Music: 烟が目に染みる

歴史倶楽部 第166回例会 6月5日
太田神社



	西国街道を降ってゆくと、小さな公園の前を右に折れる道がある。左は太田廃寺(今回はパス)。曲がり角に多きな石灯籠が
	あって、しばらく住宅街が続いている。



アルプスの少女は左側。(ハイジと言いたいらしい。歴史倶楽部ではこういう駄洒落は相手にされません。)



継体天皇陵の西隣にある。集落奥の竹林の中に鳥居が見えてくる。茨木市太田(おおだ)三丁目である。




	太田神社 (茨木市)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆

	【延喜式神名帳】太田神社  鍬靱 摂津国 島下郡鎮座 
	【現社名】太田神社 
	【住所】大阪府茨木市太田3-15-1 	阪急茨木市駅からバス「太田三丁目 」伝継体天皇陵西
	【祭神】素盞嗚尊 天照皇大神 豊受皇大神 (配祀)少彦名命 	主祭神 : 天照皇大神
	【例祭】12月10日 例祭 
	【社格】延喜式内社、旧村社 
	【由緒】明治5年(1872)村社
        貞観元年(859)正月27日正六位上から從五位下に進階『三代実録』
        貞観8年8月14日正六位上から從五位下
        貞観18年閏4月7日從五位上に進階
	【関係氏族】中臣大田連 
	【祭祀対象】氏祖 
	【祭祀】江戸時代は「太神宮」と称していた 
	【社殿】本殿流造  拝殿・手水舎 
	【境内社】天神社・稻荷神社 

	太田神社(おおたじんじゃ)は大阪府茨木市にある神社で、嶋下郡の式内社。延喜式巻第9に「太田神社鍬・靫」と記された式内社で、
	祈念祭には皇室から鍬や靫が奉献されていた由緒ある神社であるが、その後の来歴は全く不明。新撰姓氏録の第18巻に、中臣太田連の
	氏が記載されており、当初は太田連の先祖である天児屋根命を祭っていたと思われる。明治5年(1872年)には村社となり、昭和20年
	(1945年)に社格を失っている。




	太田神社というのは全国にある。「太田」「大田」という地名の場所にある神社はたいていが「太田神社」である。北海道から沖縄
	までの、日本中の全ての県に「太田神社」は存在している。「太田八坂神社」というように「太田・・神社」まで含むと、その数は
	おそらく「八幡神社」を越えていると思われる。東京都大田区にある太田神社は、かって分社が羽田飛行場にあって、事故で逝った
	御魂を鎮魂していたが奇怪な事件が相次いで、飛行場からは取り払われたという。また北海道最古の山岳霊場も「太田神社」といい、
	航海の安全と霊神の加護として信仰される道南五大霊場のひとつでもある。




	「播磨国風土記」に、飾磨の郡大田の里についての記述がある。

	「ここを大田というようになった由来は、昔、呉之勝(クレノスグリ)が韓の国から渡って来て、最初「紀伊の国」の名草の郡の大田
	の村に着いた。その後、一派が「摂津の国」の三島の賀美(カミ)の郡の大田の村に移って来て、それがまた「揖保の郡」の大田の村
	に移住して来た。人々は、もともといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。」この一派が「中臣太田連」を称した。

	紀伊の大田は、伊国名草郡、今の和歌山駅南側、日前国懸神宮の西側に大田があり、太田黒田遺跡の所である。摂津の国の三島の賀美
	の郡の「太田村」は、茨木市の島下郡とされ、「太田神社」は「呉之勝」の末裔集団を統融合して、「中臣太田連」という氏族を形成
	し、6世紀以降頃に、中臣の祖神「天児屋根」を祀ったそうだが、「呉之勝」が紀伊から太田へ移住したのは、地元(播磨)の郷土史
	家によると古墳時代以前という説もあり、太田神社には大物主の息子(?)で多氏一族の「大田田根子」を祀った記録も残る。
	この辺りは、戦国時代しばしば戦乱の場となつたため、兵火の災に遭い社殿記録を失い、由緒沿革の明確を欠いている。従って祭神に
	幾つかの変遷があつたことが推測できる。




	茨木市太田東方には、弥生後期〜古墳時代中期の「太田遺跡」があり、竪穴住居跡、大量の埴輪、鉄製利器・須恵器・銅鐸などが出土
	している。また川西市(多田銀・銅山)と葛城の「多太神社」と、茨木・太田神社は大田田根子を祀る点から関係あると言われている。


	土俗大神宮と称せり。西南字太田山にあり。創建の年月不詳。 播磨風土記には呉勝の裔として、太田の原を帰化民族とすれども、新
	撰氏姓録摂津神別に中臣藍連同神(天兒屋根命)十二世孫大江臣之後也、中臣太田連同神十三世孫御身宿禰之後也、とあり、而して
	安威、太田、耳原等の土地相接して存するを見れば蓋しこの太田連が其の祖神を祀りしものとなるべし。
	『大阪府史蹟名勝天然記念物』



拝殿(上)



本殿(上)
	創建については不明だが、当社が古代からの集落・大田村にあることから、古く、当地一帯に居住していた中臣太田連が奉祀したのが
	太田神社ではないかという。中臣太田連とは、新撰姓氏禄に「摂津国神別(神別) 中臣太田連 天児屋根神十三世孫御身宿禰之後也」
	とある氏族(松尾社家系図には、天児屋根命十四世孫に御身足尼命、その子・太田彦命が見え、これが中臣太田連にかかわるのではな
	いかという)で、古くから当地一帯に進出していた中臣氏の一支族という。呉の勝(すぐり)が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国
	の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の大田の村に移って来た。これが中臣太田連を称した。恐らく創
	建当時は、中臣大田連の祀神として天児屋根命一座が祀られていたと思われる。



本殿(上)





稲荷神社(境内社:上)。宇賀御魂神を祀る。


	中臣氏族概観

	○中臣氏族は、天孫降臨五伴緒の一、天児屋根命の後裔であり、中臣一族は広く神祇及びト占関係の職務について朝廷に仕えた。その
	 本拠地は本来、河内国の河内郡・高安郡ではなかったろうか。氏神は大和国添上郡春日神社(祠官は大中臣朝臣、中臣殖栗連)、河
	 内国河内郡の枚岡神社(祠官は平岡連)を中心として、これらに加え、一族の神社祠官家として荒木田神主(伊勢内宮)、恩地神主
	 (河内国高安郡恩地神社)、卜部宿祢(京の平野、吉田、梅宮社)、中臣鹿島連(常陸国鹿島神社)、神奴連(摂津国住吉郡中臣須
	 牟地神社、同州武庫郡西宮神社)、中臣宮処連(摂津国八部郡長田神社)、大中臣朝臣(伊勢神主、遠江国浜名郡英多神社)、伊伎
	 宿祢(京の月読宮。系譜に疑問もあり)等を輩出している。
	 この氏族は、中臣連姓を負う以前はト部(占部)姓を負ったが、本来は河内の平岡連の系統のほうが本宗的な存在であったことも考
	 えられる。
	○天児屋根命の祖先については、原始的な段階では伊久魂命、さらに高魂命と遡上するものもあったようだが、比較的早い段階で高魂
	 命や神魂命とは別系とする居々登魂命(己々都牟須比命)、津速魂命という神格を案出して更にその先まで架上し、遂には国常立尊、
	 天之御中主神という究極至高の神格まで造出するに至っている。中臣氏の初期の分出支族(具体的には、崇神前代の頃までの時期で、
	 世代でいうと天児屋根命の六世孫梨迹臣命の頃までに分出した支族)にあっては、その祖神名が必ずしも津速魂命とか天児屋根命と
	 はなっていないことに注意したい。
	 天之御中主神の後裔と称する中臣氏族、伊勢国造(なお、この一族と称する度会神主も天之御中主命まで系を遡上させるが、これは
	 丹波国造の支族が伊勢国造の系に接木したもので別族)、及び服部氏族、御手代首(録・大和神別)、神人(録・河内神別)につい
	 ては、同族(伊勢国造)ないしなんらかの関係(服部以下の三者)が想定される。
	〇敏達・用明朝に崇仏・排仏論争がらみで、物部本宗家とともに衰滅の運命をたどった中臣勝海連の家が中臣氏族の本宗家ともみられ
	 るが、大化前代にはこれに替わって常盤(勝海との関係に諸説あり、確定しがたい)の流れが本宗家となっており、そのなかでも大
	 化改新時の功績により藤原姓を賜った鎌足の家が本宗家となった。この藤原は、鎌足の生地大和国高市郡藤原郷に因むものである。
	 鎌足の子・右大臣不比等以降、藤原朝臣氏は南家・北家・式家・京家の四流に分れて大いに栄え、北家を中心に長く摂関家等宮廷貴
	 族の大半を占めて存続し、明治に至るまで天皇の后妃を多く輩出した。
	 藤原氏からは武家でも、藤原秀郷(秀郷の藤原姓には仮冒の要素が見られることに留意)や藤原為憲、また鎮守府将軍藤原利仁など
	 を出し、それらの後裔と称するものが多くに分れて全国各地で繁栄した。こうした事情で、公家のみならず武家においても藤原姓を
	 名乗る氏が極めて多いが、この中には後世の仮冒も相当多くある(この辺は藤原氏概観を参照のこと)。
	〇藤原朝臣姓創設以降では、従来の職務である神祇に携わる氏族は、「中臣」の呼称を保持し、その最有力なものは大中臣朝臣姓とな
	 ったが、後世になると、中臣殖栗連、中臣和太連などのように、支族名のほうを除去し、単に中臣(連)とかその上位姓である大中
	 臣(朝臣)という姓を使用する例もでてくることにも注意を要しよう。
	 推古天皇朝頃に三門に分かれた中臣連は、平安中期頃迄にその多くの流れが大中臣朝臣姓となったが、その中では国子連後裔の三門
	 が最も栄えて、伊勢神主家で堂上公家の藤波氏を出した。御食子連後裔の一門も、鎌足の弟、垂目の流れから春日神主家及び伊勢大
	 宮司家河辺氏を出した。
	〇中臣氏族でも初期の段階の系譜は不明な点が多いが、この氏族から出たと明示される諸国の国造家はない。神武天皇朝に設けられた
	 と伝える伊勢国造家は、ごく初期に分かれた中臣氏族とみられる。県主家では、大和の添県主を出しているが、後に絶えた春日県主
	 も初期に分れた同族の可能性もある。
 
	〇 中臣氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。

	(1) 藤原鎌足後裔……藤原朝臣(録・左京)、藤原恵美朝臣(後に復藤原朝臣姓)、能原宿祢、井手宿祢。藤原朝臣の主要な分流は
	  「藤原氏概説」を参照のこと。
	(2) 中臣黒田連の子、常盤連後裔
	  大化前代、常盤連の流れが本宗家の地位(本宗家たる勝海連の衰退後に、本宗家格となったものかもしれないが)にあったが、可
	  多能□(方子)連の諸子の代に三門の流れに分かれた。その大半は初め藤原姓となったが、この姓が不比等後裔に限定された後は
	  中臣朝臣姓となり、更に平安中期までに大中臣朝臣姓と変った。長く本来の職務である祭祀に関わった氏族である。
	  中臣連(三門の金連後裔と称する吉田社人の鈴鹿氏は朝臣姓という)、藤原朝臣(この系統では、後の中臣改姓のため残らず)、
	  中臣朝臣(大森−下野国日光二荒社旧神主家。瀧尾、加藤、金子−同社祠官。中田−下野国那須郡中田原村住)、仲麻呂〔中丸、
	  中麿〕−下野国都賀郡久次良村社官、二荒社社家)、大中臣朝臣(録・左京。主要な苗字は後掲)、惟岳宿祢。なお、系統不明も
	  伊勢神宮祠官の龍氏は中臣朝臣姓という。

	  大中臣朝臣姓の主な苗字は、次の通り。

	  ●一門(御食子流)……河辺−伊勢国度会郡継橋郷河辺里より起る、伊勢神宮大宮司家、明治に男爵家。正眞院、中東、中、中西、
		奥、奥田、西、向井−和州添上郡の春日神主家及びその同族。
	  ●二門(国子流)……藤波−伊勢国度会郡藤波邑より起る、伊勢神宮祭主家で堂上家、初め三条とも岩出とも称。土御門−祭主家
		の一も、絶家。殿村、粥見、相可、箕曲、宮田、七見、伊蘇、波伊萬世、岩田、内田、長森、中方、岩崎、鳥羽、佐奈、大田、
		佐田、小田、麻績、越智、原、竹、田村、青野、泉、山幡、桜井、田辺、須崎、沢、山村、麻田など−藤波同族で伊勢住。小
		泉、保泉−同上、武蔵国大里郡住。縣(安形)−遠江国浜名郡英多神社祠官、縣大夫物部氏跡を継承。樋口、小俣、河田、狩
		田−伊勢住。鹿島−常陸の鹿島大宮司。栗林−鹿島社検非違使兼息栖神主。木滝−鹿島社惣追捕使、押領使。片岡−鹿島社祠
		官。
		このほか、九条家侍の日夏は大中臣姓という。二門の大中臣朝臣とのなんらかの関係も考えられるものに、出羽国由利郡の由
		利・滝沢があり、『東鑑』治承四年八月廿日条に見える永江蔵人大中臣頼隆との関係も考えられる。同条には頼隆について
		「太神宮祠官後胤也」と記す。
		また、筑前香椎廟の四党神官に大中臣朝臣姓があり、権大宮司三苫氏が称したが、大中臣清麻呂の孫重春の子とする系譜は疑
		問あり。
 
	(3) その他の中臣氏族

	●畿内系……中臣連(録・河内)、中臣宮処連(録・左京。大中−摂津国長田神社祠官、称大中臣姓。石田−同上族)、宮処朝臣(録・
	 和泉)、大家臣(録・大和)、中臣大家連(録・左京)、村山連(中臣村山連。録・河内。中臣村屋連との異同は不明)、中臣方岳
	 連(中臣片岡連。録・左京。片岡−大和伊勢にあり。目安−大和国平群郡人。柏原−河内国志紀郡人)、稗田連。
	 中臣酒屋連(録・河内)、中臣酒人宿祢(録・左京)、菅生朝臣(録・河内。菅生−河内人)、中臣香積連、中臣間人連、中村連
	 (録・左京。中村−河内紀伊にあり)、狭山連(録・和泉)、中臣高良比連(録・河内)、中臣(録・河内)、評連(中臣評連。録・
	 和泉。郡〔郡戸〕、長谷川、鳥飼−和泉国大鳥郡人、称中臣姓)、大鳥連(録・和泉。大鳥−和泉国大鳥郡人、大鳥神社祠官)、
	 殿来連(中臣殿来連。録・和泉。殿来〔殿木〕−和泉国大鳥郡人、駿河にもあり)、蜂田連(録・和泉。八田−近江に住)、和太連
	 (中臣和太連。録・和泉。和田−和泉国大鳥郡和太里より起る、岸和田に住、称大中臣朝臣姓。岸和田、中井、高槻、小車妻−和田
	 一族。
	 花田、中村、沼間〔沼〕、川崎、矢田部、岳田、平丘−和泉等に住)、中臣幡織田連、中臣部(録・和泉)。中臣小殿連も同族か。
	 対馬連、津島朝臣(録・摂津)、神奴連(録・摂津。神奴−摂州住吉社神人、及び同州住吉郡中臣須牟地神社神主。北村−同上族。
	 吉井−摂津国武庫郡西宮神社祠官、称藤原姓。巽−堺町人)。
	 鎧作(甲作。名草−紀伊住、河内に遷)、中臣志斐連(志斐連。録・左京、和泉)、中臣表連(録・和泉)、中臣連(録・和泉)、
	 民直(録・和泉)、呉公(録・山城。野部−摂津、近江にあり)、三間名公(録・河内未定雑姓。系譜に疑問あり)。
	 恩智神主(恩地神主。録・河内。恩智〔恩地〕−河内国高安郡人。杉原−和泉人。小原、芳村、葦立−美作国大庭郡人)、添県主
	 (録・大和。宝来−大和国添下郡人)、長柄首(録・大和。長柄−大和国葛上郡人。実際には別族か)、春日部村主(録・山城未定
	 雑姓。実際には別族か)。
	 平岡連(録・河内。平岡、水走、鳥居−河内国枚岡社祠官、称藤原姓)、中臣大田連(録・摂津。摂津国東成郡の比売許曽神祠官
	 味原氏は族裔か。一族に太田、橋本)、中臣藍連(録・摂津。山田、栗花落(ツユリ)−摂津国八部郡人、一伝に矢田部造姓。
	 なお、摂津島下郡居住で鎌倉・室町幕府奉行人の安威氏は後裔か)、中臣束連(録・摂津)、生田首(録・摂津。五郷、後神(ゴカ
	 ミ)−摂津国八部郡の生田神主)、倉垣臣、椋垣朝臣(録・摂津。倉垣−摂津国能勢郡倉垣村より起り、近江に分る。青山、黒川−近
	 江の倉垣一族。池田、井尻、芦、深江、糸海、阿佐美、西田、子安−摂津国人。桑田、志道、金元−丹波に住)、荒木臣(荒城臣、
	 大荒木臣。なお、丹波国天田郡や山城国綴喜郡〔北条早雲随行で東国下向〕の荒木は族裔か)、荒城朝臣(録・摂津)。なお、荒木臣
	 については、具体的な系譜が不明であり、その北陸方面の分布等から考えると、本来別族で和邇氏族系統の流れであった懸念がある。
	 飛鳥直(録・大和。実際には中臣とは別族か)、伊与部(録・右京。実際には別族か)。
 
	●諸国……伊勢、近江、美濃、壱岐・対馬や関東に分布が多い。ただ、諸国でも美濃や壱岐・対馬の中臣氏族と称するものには系譜に疑
	 問もある。
	 中臣鹿島連(鹿島−鹿島大宮司。塙−常陸国鹿島郡塙邑より起る、鹿島大宮司及びその一族、称中臣姓。羽生〔埴生〕−鹿島社大祢宜
	 家。世谷−鹿島社権祢宜家。倉員、田並木−同社祠官。東−鹿島社祢宜家)、中臣部(常陸)、常陸ノ占部(吉川−常陸国鹿島大祝家。
	 松岡−同祠官で沼尾神主、一に中臣鹿島連姓)、占部宿祢。
	 殖栗占部、中臣殖栗連(殖栗連。録・左京。辰市−上、下二家あり、和州春日社家。辰巳、東地井(トチヰ)、北、井原、千鳥、今西、
	 南、井戸、新−辰市	 
	 以下は時風流で、千鳥は春日若宮神主。大東、富田、大西、上−春日社家、秀行流。なお、春日社家両流ともに称中臣姓で、常陸に起
	 る。小山田、山田−吉田社神人、時風流だが称藤原姓)。
	 武蔵ノ卜部(ト部−武蔵国多摩郡人。神庭、市川−武蔵国多摩郡人。なお、多摩郡御獄神主の浜名氏は大中臣国兼後裔と称したが、実
	 際にはこの流れか、一族に御獄、金井)、伊豆ノト部(青木−伊豆国三島大社社家、熱海の来宮神社祠官。
	 卜部−駿河国庵原郡南松野村の稲荷神社祠官)、ト部宿祢、卜部朝臣(吉田−山城国吉田社司、堂上公家。萩原、錦織−堂上公家。藤
	 井〔もと猪熊〕−山城国葛野郡平野社司、堂上公家。高宮−近江国高宮郷より起、肥後国阿蘇に遷。堀川−粟田宮俗別当。大角−吉田
	 末社大角神楽岡社祝、称藤原姓)。なお、大和にも卜部があって、その系統は不明も高僧源信(恵心僧都)を出す。その一族に葛下郡
	 の鎌田、鎌狩、松村。
	 伊香具臣(胆香瓦臣。近江国伊香郡)、伊香津連(伊香連。録・左京)、伊香宿祢(西沢−近江国伊香郡伊香社司。柏原、亀屋、小村、
	 磯貝、山村、伊香、真野、伊太、田井、赤尾、布施−近江人。大音−近江国伊香郡に起り、若狭国黒駒社祠官)、畝尾連(録・左京、
	 和泉)。
	 川俣県造、川跨連(川俣連。録・河内)、大鹿首(録・右京未定雑姓。相可−伊勢人)、大鹿臣、大鹿宿祢(大鹿−伊勢人)。
	 神主、荒木田神主(沢村−明治期に為男爵、大正期に荒木田と改氏。鳥居、沢田、井面、薗田、中村、稲木、井向、岡田、中川、佐八、
	 山幡、長峯、桑野、船江、矢乃、浦田、世木、船橋、中西、藤並、家田、三津、納米、岩波、堤、中森−以上は伊勢内宮祠官。榎倉、
	 高田、村山、横地、櫻、坂、岩井田、孫福、原、馬瀬、林、宇治、尾崎、松尾−伊勢人、内宮祠官。このほか、伊勢神宮祠官に多くの
	 荒木田神主姓諸氏が見えるも、他氏が称したものも多いか、梅谷、白髭、椿は和邇氏族の色彩あり)。
	 伊勢直、中臣伊勢連、中臣伊勢宿祢(川島〔河島〕、伊勢−伊勢国三重郡人。称桓武平氏姓の三重、大和、政所執事の伊勢や、舘、称
	 中臣連姓の京吉田神社祠官鈴鹿などもこの末流か)、伊勢朝臣(中臣伊勢朝臣。録・左京。為田〔多米田〕−伊勢神宮社人)、中跡直
	(中跡−伊勢国河曲郡奈加等神社祠官)、中跡連。
 
	●伊吉ノ卜部(壱岐・対馬の卜部は、実際には中臣同祖の紀伊国造一族か)、伊岐直(壹伎直、壱岐直。録・右京。筑前宗像郡織幡神社
	 祠官入江・壱岐氏は真根子命後裔という、姓氏不明だが同姓か)、直宿祢、伊岐宿祢(伊吉宿祢。松室−山城国松尾月読社司。伊木−
	 摂津国住。中村、安井、松岡、井関−山城住。松尾−甲斐伊豆住。松野−美濃住。吉野−壱岐島人)、対馬ノト部(占部−筑前国宗像
	 社家。阿比留、西山−対馬国人、別説もあり。橘−対馬下県郡の太祝詞神社宮司。岩佐−同郡人。一書には橘の庶流としては、岩佐、
	 長岡、鳥居、その一族には寺山、畑島、宮原、財部、扇〔青木〕、吉野、八島、津原、中里、山田、中村、井田、山下、木寺、藤島、
	 日吉など多いというが、これは対馬・壱岐の古族末裔を混交網羅するきらいがあり、これら諸氏は津島直ともいう。なお、大和卜部も
	 同流か)、対馬下県直、津島直(録・摂津未定雑姓。藤−下県郡豆酘の雷命神社祠官、対馬総宮司職を世襲、上記橘・岩佐とも同族か)。
 
	●栗原勝、中臣栗原連(録・右京未定雑姓。栗原−美濃から甲斐に分る)、栗原宿祢、宮勝、宮宿祢、均田勝、中臣美濃連(中臣美乃連)。
	 なお、美濃国不破郡の岩手、竹中(半兵衛家)、栗原、四宮等は栗原連の族裔か。
	 これら栗原勝関係諸氏は居住地(美濃国不破・各務郡など)や勝姓などから、百済国人淳武止等の後という不破勝・不破宿祢(不破郡
	 南宮神社祠官の不破は後裔か)と同族であった可能性がある。そうすると、雷大臣命の子の日本大臣命の後裔と称する栗原勝の系譜に
	 疑問が出てくる。中臣美濃連を含めて、中臣連とは別系(例えば、和邇氏族ないし物部氏族)の流れか。美濃国安八郡大井庄の大中臣
	 氏はこの族裔か、その苗字に大井があり、江戸初期の大名で後に断絶した美濃出身の西尾も一族か。

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	古代氏族研究会公認HP「古樹紀之房間」(こきぎのへや)より許可を得て転載。深謝。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 166回例会・高槻市・摂津富田