Music: 悲しき雨音

歴史倶楽部 第166回例会 6月5日
鴨神社






JR摂津富田駅を出発して歩き出す。鴨神社(三島鴨神社)までは10分ほどである。神社を目指して歩いていると、



	真新しい石柱だと思ったら、なんと1ケ月ほど前に立てられたばかりだった。新しいはずだ。今は民家に囲まれた神社で、やや長
	い参道奥の狭い境内に建つ社殿もまだ新しい。社伝によれば昭和46年に、本殿・拝殿・社務所を新築したとある。延喜式神名帳
	に、『摂津国嶋下郡 三島鴨神社』とある式内社だが、その後裔社として高槻市三島江の“三島鴨神社”と同赤大路町の“鴨神社”
	の2社があり、論社(候補社)となっている。三島江の「三島鴨神社」にも“式内三島鴨神社”の石標が立つ。






	三島鴨神社	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	所在地	: 大阪府高槻市三島江2-7-37 
	主祭神	: 大山祇命	事代主命 
	社格等	: 式内社(小) 郷社 
	創建	: 不詳 
	例祭	: 10月20日 

	三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)は大阪府高槻市にある神社。祭神は大山祇命・事代主命。旧社格は郷社。嶋下郡(古代三島郡)
	の式内社論社。伊予、伊豆とともに三三島と呼ばれていた。日本で最初の三島神社(山祇神社)である。

	<祭神>
	・大山祇命 
	大山祇神降臨の地で、『伊予国風土記逸文』には「乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の
	神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき。御嶋
	と謂うは、津の国の御島の名なり。」とある。津の国御島とは摂津国三島(現高槻市三島江)のこと。 
	・事代主命 
	『日本書紀』に「事代主神が、三島溝咋耳神の女ー玉櫛姫と結婚して生まれた子を名付けて、媛蹈鞴五十鈴媛命といい、容色すぐ
	れた女子です。」とある。また、この地は三島県主の治めていた地で、『続日本紀』には三島県主が鴨宿禰の姓を賜ったとある。
	同市の弁天山古墳が鴨氏一族の墓と言われている。 
	<歴史>
	創建は不詳ながら延長5年(927年)に編纂された『延喜式』神名帳に記載されている古社である。三島神社の元社と伝えられ
	ており、この地は大山祇神降臨の地で、伊予(愛媛県)にある大山祇神社はこの地から移ったとされている。
	この神社はもとは淀川の中洲である川中島にあったとされるが、慶長3年(1598年)の淀川堤防修築の際に現在の地に移され
	たと言われている。
	明治41年(1908年)に唐崎神社や天満社等周辺の神社を合祀した。高槻市赤大路町にある鴨神社がこの社の論社となる。




	ここにいう「論社」というのは、ウィキペディア(Wikipedia)によれば、
	<論社>
	式内社の後裔が現在のどの神社であるのかを比定する研究は古くから行われている。神社の社名や祭神、鎮座地が変更されていた
	り、他の神社に合祀されていたり、また、一度荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数になるこ
	とがあり、その場合それぞれの神社を論社という。論社には、他者の研究によって後裔社だとされることもあるが、その神社自ら
	が式内社であると主張する場合も多く見られる。

	という事である。つまり、いにしえからの「三島鴨神社」には現在二つの候補社があるのだ。上の地図をご覧いただきたい。我々
	が今回訪問したのは地図の上方「鴨神社」とされている方で、高槻にはもう一つその南の方に「三島鴨神社」がある。上のウィキ
	ペディア( Wikipedia)による解説は、高槻市三島江にある「三島鴨神社」のものだが、「鴨神社」の社伝、由緒書きを読むとほ
	ぼ同じような内容である。ま、当たり前と云えば当たり前だが、上記ウィキペディアの解説は「三島鴨神社」の方に大分肩入れし
	たような記事だ。
	神社冒頭の石柱に、「鴨神社」と彫られた脇に「式内社 三島鴨神社」とあるので、式内社に記録された「三島鴨神社」はこの
	「鴨神社」ですよと主張しているように見える。実際後で話しを聞いた宮司さんも、「ここから三島江の方へ移って行った。」と
	仰っていた。しかしまぁ、別段本家争いをしているわけでもなさそうだ。あまりにいにしえの事なので、宮司さん達にもホンマの
	所は良く判らないというのが実情だろうと思われる。
	加えてこの神社には「鴨」という名前が付いていて、「鴨(加茂・賀茂)一族」が創建したような伝承も残っていて、さらに祭神
	が「大山祇神」と「事代主命」である。もうわけわからんというような由来を持っているのだが、裏返せばそれだけ由緒が複雑で、
	おそらく太古から幾度にも渡って神社のタニマチも変化していったのだろうと思われる。
	渡来してきた三島氏が仁徳天皇の時代に、海・山の神である「大山祇命」(別名:和大神)を祀って創建し、その後を受けて賀茂
	一族で事代主命を祀り、、ここから四国、伊豆へ移って、やがて「三島神社」が水軍の神となった、という所が大体の大筋ではな
	いかと思われるが、しかし「鴨」神社という名前を見ると、或いは順番は逆かもしれない。




	大山祇命(オオヤマツミ:大山積神)	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する神。別名 和多志大神、酒解神。神産みにおいて伊弉
	諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた。古事記ではその後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八神の神を
	生んでいる。

	天之狭土神・国之狭土神 
	天之狭霧神・国之狭霧神 
	天之闇戸神・国之闇戸神 
	大戸惑子神・大戸惑女神 

	その後、イザナギが軻遇突智を切り殺した時、カグツチの体から以下の山津見八神が生まれている。

	正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ) 
	淤縢山津見神(おどやまつみのかみ) 
	奥山津見神(おくやまつみのかみ) 
	闇山津見神(くらやまつみのかみ) 
	志藝山津見神(しぎやまつみのかみ) 
	羽山津見神(はやまつみのかみ) 
	原山津見神(はらやまつみのかみ) 
	戸山津見神(とやまつみのかみ) 

	オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。八岐大蛇退治において、素戔嗚
	尊(すさのを)の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子
	と名乗っている。
	その後、スサノオの系譜において、オホヤマツミ神の娘である神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に大年神と倉稲魂尊(う
	かのみたま)をもうけていると記している。また、クシナダヒメとの間の子、八嶋士奴美(やしまじぬみ)は、オオヤマツミの娘
	の木花知流姫(このはなちるひめ)と結婚し、布波能母遅久奴須奴(ふはのもぢくぬすぬ)を生んでいる。フハノモヂクヌスヌの
	子孫が大国主である。
	天孫降臨の後、瓊瓊杵尊はオオヤマツミの娘である木花之開耶姫と出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその姉の磐長
	姫を差し出した。ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、
	天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」
	と告げた。

	神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。別名の和多志大神
	の「わた」は海の古語で、海の神を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。
	また、木花之開耶姫が彦火火出見尊(ひこほほでみ)を生んだことを喜んだオオヤマツミが、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神
	々に供げたとの記述もあることから、酒造の神・酒解神ともされている。このほか、軍神、武神としても信仰されている。

	大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)、梅宮大社(京都市右京区)のほか、全国の三島神社・山祇神社に祀られる。全国の三島神
	社・山祇神社の総本社が大山祇神社(愛媛県今治市大三島町)および三嶋大社(静岡県三島市)である。

	<オオヤマツミが登場する古書>
	・日本書紀 
	・古事記 
	・大山祇神社、三嶋大社社伝等 
	・伊予国風土記逸文 
	「乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世
	 に顕れましき。此神、百済の國より渡り来まして、 津の國の御嶋に坐しき。御嶋と謂うは、津の國の御嶋の名なり。」




	事代主	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	事代主(ことしろぬし、言代主神)は、日本神話に登場する神。別名 八重言代主神、八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)。大国
	主とカムヤタテヒメとの間に生まれた。
	葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答える
	と言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆
	さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。
	タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちもは事代主
	に従って天津神に背かないだろうと言った。

	名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において言(言葉)と事(出来事)
	とを区別していなかったためである。

	大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元
	々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は
	重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)が
	あり、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)のような全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている。

	美保で青柴垣に引き籠った事代主神は、伊豆の三宅島で三島明神になったとする伝承もある。富士山の神とともに10の島を生み、
	現在の三嶋大社(静岡県三島市)に鎮座したとする。
	託宣神のほか、国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、海と関係の深いえびすと同一視され、海の神、商業
	の神としても信仰されている。七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話におけるこのエピソー
	ドによるものである。
	美保神社(島根県松江市)、長田神社(神戸市長田区)のほか、恵美須神社(京都市東山区)、今宮戎神社(大阪市浪速区)など
	のえびすを祀る神社でも祀られている。

	<コトシロヌシが登場する古書>
	・出雲の国風土記
	・鴨都波神社他諸神社社伝等




	神社の由来というものは全く「不明・不詳」だらけで、一体何が真実かを見極めるのは非常に難しい。というのは、日本人の持つ
	宗教観に由来しているような部分(神仏習合や護国寺など)もあるし、その地の、時の為政者達によって都合よく改宗したり合祀
	させられたりしているからである。又、明治になってからの廃仏毀釈や国家政策としての神仏習合などで、ますます「創建不明」
	とか「由来不詳」とかになって、現在神社の由来や祭神を探ることが非常に困難になっている神社が多い。

	この「三島鴨神社」も、その由緒を探るのは非常に困難なように思えるが、ここの場合は文献にその記録が断片的ながら残ってい
	るのでまだましな方である。その記録とウィキペディア(Wikipedia)を頼りにこの神社の由来・由緒を探ってみよう。




	・伊予国風土記逸文・大山積の神・御島条によれば、

	 「乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御
	  世に顕れましき。此神、百済の国より渡り来まして、 津の国の御嶋に坐しき。御嶋と謂うは、津の国の御島の名なり。」

	 「乎知郡(ヲチ)の御島(現愛媛県越智郡大三島)においでになる神の御名はオオヤマツミの神。又の名は“和多志(ワタシ:
	 渡し)の大神”である。この神は仁徳天皇の御代に顕現なされた。この神は百済から渡っておいでになり、摂津国の御島(三島)
	 においでになった神である」と記述されている。

	・延喜式神名帳に、『摂津国嶋下郡 三島鴨神社』とある。延喜式神名帳は延長5年(927年)に編纂された。

	・摂津名所図会(1798)・・・・・「当社いにしえは堤の上にあり、」

	・大阪府誌(明治36年1903)には、

	 「当社往時の神域は一町五反歩余りの広さを有せしが、中古五反歩余に減じ、左右の山林一町余は除地たりしも、享保以来高入
	 となり、社殿も応仁の頃兵火に罹りて焼尽せしかば、その後再建し、文禄年間再び造営せりといふ。明治5年村社に列せらる。
	 今の境内は1900坪を有し、本殿・拝殿を存す。末社に稲荷神社あり」

	・ 同(大阪府誌1903)

	 「昔、当社は澱川の中流にありて社殿広壮を極めしが、文禄年中堤塘を築くに当りて今の地に奉遷し」

	・神社明細帳(1910)

	 「旧社地は三島江村の東淀川堤防の辺りにして今川床と為ると云う。これ其地は河中にあり、文禄5年澱川修築の際、行水の害
	 となるを以て現今の地所へ遷座し。」

	・式内社調査報告(昭和52年1977)は、

	「古代の難波を“難波八十嶋”と呼んだように、大阪湾内には旧淀川をはじめとする幾筋もの河川が運び込む土砂によって造られ
	 た陸地(砂州)が点在していたが、その島々が形成されていく有様を神の威力・神の仕業と感じ、これを“御島神”と呼んだ」
	 という意味の記述がある。

	・瀬戸内海の大三島に位置する大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)の由来。

	「大山積神が祭神。この地に鎮座した由来として、大山祇神の子孫の乎千命(おちのみこと)がこの地に築いたとする説、伊豆国
	 の三嶋大社(現、静岡県三島市)から分霊を招いたとする説、朝鮮半島から渡来した神であるとする説など諸説があるが、摂津
	 国の三島江(現、大阪府高槻市)からこの地に移されたとするのが一般的である。平安時代には朝廷から「日本総鎮守」の号を
	 下賜されている。」




	三島鴨神社の由緒には、百済からここ摂津の「御島(三島)」に鎮座したとあり、また鴨神社由緒にも、同じように「伊予風土記
	では百済からの渡来人が祀った神とされ、百済の第25代武寧王(斯麻王)の没(523)により、これを「斯麻の神」・「嶋の
	神」更に「御嶋の神」として祀り、別名「和多志(ワタシ)の大神」(海の神)とも記されている」とあり、両社とも渡来神とし
	てのオオヤマツミをもって祭神としている。
	百済の武寧王(西暦500年前後)とは、朝鮮半島における当時の強国・高句麗に壊滅的打撃を与え、中国南朝の梁に朝貢する
	(521)など、百済の国威を発揮したとされる王で、その諱(イミナ)を斯麻(シマ)といった。佐賀県鎮西町の加唐(かから)
	島で生まれたとされている。武寧王の没後、百済からの渡来人がその諱から「斯麻の神」として崇めていたものが、わが国で同音
	の「島」へ、更に「御島」へと変化し、渡しの守護神・航海の守護神と化したのかもしれない。

	祭神については両社とも現在は、大山祇神、事代主神の二柱となっている。この神社の名前の三島に重点をおけば渡しの神の大山
	祇神、鴨に重きを見れば事代主神となるのだろうか。「三島鴨神社」の近くには「溝咋(みぞくい)神社」が鎮座しており、日本
	書紀によると「事代主神」が「三島溝杙姫(玉櫛姫)」に生ませた姫が「姫鞴五十鈴姫」で、神武天皇の妃となっている。
	また「三島溝杙姫」の父親が「三島溝咋耳命」、その父が「大山祇神」となっており、姫鞴五十鈴姫の両方の祖先神である。記述
	が真実を伝えているとすれば、大和王権の成立とこの地方の豪族とは非常に深い関係だったと言えそうだ。




	【鴨神社】

	JR摂津富田駅の西約800m、国道171号線から北に入った住宅地の中に鎮座する小社。三島鴨神社の北北西約5kmに当た
	る。国道脇に立つ大鳥居をくぐり、民家間にのびる参道を進んだ先に、南面して平入り・切妻造・瓦葺の拝殿が、その奥に流造・
	銅板葺の本殿が建つが、三島鴨神社よりは境内・社殿ともに小さい。

	当社由緒によれば、
	
	「創建年紀は不明なるも、初代神武天皇から第9代開化天皇(4世紀初め)までの奈良葛城王朝を支えた「鴨」氏によるとの伝承
	もあるが、伊予風土記では『仁徳天皇の頃、最初摂津国・御島の地に坐した』とあり、それは続日本紀によれば『摂津国嶋下郡の
	三島鴨神社なり』とある。
	即ち百済系の渡来人が、その頃創建したもので、」とあり、オオヤマツミを祀る三島社としての由緒が記されている。オオヤマツ
	ミとは、一般にはイザナギ・イザナミの神生みによって生まれた「山の神」であり「大山津見神」がこれに当たる(古事記)。
	オオヤマツミそのものにはこれといった事蹟はないが、その子には、八岐大蛇説話に登場するアシナヅチ(クシイナダヒメの父)
	・スサノヲの后カムオオチヒメやニニギの妃コノハナサクヤヒメなどがあり、古代の大王家との関係が深い。また当社辺りの小字
	名が「鴨林」(カンバヤシ)”があることから、何時の頃からか鴨氏が当社辺りにも進出していたとも推測でき、彼らが、従来の
	オオヤマツミに被せて、その祖神を祀ったことから鴨神社を名乗ったとも考えられる。




	全国的にオオヤマツミを祀る神社は多い。祭神として「オオヤマツミ」単独の神社、「コトシロヌシ」を併祭するものもある。

	見てきたように、

	・摂津の三島鴨神社
	・伊予の大三島神社 現大山祇神社(愛媛県大三島町)、推古2年694に摂津三島より遷ると伝えるが、諸説あり
	・伊豆の三島神社  静岡県三島市、大山祇神社の分社という(時期不明)が諸説あり、初め伊豆諸島の三宅島に鎮座したが、後、
			  伊豆下田の白浜海岸を経て現在地へ遷ったという

	の神社を「三・三島社」と称し、摂津の三島社については他と区別するために“鴨”を加えた、と「大阪府誌(1903)はいう。こ
	の三・三島社について、三島鴨神社由緒には、「当社から御魂が遷されて、伊予の「大山祇神社」、伊豆の「三島神社」がつくら
	れ、日本三「三島」として崇拝されるようになり、三社の根源社として、当社は格別に崇められている」とあり、鴨神社由緒には
	「当社・オオヤマツミを守護神とする百済系の三島氏が百済との海上交易を深めるため、当摂津国から愛媛県の伊与大三島に「三
	島大社」を勧請し、後の三島水軍・村上水軍の守護社となった。また、伊豆にも東上し、伊豆の「三島大社」を起こすなど、当社
	は全国千数百の三島神社発祥の大本の地である」と記され、両社とも「三島鴨神社発祥の地」は当社だと主張しているのである。

	ここ鴨林の「鴨神社」は今でこそ住宅地で一杯だが、その昔は深い森だったと云われ、淀川からは離れているが、鴨族が舞い降り
	た神社として相応しくも思える。両社とも「オオヤマツミ」と「コトシロヌシ」を祭神としているが、延喜式に記されている「三
	島鴨神社」の祭神は一座であって、それは果たして「オオヤマツミ」なのか或いは「コトシロヌシ」なのか。いずれかは後世の追
	祀かと思われるが、もう誰も知る人はいない。



しばし休憩をしていると、宮司さんが車で到着。挨拶を交わし早速ご説明を聞く。




	「大山祇神(おおやまつみのかみ)は、大いなる山の神様で、海の神様は、綿津見神(わたつみのかみ)。共に、イザナギ・イザ
	 ナミの息子です。事代主神は、大国主命の息子で、託宣の神様です。
	 コトシロヌシを三島神社の祭神とすることについては、伊豆国賀茂郡に坐す三島神がコトシロヌシで、これが伊予の三島神と同
	 体だから、摂津の御島神社から移動していったと考えられます・
	 しかし、式内・三島鴨神社が「鴨」を冠することからみて、葛城の鴨(賀茂)氏との関係も全く無視は出来ないかもしれません。
	 現在、三島江に「三島鴨神社」がありますが、あそこはここから移って行ったと言われております。」

	と大体このようなことを喋っておられたと思う。


	新撰姓氏禄には、賀茂(鴨)を名乗る氏族として

	 @山城国神別(天神) 賀茂県主  神魂命孫武津之身命之後也
	 A山城国神別(天神) 鴨県主  賀茂県主同祖  
	  神武天皇欲向中州之時、山中嶮絶、跋渉失路、於是 神魂命孫鴨建津之身命、化如大烏翔飛奉導、天皇嘉其功、特厚褒賞。
	  天八咫烏之号、従此始也
	 B大和国神別(地祇) 賀茂朝臣  大神朝臣同祖  大田田祢古命孫大賀茂都美命(大賀茂足尼・大鴨積)奉賀茂神社也
      (大賀朝臣−−大和国神別(地祇) 素佐能雄命六世孫大国主之後也)
	 C摂津国神別(地祇) 鴨部祝  賀茂朝臣同祖  大国主神之後也
	 D左京皇別  鴨県主  治田連同祖  彦坐命之後也
	  (治田連−−開化天皇皇子彦坐命之後也)
	 E摂津国皇別  鴨君  彦坐命之後也

	の六氏を記録している。

	@Aの賀茂県主系は、所謂“山城賀茂”といわれる氏族で、神武天皇が熊野の山中で道に迷ったときヤタガラスとなって導いた賀
	茂建角身命(タケツヌミ)を始祖とし、溯れば神魂命(カミムスヒ)に至る。京都・葛野地方を本拠とし、山城賀茂氏関係の神社
	として上賀茂(カモワケイカヅチ)・下鴨(タケツヌミ・タマヨリヒメ)の両社がある。
	BCの賀茂朝臣系は、“葛城賀茂”といわれる氏族で、オオモノヌシの子のオオタタネコの孫・大鴨積命(オオカモツミ)を始祖
	とし、葛城を本拠とする。葛城賀茂氏関係の神社として高鴨神社(アジスキタカヒコネ)・鴨都波神社(コトシロヌシ)がある。
	DEは開化天皇の皇子を始祖(皇別)とし、上記氏族とは別系統と思われるが、詳細不明。

	この山城賀茂と葛城賀茂の関係については、その祖神が異なることから別々の氏族とする説、葛城賀茂が山城に進出したのが山城
	賀茂とする説などがあり定説はない。
	この「鴨神社」に関係する鴨氏は、もし関係あるのならだが、オオクニヌシの御子・コトシロヌシを祀ることからみて葛城賀茂の
	系統であろうと思われる。




		全国の「加茂、鴨、賀茂神社」 延喜式より抜粋。

			石川県		賀茂神社  		河北郡宇ノ気町横山  
			群馬県  	賀茂神社  		桐生市広沢町  
			茨城県  	鴨大神御子神主神社  	西茨城郡岩瀬町加茂部  
			静岡県  	加毛神社  		賀茂郡南伊豆町下加茂  
			岐阜県  	加毛神社  		安八郡輪之内町  
			三重県  	鴨神社  		度会郡玉城町山神
					(皇大内) 	鴨神社  		員弁郡大安町丹生川上  
					賀毛神社  		員弁郡北勢町垣内  
			兵庫県  	神野神社  		氷上郡氷上町御油  
					鴨神社  		氷上郡市島町梶原  
					賀茂神社 		 洲本市上加茂  
			島根県  	賀茂那備神社  		隠岐郡西郷町大字加茂  
			岡山県  	鴨神社  		赤磐郡吉井町仁塀西  
					鴨神社  		御津郡加茂川町上加茂  
					鴨神社 			玉野市長尾  
			徳島県  	鴨神社  		三好郡三加茂町加茂  
			香川県  	鴨神社  		坂出市加茂町  
					神野神社  		仲多度郡濃満町  
			高知県  	土佐神社  		高知市一宮町  
					賀茂神社  		幡多郡大方町  
			大阪府  	鴨田神社 		堺市宮山台  
					三島鴨神社  		高槻市三島江  
					鴨神社  		高槻市赤大路町鴨井  
					鴨神社 			川西市加茂  
					鴨神社  		八尾市神立(玉祖合祀)  
					鴨高田神社  		大阪市高井田  
			京都府  	賀茂別雷神社 		京都市北区上賀茂  
					賀茂御祖神社  		京都市右京区下鴨  
					岡田鴨神社 		 相楽郡加茂町  
			奈良県		鴨都波神社 		御所市御所  
					高鴨神社  		御所市鳴神  
					高市御県坐鴨事代主神社  橿原市雲梯町



摂津名所図会「三島鴨神社」。下辺は淀川のようでこれが淀川だとすれば、「三島鴨神社」は淀川縁の三島江にあった事になろうか。


	延喜式神名帳	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時
	「官社」とされていた全国の神社一覧である。延喜式神名帳に記載された神社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜
	式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。

	<概要>
	元々「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成していた官社の一覧表のことで、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅
	列されており、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒な
	どについては記載がない。延喜式神名帳とは、延喜式がまとめられた当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載
	された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座である。

	式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反
	映されている。当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外
	社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺で
	あると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含ま
	れる。式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社で
	あるものも含む)。

	<式内社の社格>
	式内社は各種の種別がある。まず官幣社と国幣社の別である。官社とは、毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社の事
	であり、各神社の祝部が神祇官に集まって幣帛を受け取っていた。これが、延暦17年(798年)、それまで通り神祇官から
	幣帛を受ける官幣社と、その国の国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。式内社では、官幣社が573社737座、国幣
	社が2,288社2,395座である。国幣社が設けられたのは、遠隔地の神社では祝部の上京が困難であるためとされている
	が、遠隔地でも重要な神社は官幣社とされている。

	次が大社と小社の別である。この別はその神社の重要度や社勢によって定められたと考えられている。官幣社・国幣社および大
	社・小社は全ての式内社について定められているので、式内社は以下の4つのいずれかに分類されることになる。

	官幣大社 -- 198社304座 
	国幣大社 -- 155社188座 
	官幣小社 -- 375社433座 
	国幣小社 -- 2133社2207座

	官幣大社は畿内に集中しているが、その他の地方にも分布している。官幣小社は全て畿内に、国幣大社・国幣小社は全て畿外に
	ある。なお、近代社格制度にも同じ名称の社格があるが、式内社の社格とはその示す意味が異なる。また、近代社格制度の社格
	は延喜式における社格とは関係なく、制定時の重要度や社勢に応じて定められている。

	式内社の中には、祈年祭以外の祭にも幣帛に預かる神社があり、社格とともに記されている。

	名神 -- 特に霊験著しい「名神」を祀る、臨時祭の名神祭が行われる神社。全てが大社であることから名神大社(名神大)と云う 
	月次 -- 月次祭(6月と12月の年2回行われる祭)に幣帛を受ける神社 
	相嘗 -- 相嘗祭(新嘗祭に先立ち新穀を供える祭)が行われる神社 
	新嘗 -- 新嘗祭(毎年11月に行われる一年の収穫を祝う祭)に幣帛を受ける神社 

	<論社>
	式内社の後裔が現在のどの神社であるのかを比定する研究は古くから行われている。神社の社名や祭神、鎮座地が変更されてい
	たり、他の神社に合祀されていたり、また、一度荒廃した後に復興されたりした場合、式内社の後裔と目される神社が複数にな
	ることがあり、その場合それぞれの神社を論社という。論社には、他者の研究によって後裔社だとされることもあるが、その神
	社自らが式内社であると主張する場合も多く見られる。

	<関連資料>
	・式内社調査報告,式内社研究会編,皇學館大學出版部 1977-86 
	・式内社の研究,志賀剛,雄山閣 1977-87 
	・延喜式神名帳の研究,西牟田 崇生,国書刊行会 1996 


	以下は、栗本さんのご友人がこの神社を訪問し、宮司さんから貰ったということで栗本さんへ送ってくれたもの。栗本さんから
	頂いたのでここに掲載する。(2011.6.末)




邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 166回例会・高槻市・摂津富田