢和尚の功績である。
	宝暦年間(1751年−1763年)、阿弥陀寺(浄土宗)帰白院の住職となる。




	天正10年6月2日、信長は本能寺で割腹した。その際「死骸を決して光秀に渡さないように」と遺言したと言われ、骨を阿弥陀寺の清玉
	上人(せいぎょくしょうにん)がこの寺へ密かに持ち帰り、弔ったと言われる。暫くしてここで葬儀を行った為、阿弥陀寺が信長の菩
	提所となった。
	その後、秀吉は三度使いを出し、三百石を法事料として清玉上人に渡したが断られ、秀吉は憤り、大徳寺境内の総見院(信長の法名)
	に信長の菩提寺を造り、法事を行った。円山公園近くの大雲院は、信長の子信忠の法名をとり、正親町天皇勅命で造られ、信長・信忠
	親子が弔われている。京都以外にも何箇所か菩提寺があるが、阿弥陀寺が由緒正しい墓所との事である。1917年に宮内庁が調査して、
	ここ阿弥陀寺が正統な墓だと確認し、勅使も派遣されてきたそうだ。
 



	本能寺の変の翌年、豊臣秀吉が自分を喪主として一周忌法要を行なうよう清玉上人に命じたが、清玉上人はこれを断固として断ったと
	言う。秀吉は怒り、阿弥陀寺での法事は禁じ、大徳寺に総見院を建て1週間にわたって盛大な一周忌法要を行った。さらに、1587年に
	秀吉は、京都の寺を寺町通に集めさせ、本能寺も現在の地に移したが、元の広さの1/8に縮小されてしまった。その本能寺にも信長
	の墓標や森蘭丸の墓がある。








墓地には、織田信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討死した約120人の墓もある。



これが信長と信忠の墓標である



 
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