Music: ワイキキ


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	「弥生人の船」展をみて、池上曽根遺跡・曾禰神社へ
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	各位

	今日の「みゆき会」で9月末の例会は「弥生人の船」展を観に行こうということになりました。 
	190回例会は9月29日日曜日と致します。河内さんも日曜日でいいとのことです。今回はあまり廻るところもありませんので、29日
	午後二時に「弥生文化博物館」前に集合と言う事にしたいと思います。見学後池上曽根遺跡とその背後の神社を二つみたいと思い
	ます。曽祢神社の概要は以下の通りです。参加者はプリントして持ってきてください。
	その後難波へ出て、赤垣屋あたりで反省会と言う事に。郭公さん、あすなろさんと午後二時に博物館前であいましょう。
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私は一本遅れの電車だったのだが、まだ河内さんが来ていないのでJR信太山駅で河内さん待ちのみなさん。



駅に貼ってあった「和泉市観光マップ」是では見にくいが、博物館に行けば大きい綺麗なものを貰えます。



参りました、河内でござんす。ご一統さんお待たせ。



本日のオールキャストと言いたいが、郭公さんとあすなろさん(郭公さん友人)が既に入館して待ってます。
本日の例会は、久々の10名超となりました。あすなろさんも入れれば11名。ほぼ1年ぶりくらいですかね。



	
	古代史を学ぶ人は、絶対古代の船には興味がある。まして我々の倶楽部のテーゼは「日本人はどこから来たか?」だから、興味が
	無いわけが無い。船については私も「科学する邪馬台国」の中で「古代の船と航海ルート」として別途取り上げている。古代船の
	概要については是非そちらをご覧頂きたい。

	古代の船が果たしていつ頃からあったのかについては定かでは無い。縄文時代の船は何点か出土しているが、それ以前、旧石器時
	代にも船があったのかという質門については、否定的な意見の方が多いようである。船を作る道具である石器の出土品を見ても、
	木を刳り貫くような石器は出土していない。しかし、だからといって船が無かったとは言えないだろう。

	原初的な船はイカダと丸木舟である。日本では、イカダの素材は材木だが、外国ではパピルス、アシ、皮袋、そして材木などであ
	った。それら素材はほとんど加工されることなく、イカダとして組み立てられ用いられた事だろう。イカダは極めて原初的な船と
	いえる。それに対して丸木舟は、材木の選定にはじまり、その切り出し、そしていくつかの工具を用いた加工という、それなりの
	製造過程を経て建造される。縄文時代に出現する丸木舟は、原初的な船ながら簡単なイカダに比べれば発達した船といえる。

	しかし、それとて湖や内海などの穏やかな水の上では使用に耐えうるが、外海や、まして航海となれば、木製の構造船、準構造船
	の登場を待たねばならない。弥生時代の船は、その多くが今日会場で見るような準構造船の形態を持っていたことを考えると、航
	海に用いられた船の登場は正しく弥生時代と言えるのである。

	だが今日の展示はだいぶ期待外れであった。広く日本中から弥生時代の船が集まっているのかと思いきや、埴輪や船材や、土器や
	材木に描かれた船の絵ばかりで、パネル表示も「では実際に弥生時代の船はどんなんやったんや!」という問の回答にはなってい
	なかったように思う。船の出土数から言っても、結局の所「弥生時代の船」については、現在でもよく分かっていないと言うとこ
	ろが正解かもしれない。外洋船は朽ちやすいので、日本のように国土の全部が海に面している国では考古資料として残らないのか
	も知れないが、本格的な「弥生時代の船」が早く出土する事を祈りたい。




会場入り口にデーンと、大阪府八尾市久宝寺遺跡から出た準構造船のレプリカが置いてある。だがこれも古墳時代の船だと思う。



古墳時代には馬を運んできているから、絶対に準構造船若しくは構造船があったはずなのだ。



早く来たあすなろさんが頼んでくれていたおかげで、学芸員のお姉さんから話を聞く事ができた。



だがその説明でも、「弥生の船」が果たしてどういうものであったかについては、答えは無いのである。



	
	徐福伝説は秦の話なので、「史記」を信じれば、弥生以前に人々を運んできた船があったはずだ。しかも3千人が秦から脱出して
	いるので、相当大きな船か、或いは相当数の船舶で中国大陸を後にしたはずである。仮に50人乗りの船だとしても60艘は必要
	だ。10人乗りなら300艘も要ることになるが、そんな数を始皇帝が許すとも思えないので、やはり50人乗りくらいはあった
	のでは無いかという推測が成り立つ。徐福群団は済州島に流れ着き、朝鮮に流れ着き、そして日本列島の各地へバラバラにたどり
	ついたのでは無かろうか。日本各地に徐福伝説が残っているのは、恐らく徐福群団の船の一部が実際に流れ着いたのだろうと思う。

	ではその船は、こん日どうして発見されないのだろうか。50人が乗ったとなれば少なくとも準構造船で、だいぶ大きかったはず
	である。その残骸がどうして無いのであろうか。考えられる理由は幾つかある。

	(1).海の底に沈んでしまった、或いは流されて遠くで沈んだ。
	(2),何年かはそのまま使われ、朽ちると次の時代の船舶の材料に使われた。
	(3).解体され、木造物(建物等)の材料に使われた。
	(4).当時の海岸線のどこかにいくつかは埋まっている。

	(1)と(4)の場合は今後出現する可能性はあるが、(2)と(3)の場合はもう出現する可能性はない。



我々としては,今後どこかで発見されるのを祈るしか無いが、出てこない確率も高い。

































































































































































クリックで拡大します。



	上左の竹籤(たけひご)で編んだようなものは海図である。島の位置には小さな貝殻が付いている。海流の動きや潮の状態が表現
	してあるそうだが、実際に航海に持って行ったのではなく教育用と説明にあった。こんなもんでなぁと思ってしまう。恐れ入る。






この墨壺は日本の大工も相当昔から使っている。これも南洋からの伝播なのだろうか。











常設展から








この日は何とかコンサートをやっていた。展示品を見ているのは我々だけで、一階も二階もコンサートの聴衆で一杯だった。



池上曽根遺跡






池上曽根遺跡にも博物館にも初めて来たという人が二三人居たので、遺跡巡りをしてゆく事にする。









「こんな凄い家に住んどったん?」と橋爪くん。「アホな。こりゃ集会場か神殿とかやで」「そやろなぁー」



「それにしたって、ほんまにこんなん建てとったんやろか?」「う、うーん、柱の穴から想像しとるんですけどねぇ」





上は、屋根に土を被せた貯蔵庫のようなもの。住居では無い。




	
	曾禰神社 大阪府泉大津市曽祢町1丁目 祭神−−饒速日命・伊香我色雄命他5柱

	延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 曽祢神社』とある式内社。

	※由緒
	  社頭に掲げる案内によれば、
	  ・創建は天武天皇4年(675)−−神社明細帳(1952)
	  ・神位は従四位上、社格・村社−−国内神名帳   とあるが、その根拠となる出典史料など不詳。

	大阪府誌(1903)には、
	 「式内の古社にして伊香我色雄命を祭る。姓氏禄に見ゆる和泉国神別曽祢連は命の後なるを以て思へば、或いは同連等の其の祖を
	 祀りしものならん」とある。地名などからみて、当地付近に居住していた曽祢氏が氏神社として祖神を祀ったのが始まりであろう。

	 曽祢連とは、新撰姓氏禄(815)に「和泉国神別(天神) 曽祢連  神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」とある物部氏系の
	 氏族。

	※祭神
	  社頭に掲げる案内によれば、祭神は
	   饒速日命(ニギハヤヒ)・伊香我色雄命(イカガシコオ)・素盞鳴命(スサノヲ・祇園の神)表筒男命(ウワツツノオ)・中筒男
	  命・底筒男命・息長帯姫命(オキナガタラシヒメ)−−(住吉四神)とあるが、延喜式には一座とあることからみると、本来の祭
	   神はイカガシコオと思われ、
	  ・大阪府誌(1903)−−イカガシコオ一座・・・ニギハヤヒ・スサノヲ・住吉四神は後になっての配祀
	  ・大阪府全志(1922)−−ニギハヤヒ・イカガシコオ二座・・・スサノヲ・住吉四神は後になっての配祀
	  という(大意)。ただ、ニギハヤヒ・イカガシコオはいずれも物部氏の祖神であり、当社が物部氏系の曽祢氏の奉斎とすれば、創
	  建時からこの両神を祀っていたともとれる。

	  スサノヲ以下について、江戸時代の古書・泉州志(1700)には「曽祢氏祖神饒速日命也。今天神と称す。後、住吉祇園を合せ祭る」
	  とあり、既に江戸時代からスサノヲ及び住吉四神を祀っていたらしい。なお、スサノヲとは明治の神仏分離以降の呼称であって、
	  江戸時代までは牛頭天王(ゴズテンノウ・防疫神)であったと思われる。

	◎合祀社
	 明治末期の神社統廃合によって、近傍各地から次の7社が合祀されている。
	・日吉神社(大山咋神、森町)
	・管原神社(管原道真、南曽祢町・千原町)
	・白山神社(白山姫命、北曽祢町)
	・二田国津神社(天足彦神・二田物部神・管原道真、二田町)
	・池上神社(管原道真、池上町)
	・上泉神社(管原道真、池上町)

	※社殿等
	 南北する道路の角に“式内 曽祢神社”の石標あり。民家に挟まれた参道先に一の鳥居が立つ。境内に入ると、右手に二の鳥居が立
	 ち、その奥に拝殿・本殿が北東を向いて建っている。
	・本殿−−流造(間口1.73・奥行1.5間)・銅板葺
	・拝殿−−正面に千鳥破風・唐破風をもつ入母屋造・瓦葺境内のはずれに、末社・白山神社があるのみで、他に祠等見えず。



近所の人達が「だんじり祭り」の開始バーベキュー(?)をやっていた。焼き肉の匂いがたまらん。









何故にここに物部氏の神社があるのか?北九州から来た物部氏がここに拠点を築いたのか?古代史は謎だらけです。

























池上曽根遺跡全景。クリックで大きくなります。





なんばへ出たが赤垣屋は満杯だったので、客引きのあんちゃんに誘われて入った店。最初はなにか怪しげでみんな心配していたが、



2500円で7,8品という条件で入った店だったが、まぁまぁだった。でも店の子は可愛い子が多かった。



最初から我々に付いてくれた「りほちゃん」。○○外大の学生バイト、可愛いですねぇ。




特別付録














次回例会案内





			日 時 : 10月27日
			集 合 : PM1:30 JR「信太山駅」改札前

			11月2日の松木武彦氏の講演を聞きに行こうかと思いましたが、朝一番で整理券を貰いに並ばねばならず、
			あのややこしさは一度経験しており、非常に煩わしいです。松木武彦氏はユニークな視点で歴史を説く人
			なので面白そうですが今回は断念します。講演会へ行きたい方はご連絡ください。有志で参加しましょう。


邪馬台国大研究/歴史倶楽部/190回例会・弥生時代の船展