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歴史倶楽部 第183回例会 冬の洛北をゆく 糺の森 2013年1月27日(日) 京都市北区









	糺の森	出典:ウィキペディア

	糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)は、京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。賀茂川と高野川
	の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)
	に国の史跡として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。
 	糺の森は下鴨神社の境内に広がる原生林である。かつて京都に平安京が置かれた時代には約 495万平方メートルの広さがあったが、応
	仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少した。
	特に1470年(文明2年)6月14日に応仁の乱の兵火を被った糺の森は、このとき総面積の7割を焼失している。
 
	糺の森はこの一帯が山城国(山代国・山背国)と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林であり、ケヤキやエノキなどニ
	レ科の落葉樹を中心に、約40種・4700本の樹木が生育している。森は賀茂川と高野川に挟まれるように広がり、南北に細長い。林床を
	縫ってこれらの川に注ぐ数本の清流があり、周辺には水辺を好む植物も茂る。古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われ、今なお親林
	の場として人々に憩いを提供する史跡である。
 
	森を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。御手洗川は湧水のある御手洗池
	を水源としている。糺の森の東側を流れる泉川は高野川の支流である。奈良の小川は御手洗川に泉川の流れの一部が合流したもので、
	賀茂川の支流である瀬見の小川に取り込まれて糺の森の中央を流れる。
 
	「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については諸説ある。「偽りを糺す」の意とするほか、賀茂川と高野川の合流点
	であることに起因して「只洲」とする説、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するという説などの各説があ
	る。他に、木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)にある「元糺の池」、およびその周辺の「元糺の森」から遷された名前であるという意見も
	ある。




	<祭事>	出典:ウィキペディア

	下鴨神社では、上賀茂神社とともに執り行われる例祭「葵祭」など様々な祭事が催される。その中で特に糺の森が祭事場となるような、
	関わりの深い祭事について記す。
	これらの伝統行事以外にも、糺の森では納涼古本まつり(8月)などが開催されている。流鏑馬神事(やぶさめしんじ) 葵祭の祭事に
	先立ち、前儀として毎年5月3日に行われる神事。続く祭事の場となる下鴨神社の境内、糺の森を祓い清めるための神事とされる。狩装
	束姿の射手が3つの的を鏑矢で射抜く。明治時代以後しばらく中断していたが、1973年(昭和48年)より再び執り行われるようになっ
	た。 

	御蔭祭(みかげまつり) 
	葵祭の祭事に先立ち、前儀として毎年 5月12日に行われる祭。古くは御生神事(みあれしんじ)と呼ばれていたが、江戸時代中期に現
	在の呼称が定着した。祭列は下鴨神社を発して境外摂社の御蔭神社に至り、再び下鴨神社に戻ってくるが、その際に切芝神事として糺
	の森にて東游の舞が奉納される。 

	葵祭
	賀茂祭とも呼ばれる。毎年5月15日に執り行われる祭事。詳細は葵祭を参照。

	御手洗祭(みたらしまつり) 
	土用の丑の日頃に数日間開催される祭。御手洗池の湧水に足を浸して健康を祈願する行事(足付け神事)がある。 夏越神事(なごしし
	んじ) 立秋前に行われる神事。御手洗池に斎竹(いみだけ)と斎矢(いみや)を立て、氏子らが50本の斎矢を一斉に争奪する。矢取神
	事とも呼ばれている。 




	糺の森へ入る手前の「葵公園」という小さな広場の中に上の銅像があった。一時「目玉の松ちゃん」として一世を風靡した「尾上松之
	助」という時代劇俳優の銅像だ。尾上という名前から歌舞伎出身だと分かるが、そういえば現在の歌舞伎役者の何人かに似ているよう
	な気がする。今度「市川中車」を襲名した、前猿之助の息子である香川照之にそっくりじゃない? 今度の猿之助にも似ているような
	気が。我が歴史倶楽部の「松ちゃん」にも似ているような。碑文の書き手は共産党支配下の知事「蜷川虎三」だ。

	尾上松之助

	尾上 松之助(おのえ まつのすけ)。本名中村 鶴三(なかむら かくぞう)。生年月日1875年9月12日、没年月日1926年9月11日(満50
	歳没)。
	尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年(明治9年)9月12日 - 1926年(大正15年)9月11日)は明治時代から大正時代にかけての日
	本の映画俳優、日本最初の映画スター、監督である。岡山県岡山市北区西中島町に、岡山県士族の子として生まれた。
	幼少より芝居が好きで6歳の時、上方歌舞伎の大立者・2代目尾上多見蔵の後援を受け実家近くの旭座で初舞台を踏む(この頃の芸名は
	尾上多雀ないし多見雀)。18歳の頃、尾上鶴三郎あるいは三升源五郎の名で芝居一座の座長として中国地方や四国地方を巡業した。
	1902年(明治35年)に行われた九州巡業の時、2代目尾上松之助を襲名した。
	1904年(明治37年)に岡山県笠岡での公演中、京都市上京区で千本座の座主を務める牧野省三と出会い映画進出を勧められた。牧野は
	松之助のきびきびした演技やケレンの巧さに目をつけ、映画出演を持ちかけた。1909年(明治42年)、横田商会制作・牧野監督の『碁
	盤忠信』(ごばんただのぶ)に主演し映画デビューを果たした。目を見開き見得を切る演技で「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた。
	生涯に横田商会(のち合併により日活)が制作した1,000本以上の時代劇映画に出演した。日本映画草創期に活躍した邦画第1号の映画
	大スターであった。
	また俳優業の傍ら制作、監督も務めた。慈善事業も行い、貧しい人たちのためにポケットマネーで長屋を京都市内に建てた。
	松之助は晩年日活の重役となるが、歌舞伎の英雄豪傑を舞台そのままに演じた古風な映画づくりはアメリカからの本格的な活劇やその
	影響を受けた阪東妻三郎の映画などに押されはじめた。1925年(大正14年)の主演1000本記念大作の『荒木又右衛門』はそのような状
	況で製作され、従来の歌舞伎調の立ちまわりを脱しリアルな殺陣を演じ大ヒットして気を吐いた。
	1926年(大正 15年)、『侠骨三日月』の撮影中に倒れ9月11日、心臓病のため死去。享年52。京都市内で行われた葬儀は京都府知事を
	はじめ参列者5万人、葬列の沿道は20万人にも及ぶ市民で埋め尽くされたと当時の記録に残されている。大衆に映画を新しい娯楽とし
	て根付かせた功績はあまりにも大きい。墓所は北区等寺院。






	糺の森の入り口に「河合神社」がある。

	下鴨神社摂社 河合神社(かわいじんじゃ)

	祭 神: 玉依姫命(神武天皇の御母神)
	神 徳: 安産・育児・縁結び・学業・延命長寿の守護神

	糺の森の中、「瀬見の小川」の西側にあるのが玉依姫命を祀る下鴨神社摂社の河合神社である。正式名称は鴨河合坐小社宅(かものかわ
	いにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったという。
	秦氏が祀っていたが、賀茂氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたとの伝承がある。元はここより少し南の賀茂川と高野川が合流する只
	洲(ただす)河原に祀られたことから河合神社という。
	鎮座の年代は不詳だが神武天皇の御代からあまり遠くない時代と伝えられていて、「延喜式」には「鴨河合坐小社宅神社」とある。
	「鴨河合」とはこの神社の鎮座地をいい、「小社宅(こそべ)」は「日本書紀」に「社戸」としるされ、本宮(下鴨神社)の祭神と同系
	統の神という意味であるという。
	明治10年(1887)賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社に列せられた。現在の社殿は、延宝7年(1679)式年遷宮により造営された古殿を修
	理建造したもので、賀茂御祖神社の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。境内には「方丈記」の著した鴨長明の資料館と、長明が考
	案した「方丈の庵」とがある。
 







	石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ  −鴨長明『新古今和歌集』
	出典:ウィキペディア

	下鴨神社の歌合の場にて、下鴨神社の祀官であった鴨長明が瀬見の小川の水鏡に映る月光の美しさを詠んだ歌。この歌を詠んだ長明で
	あるが、賀茂川(の支流)が瀬見の小川と呼ばれる事を他の参加者が知らなかったために、歌合の場では負けを喫した。後に長明は賀
	茂社の縁起にその旨の記述がある事を公にし、神社の秘事を軽々しく開示するとは何事か、という賀茂社の神職たちの批判を浴びなが
	らも、自歌が正しかったことを主張した。この短歌は人々の人気を博し、後に撰された『新古今和歌集』に収録されるに至っている。




	上が「方丈の庵」。解説によるとこの住まいは組み立て式で、あっちこっち移動できるように造られている。鴨長明は後年、各地を転
	々としてこの庵で生活したのだ。ここで方丈記を書いたわけでは無い。屋根には昨日降った雪がうっすらと残っている。見るからに寒
	そうな庵である。




	「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
	 世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかを・・・・・・・」

	鴨長明(かものちょうめい)は晩年、京の郊外・日野山(京都市伏見区日野町)に一丈四方(方丈)の狭い庵を結び隠棲した。彼が庵
	内から当時の世間を観察し、書き記した記録であることから「方丈記」と自ら名づけたのが、有名な鎌倉時代の随筆「方丈記」である。
	日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれる。








	境内に任部社(とうべのやしろ)があり、八咫烏命(やたからすのみこと)を祀っている。八咫烏とは熊野の大神「素盞嗚尊(すさのお
	のみこと)」の家来。八咫烏の「八咫」は大きく広いという意味。八咫烏は太陽の化身で三本の足があり、天・地・人を顕すと言われて
	いる。天とは天神地祇のこと。地とは大地のことで自然環境を指す。つまり太陽の下に神様と自然と人が血を分けた兄弟であるというこ
	とを示している。また、蹴鞠の祖神とされることから日本サッカー協会のシンボルとなっている。
	また、八咫烏(ヤタガラス)は、日向の高千穂の宮にいた神武天皇(カムヤマトイワレビコ)は兄とともに東方に都を造ろうと瀬戸内海
	を渡り、難波から淀川を遡り大和へ向かうが、大和の豪族の迎撃にあい撤退。やむなく迂回して熊野から北上して大和へ向かう。このと
	き天から遣わされた八咫烏(ヤタガラス)の道案内により山中を行軍したと『古事記』や『日本書紀』に書かれていて、熊野の神々の使
	いとされる。








	河合神社を出て糺の森を下鴨神社めざして歩き出す。私は糺の森には二十代の頃から、もう何十回か来た。ここは京都のデートスポット
	としてピッタリなのだ。何がピッタリかと言うと、@.若い女の子は結構神社が好き、A.下鴨神社は縁結び、B.映画のロケに出くわ
	す。今までに何回かここで時代劇のロケを見た。緒形拳、片平なぎさ、柴俊夫(真野響子の旦那)に会った(見た)事がある。私がよく
	見る時代劇の「剣客商売」「御家人斬九郎」などはよくここでロケをしていた。「御家人斬九郎」のちゃんばら場面などは、殆どこの糺
	の森でロケをしていて、私はTVを見ていて、糺の森のどこの場所かほぼ分かる。





上の窪んだ「池の跡」は、よくちゃんばら場面に登場する。斬られた奴らが池の底では無くて、上まで這い上がって死ぬのは笑える。




	復元・公開された祭祀遺構 	出典:ウィキペディア

	糺の森では1990年(平成2年)度から奈良の小川・瀬見の小川の整備事業が行われ、それに伴い遺構の発掘調査がなされた。翌1991年
	(平成3年)度に京都府と京都市の合同による予備的な発掘調査が行われ、表参道北端付近、奈良殿橋周辺にて平安時代のものと思わ
	れる流路跡が確認された。これを踏まえて2000年(平成12年)度より、京都市埋蔵文化財研究所を中心とした調査グループによって流
	路跡の発掘作業が行われた。

	調査の結果、発掘された水路は幅約3m、長さは東西方向におよそ32mであった。深さは 40cmから70cm で、溝内にはおおよそ平安時代、
	鎌倉時代、近代(明治時代以後)の三時代にわたる堆積物が累層していた。この水路は糺の森の東側を縦走する泉川から分岐する形で
	あったと推測されているが、流路の東西の勾配は非常に小さく、かなり穏やかな流れであった事が示唆された。この水路の南側からは
	石敷遺構も発掘されており、周辺では何らかの神事が行われていたと考えられている。この水路と石敷遺構の発掘作業は平成 14年2月
	まで行われた。作業終了後には周辺にニレ科の植物が植栽され、植生の回復が図られた。

	2005年(平成17年)の2月から3月にかけ、さらに石敷遺構を復元するための整備作業が行われたところ、その上に礫をほとんど含まな
	い盛土によって形成された祭壇跡が検出された。この遺構は南北に約9m、東西は約6m、盛り土の高さは10cmから20cmほどであった。
	祭壇上には7ヶ所の祭祀跡があり、石で形成されたものと、土器や貨幣によって形成されたものとがあった。祭祀跡は前者の方が多く、
	いずれも平安時代前後のものであると推測された。一方後者は江戸時代のものと考えられた。これらの祭祀遺構は2008年(平成20年)
	に復元が完了し、一般公開されている。また縄文時代の土器も発掘され、その復元土器が現在‘鴨のくぼて’として下鴨神社の神事に
	使用されている。
 










石敷き遺構



祭壇





「旧奈良の小川」の復元


	「糺の森を詠んだ歌など」	出典:ウィキペディア
	糺の森は古くより人々に親しまれ、多くの古典に名を残している。その一部を掲載する。


	憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ名をば糺の神にまかせて  −紫式部『源氏物語』(十二帖「須磨」)
	作中、光源氏がしがらみ多く辛い世の中(都)を離れて須磨へと下る。都に残す自分の名、人の噂のなりゆきは糺の神に委ねよう、と
	下鴨の神を拝して詠んだ歌。また『源氏物語』には九帖「葵」があるが、この巻名は光源氏の正妻である葵の上とともに、物語の舞台
	となる葵祭を受けた名称でもある。

	いかにしていかに知らまし偽りを空に糺の神なかりせば  −中宮定子『枕草子』
	糺の神がおわすのでなければ、どうしてあなたの偽りを知ることができようか、の意。
 
	人知れず心糺の神ならば思ふ心を空に知らむ	  −小野篁『新古今和歌集』

	十月に賀茂にまうでたりしに、ほかのもみぢはみな散りたるに、中の御社のが、まだ散らでありしに −赤染衛門『赤染衛門集』
	10月の頃に下鴨神社に詣でたところ、京都の他の場所の紅葉はすでに散ってしまっていたが、糺の森の紅葉はまだ残っていた、という
	糺の森の遅い紅葉を詠んだ歌。歌集の成立年は定かでないが、1044年(寛徳元年) - 1053年(天喜元年)頃といわれる。
 





		君がため今日のみそぎに泉河万代すめと祈りつるかな   −藤原俊成『新続古今和歌集』
 
		風そよぐ楢の小川の夕暮れは御禊ぞ夏のしるしなりける  −藤原家隆『新勅撰和歌集』
 
		奈良の小川で行われる夏越の祓を詠んだ歌。『小倉百人一首』にも選ばれている。



 
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/183回例会・冬の洛北をゆく