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歴史倶楽部 第166回例会 6月5日
女九神社







	鴨神社を裏口から抜け出て、住宅街の中をぐるりと一回りするような経路でこの神社へくる。位置的には鴨神社の丁度裏手あたり
	になるのだが、道が入り組んでいてすんなりとは到達できない。袋小路のような所に入っていき、そのどん詰まりに西向きに鎮座
	している。周辺は中高層の住宅や建て売り住宅も多い。

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鳥居をくぐってすぐ左側に、どデカイ石碑が立っている。

	鶴駕駐蹕記念碑 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋

	女九神社境内にあり。明治44年11月21日に第4・第16師団臨時対抗演習が太田付近で行われ、前夜梅林寺に泊まられた皇太子(大
	正天皇)は午前5時25分より太田八幡池にて観戦された。


	----- Original Message ----- 
	From: 橋本英雄 
	To: 西本 恆俊様 ; 井上 修一様 ; 栗本 光敏様 ; 田上 保様 ; 錦織 昌一様 ; 橋爪さん 
	Sent: Monday, June 06, 2011 2:10 PM
	Subject: 漢  字

	皆様へ
	昨日はお疲れさんでした。
	或る神社の石碑にあった文字: 「鶴駕駐蹕記念碑」(カクガチュウヒツキネンヒ)

	鶴駕=皇太子の乗物  	蹕=さきばらい=貴人の行幸
	ということで、多分皇太子(誰か分らないが)の行幸あったことを記念して建てられた碑、だと思われます。
	橋 本


	皇太子殿下御野立所(こうたいしでんかおんのだちしょ)(「茨木の史跡」茨木市教育委員会)

	1911年(明治44年)に陸軍第4(大阪)、第16(京都)師団の対抗演習が、西国街道沿いの東より太田・十日市・耳原・中河原・
	下井などの集落が点在する地帯で、稲刈りも終わり、麦の植付けにかかろうとしていた11月19日より3日間にわたって行われ
	た。11月21日に時の皇太子(後の大正天皇)が太田八幡池の堤で観戦された。それを記念して、村民によって「鶴駕駐蹕記念碑」
	と記した碑が八幡池にたてられた。今は八幡池が埋め立てられたために、女九神社境内に移された。
	皇太子は観戦前夜には、梅林寺に宿泊された。梅林寺境内には、それを記念して碑がたてられている。なお、観戦時に皇太子の主
	席隋員として同行した閑院宮載仁親王は地元の太田氏宅に宿泊された。




	女九神社

	所在地 : 大阪府茨木市東太田町3-5-32  阪急バス 総持寺前下車北東へ徒歩10分
	主祭神 : 継体天皇妃九柱 

	女九神社(めくじんじゃ)は「太田茶臼山古墳」から直線で南東に400m程行ったところに鎮座している。もともとこの地は鬱
	蒼とした森であったが、明治8年(1875年)の東海道線鉄道敷設の用材として伐採されたという。この神社案内板には、「摂津名
	所図会」に、継体天皇崩御の時殉死した12人の妃のうち9人を、陵の傍らに葬り、ここに祀ったという。皇妃9柱も女神9人で、
	女九(めく)であり、はっきりとしたことはわからないと書いている。また、継体天皇の元妃で安閑・宣化二天皇の母、妃后目子
	媛(めくひめ)に関係あるのかもしれないと、判らない由緒・由来を正直に書いているところがなかなか面白い。




	女九神社について

	当社創建の年代は不詳なるも天皇崩御の年とあまり隔たりはないものと考えられる。摂津名所図会(1798年)によれば継体天皇崩御
	(531年)により后妃9人殉死せられしを陵の傍に葬りその霊を祀るとあり。又一説によれば尾張の連(豪族)の孫、目子比賣(メ
	コヒメ−天皇元妃)を祀るとも言われている。社号より案ずるに所謂女九は目子に通じ、皇妃9柱も女神9人で女九であり何れと
	も断定なし難し、ともあれ往時より安産の神として女性の信仰を聚められ境内には老樹生い繁り幽玄なる神叢を保って来たが今は
	往時の面影は見られない。近年周辺の開発と共に復旧に意を注ぎ神域の整備参道の拡張等により、その面目も一新された。


滅多に見ない自分の後ろ姿。たまには人に写して貰わないとアカンね。何かとっちゃん坊やみたい。

	『摂津名所図会』に、「土人曰 継体天皇崩し給ふ時十二人の妃の中九人殉死せられしを陵の傍に葬り、ここに祭りしとぞ其証不
	詳。」とある。継体天皇崩御の時殉死した12人の妃のうち9人を陵の傍らに葬り、ここに祀ったといい、或いは、「継体天皇の
	元妃にして安閑宣化二天皇の母后目子媛に関係あるにはあらざるか。」(『大阪府史蹟名勝天然記念物』)とも伝わる。女九人で
	「めく」だし、目子媛の「めく」、女神九人でも「めく」なので、どれがほんとかわからない。

	手白香皇女を加えて、以下が殉死した9人とされているが、これは日本書紀に言う妃の名前が判っている全部である。

	妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女) 安閑天皇・宣化天皇の母 
	妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹) 
	妃:廣媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女)
	妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女) 
	妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女) 
	妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅ヒの女)椀子皇子は三国公の先祖 
	妃:蝿(ハエ)媛(はえひめ。和珥臣河内の女)
	妃:広媛(ひろひめ。根王の女)兎皇子は酒人公の先祖、中皇子は坂田公の先祖 前に出た廣媛とは別人

	ここに言う「三尾」は近江と越前にある。「三国」は越前にあり、継体の母振媛(ふるひめ:垂仁天皇7世の孫)の故郷とされ、
	「坂田」、「息長」、「酒人」は近江にある。蝿媛(はえひめ:ハエ・原字は表記不能)は、山辺の道「和邇」の里の生まれと見
	られ、ここには、我々も例会で訪れて「和邇神社」の境内に「ハエ媛」の説明掲示板があったのを見た。
	
	妃達の出自を見ても、河内−近江−越前というルートが頭に浮かんでくる。ちなみに、郭公さんに紹介して貰って一度お会いした
	神奈備さんの「神奈備HP」によれば、祭神を継体天皇とする神社は福井県に28社、滋賀県はゼロだそうである。継体天皇の母
	の振姫の場合、福井県に4社、滋賀県に1社となっているそうで、継体はやはり越前から来たとするほうが近江説よりも分があり
	そうだ。
	また、「例えば、武内宿禰の母は山下影姫であり、和歌山の人のように記述しているのだが、和歌山には一社にも祭られておらず、
	北九州に四社鎮座している。これは武内宿禰の誕生の地は北九州だということを意味する。」これなども、私の主張と同一で、神
	社から歴史を探るというのも、あながち的外れでもないなという気もする。




	継体天皇の皇后は「手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女、欽明天皇の母)」だが、これは継体が大和入りしてから
	の皇后で、継体は越前にいたときすでに五十歳を過ぎており、越前にも妃・妾がいた。複数の妃を持ち沢山の子もいたが、即位後
	には先代武烈天皇の妹・手白香皇女を正式の皇后として迎え入れた。しかし「日本書紀」「古事記」のいずれにも、継体天皇の没
	後に后妃が揃って殉死したなどという記事はない。また日本書紀では妃后は9人であるが、古事記では8人である。しかるに、こ
	こでは12人の妃がいたことになっている。


	==========================================================
	【日本書紀 卷第十七 崩御の記事】

	 廿五年春二月 天皇病甚 ○丁未 天皇崩于磐余玉穗宮 時年八十二 ○冬十二月丙申朔庚子 葬于藍野陵 【或本云 天皇 
	 廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 
	 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣 後勘校者 知之也

	【古事記 下卷  崩御の記事】

	 天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。

	==========================================================
	【日本書紀 卷第十七 係累の記事】(手白香皇女含まず)

	 元妃 尾張連草香女曰目子媛 【更名色部】 生二子 皆有天下 其一曰勾大兄皇子 是爲廣國排武金日尊 其二曰檜隈高田皇子
	    是爲武小廣國排盾尊 
	 次妃 三尾角折君妹曰稚子媛 生大郎皇子 與出雲皇女 
	 次  坂田大跨王女曰廣媛 生三女 長曰~前皇女 仲曰茨田皇女 少曰馬來田皇女 
	 次  息長眞手王女曰麻績娘子 生荳角皇女 【荳角 此云娑佐礙】 是侍伊勢大~祠 
	 次  茨田連小望女 【或曰妹】 曰關媛 生三女 長曰茨田大娘皇女 仲曰白坂活日姫皇女 少曰小野稚郎皇女 【更名長石姫】 
	 次  三尾君堅?女曰倭媛 生二男二女 其一曰大娘子皇女 其二曰椀子皇子 是三國公之先也 其三曰耳皇子 其四曰赤姫皇女 
	 次  和珥臣河内女曰?媛 生一男二女 其一曰稚綾姫皇女 其二曰圓娘皇女 其三曰厚皇子 
	 次  根王女曰廣媛 生二男 長曰兔皇子 是酒人公之先也 少曰中皇子 是坂田公之先也 

	【古事記 下卷 係累の記事】(手白香皇女含む)

	 天皇 娶
	 三尾君等祖 名若比賣 生御子 大郎子 次出雲郎女【二柱】 
	 又娶尾張連等之祖凡連之妹 目子郎女生御子 廣國押建金日命 次建小廣國押楯命【二柱】 
	 又娶意富祁天皇之御子 手白髮命【是大后也】生御子 天國押波流岐廣庭命【波流岐三字以音 一柱】 
	 又娶息長眞手王之女 麻組郎女生御子 佐佐宜郎女【一柱】 
	 又娶坂田大股王之女 K比賣 生御子 ~前郎女 次茨田郎女 次馬來田郎女【三柱】 
	 股娶茨田連小望之女關比賣生御子茨田大郎女 次白坂活日郎女 次野郎女 亦名長目比賣【三柱】 
	 又娶三尾君加多夫之妹 倭比賣 生御子 大郎女 次丸高王 次耳上王 次赤比賣郎女【四柱】 
	 又娶阿倍之波延比賣 生御子 若屋郎女 次都夫良郎女 次阿豆王【三柱】 
	 此天皇之御子等并十九王【男七 女十二】
	==========================================================


	そもそも、この記事の元になっている『摂津名所図会』とは何者だろうか。

	1798年と言えば寛政十年で、将軍は家斉、天皇は光格天皇の時代である。二年後に伊能忠敬が全国測量に出発する。この頃全国で
	観光名所を紹介する旅のガイドブックが庶民の人気を集めていた。京都の文人・秋里籬島が『摂津名所図会』シリーズを書き始め
	たのがこの年で、今の大阪府茨木市を中心とした一円の行政区域であった「摂津国嶋下郡」上野村にあると云う、珍しい祠の記事
	がここに紹介されている。この本は、題名こそ「名所図会」となっているが、単なる「名所」の紹介だけに終始したものではなく、
	その土地土地の地名や社寺、河川、山そして池、駅なども史料を引用して書き記した、ちょっとした歴史百科事典のような趣のあ
	る出版物であった。当時の嶋下郡太田にあった「継体天皇稜」(三島藍野稜)の記事の後に、次のような文言が続いている。

	  女九神祠(めここのつのやしろ) 上野村にあり。祭神不詳。この所の生土神とす。
	  土人曰く、むかし継体天皇崩じたまう時、十二人の妃のうち九人の殉死せられしを、
	  陵の傍に葬り、ここに祀るなりとぞ。その証不詳。

	ここで取り上げられている社(やしろ)が、この女九神社を指していると思われる。だが、ここは名所図会に記された上野村では
	なく、旧太田「山の木」だそうなので、あるいは江戸期にでも遷座したのかもしれない。江戸時代には、領主や村内の事情で神々
	の遷座は頻繁に行われていたようだし、現在でもよく移動している。

	地元民を「土人」(どじん)と書いているのも今から見れは凄いが、この時代には単に、土着の人くらいの意味なのだろう。「ど
	にん」と呼ぶのかもしれない。しかし見たように、天皇妃が9人も「殉死」するなど、記紀にもその記録は無いしあり得ないと思
	う。秋里籬島も「その証不詳」と書き足したように、継体天皇三島陵がすぐ側にあるので、誰かがこういう説を考え出したのでは
	ないかと疑ったのではないかと思う。
	祭神については、神社の由緒書の一説、「継体天皇が、まだ即位する前から妃であった(と言うか元々正妻)、尾張の連の孫娘で
	ある目子比売(めこひめ)を祀る神社である、とする説のほうが信憑性が高い。記紀は、この妃について、

	   元妃 尾張連草香女曰目子媛 【更名色部】 生二子 皆有天下 其一曰勾大兄皇子 是爲廣國排武金日尊
	   其二曰檜隈高田皇子 是爲武小廣國排盾尊
	  (元妃 尾張連草香の娘・目子媛という またの名は色部 二子を産み 二人とも大王 一人は勾大兄皇子
	   廣國排武金日尊といい もう一人は檜隈高田皇子、是爲武小廣國排盾尊と言う。)・・・日本書紀

	   又娶尾張連等之祖凡連之妹 目子郎女生御子 廣國押建金日命 次建小廣國押楯命【二柱】
  	   (また尾張連等の祖、凡連の妹・目子郎女 御子は 廣國押建金日命と建小廣國押楯命の二人である)・・・古事記

	と、何れも尾張連の一族であると書き記しており、継体の後を継いだ二人の皇子、広国押建金日命(安閑天皇)と建小広国押楯命
	(宣化天皇)の実母である。まだ男大迹王が地方の一豪族に過ぎなかった頃、妻として最大の後援者であった尾張氏から王家に嫁
	いだ女だと推測できるが、日本書記が二人の子の名前を、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)、檜隅高田皇子(ひのくまのたか
	たのみこ)としていることも興味深い。勾(まがり)、檜隅(ひのくま)とはいずれも大和の地名であり、前者は山辺の道に、後
	者は飛鳥にある。継体が大和入りする前、すなわちこの二人が生まれた時はこの名前では無かったはずなのだ。日本書紀の編者に
	よって付会された名前なのは明らかである。

	また、日本書紀が一書に曰くとして引用している『百済本紀』は、安閑天皇が即位したとされる西暦531年「日本の天皇と太子、
	皇子が共に薨去した」と伝えている。

	【或本云 天皇 廿八年歳次甲寅崩 而此云廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 
	 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣 後勘校者 知之也】

	531年は継体の没年だが、記紀は、その後を安閑(531〜535)、宣化(535〜539)と年長の異母兄弟が先に皇位を
	継ぎ、皇后手白髪命の子欽明につないだと記録している。だとすれば、この「天皇と太子、皇子が共に薨去した」という記事は何
	なのだろうか。また、大和へ入るため大王家の娘である手白髪命へ、言わば婿入りの形で皇位を継承した事を考えれば、欽明を差
	し置いて尾張連の血を引く子二人に先に譲位したとも考えにくい。ゆえに、安閑、宣化は即位していないという説も捨てがたい。

	百済本記の「天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という所伝は、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇(母・尾張目子媛)
	の勢力と、欽明天皇(母・手白香皇女)の勢力が対立し、二者間で内乱があったのではないかとする「辛亥の変」説を生み出した。
	そして欽明天皇側が勝利し、安閑・宣化はともに滅ぼされたのではないかと言うのだ。事実なら当然、安閑・宣化は即位していな
	いし、継体天皇の没後程なく殺されたことになって、「天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という記事とも符合する。
	しかし例によって、これもあくまでも推測の域を出ず「謎が謎を呼ぶ古代史」(黒岩重吾)の、闇の中であるのは間違いない。
	面白いったらありゃしない。




	継体天皇自身については、もうこのHPのあちこちに書いたので省略するが、台頭してきた蘇我氏との関係や尾張氏との関係、そ
	れからこの神社の祭神「九媛」たちの出自を見ても、継体天皇の婚姻は地域の有力豪族たちとの関係の上に成り立っているのは明
	らかだ。大和周辺から滋賀県、愛知県、さらに福井県と、大和から東国にかけての豪族の娘を妃にし、継体はこの連合勢力に支え
	られながら擁立されたというのがほぼ定説である。
	尾張氏の目子媛は継体天皇の元からの妃、手白香皇女は大和との結び付きを強めるために皇后にしたし、稚子媛、廣媛(神前皇女
	等の母)、麻続娘子、倭媛は近江系豪族出身の妃、開媛、ハエ媛は河内・大和系豪族出身の妃という具合に、殆ど政略結婚である。
	出自がはっきりしないのは広媛(菟皇子等の母)くらいで、どこをどう調べたのかわからないが、この広媛(菟皇子等の母)を岐阜の
	出身だとした記事もあった。あるいは岐阜のどこかに伝承があるのかもしれない。また広媛は、根王(ねのおおきみ)の娘であると
	も記されている。根は「はるか遠い国」という意味もあるが、「根の国」といえば普通「根の堅土国」という黄泉の世界でもある。
	ま、そこまで考えるのはちょっとうがった見方かもしれない。




	継体天皇の手白香皇女との結婚は、皇統の血脈であることを正当化するために、また、大和の勢力基盤との関係強化のために行わ
	れたという説は、「古代史の謎」コーナーの「継体天皇はどこからきたか?」で紹介したので、詳しくはそっちを参照していただ
	きたいが、要するに継体天皇の結婚はすべてが政略によるものだということである。これは記紀の、天皇に関する記述の中では非
	常に異色である。継体天皇に関する記述は何か機能的・職能的であって、「天皇(すめらぎ)、こう思(おぼ)し召(め)し」と
	いうような部分がまったくない。継体天皇自身の人となりについては、記紀からは全く窺い知る事ができないのである。

	手白香皇女は先帝武烈天皇の妹である。武列は極悪非道を繰り返したために子がなかったので、天皇の血統復活という最重要課題
	を解決するために継体が登場したとも考えられる。“継体”という名がそれを象徴しているが、つまり継体天皇は、記紀の編者に
	よって作り出された架空の天皇という見方である。
	継体の子供が欽明天皇だが、この天皇の時代に蘇我氏は台頭してくる。それなら継体の時から政権に近づいていなければおかしい
	が継体の記事には名前が出てこない。また、この時代には既に秦氏を中核とする渡来系の氏族集団が、河内から淀川水系を利用し
	て京都の山背あたりの地域に進出し、強力な地盤固めがほぼ終わっていたと思われるのだが、秦氏の名前も登場しない。ここから
	架空説論者達は「継体は、本当に大和王朝の婿として、有力豪族の合意に基づき皇位に就いたのか?」という疑問を投げかける。



	宮内庁が継体天皇陵に比定している太田茶臼山古墳の廻りには、多くの陪冢がある。しかしこの古墳は5世紀代の築造とされており、
	現時点での発掘調査からも、実際の継体天皇陵はその東にある今城塚古墳と言うのが大方の見方である。女九神社はその南西1.5
	kmにあり、距離的には太田茶臼山古墳のほうがはるかに近い。と言うことは、この神社の由来がほんとに妃たちと何らかの関係が
	あるとすれば、継体天皇との関係より太田茶臼山古墳の被葬者との関係の方が強かったのではないかと思わせる。




	この神社の伝承は、太田茶臼山古墳が継体天皇陵という前提で成り立っているように思われるので、継体の墓が今城塚古墳というの
	であればそのことを知らなかった時代の人々によって、この伝承は作られたとも考えられる。つまり太田茶臼山古墳が継体天皇陵で、
	書紀に載っているその后妃9人を祭神としたのは、江戸時代とか、わりと新しい時代になってからの事かもしれない。


邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 166回例会・高槻市・摂津富田