Music: Woman in red

歴史倶楽部 第166回例会 6月5日
大田茶臼山古墳(継体天皇藍野稜)



	今回このHP製作にあたって「天皇陵めぐり」の「継体天皇陵」のコーナーを読み返して見たが、全く修正する箇所は見あたらないので、
	そっくりそのままここへ転載する事にした。所々今回訪問時のコメントも入れてあるが、基本的には全くのコピーである。


	<第26代 継体(けいたい)天皇>

	異称    :  男大迹尊(おおどのみこと:日本書紀)、哀本杼命(おほどのみこと:古事記)
	生没年  : ? 〜 継体天皇25年 42歳(古事記)、82歳(日本書紀)
	在位期間 : 武烈8年+?(継体天皇元年) 〜 継体天皇25年
	父    : 彦主人王(ひこうしのおおきみ:応神天皇5世の孫)
	母    : 振媛(ふるひめ:垂仁天皇7世の孫)
	皇后   : 手白香皇女(仁賢天皇皇女・武烈の妹)
	皇妃   : 目子媛(めのこひめ)、稚子媛(わかこひめ)、広媛(ひろひめ)、麻績娘子(おみのいらつめ)、
    	   関媛(せきひめ)、倭媛(やまとひめ)、夷媛(はえひめ)、広媛2(ひろひめ)
	皇子皇女 : 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと:欽明天皇:母は手白香皇女)、
		   勾大兄皇子(まがりのおおえ:広国排武金日尊:安閑天皇:母は目子媛)、
		   檜隈高田皇子(ひのくまのたかた:武小広国排盾尊:宣化天皇:母は目子媛)、
		   他皇妃との間に18人
	宮    : 樟葉宮(くずはのみや:大阪府枚方市楠葉)→ 筒城宮(つづきのみや:京都府京田辺市)→
		   乙訓宮(大阪府三島郡)→ 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:奈良県櫻井市)
	陵墓   : 三島藍野陵(みしまのあいのみささぎ:大阪府高槻市)





	古代に2度王朝の交代劇があった!

	記紀によると新羅出兵から戻った神功皇后は、九州筑紫で第15代応神天皇を生んだ。つまり応神天皇は九州から大和にやってきて即位
	するというわけで、この時大和で王朝の交代があったのではないかと考えられる。
	たとえば応神天皇以前の、第12代景行(けいぎょう:けいこう)天皇から、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、神功皇后までの呼名はそれぞ
	れ、「大足彦(おおたらしひこ)」「稚足彦(わかたらしひこ)」「足仲彦(たらしなかひこ)」「気長足姫(おさながたらしひめ)」とあるようにタラシ
	という語がつくが、応神の名は「誉田(ほんだ)」というようにそれがなく、簡潔なものに一転している。




	第26代継体天皇の時にも王朝が交代したのではないかと言う説がある。その理由は次のようにいくつか挙げられる。

	仁徳天皇より続く血筋が第25代の武烈天皇の死で途絶えたとき、記紀には越前の国にいた応神天皇の5世の孫である継体(母は垂仁天
	皇の7世の孫)が即位したと記されているが、その間の系譜にはまったく触れられていない。このような記述の仕方は異質である。
	継体天皇が即位した場所は現在の大阪府枚方市楠葉で(我が家は長男が産まれてから7年この楠葉に住んでいた。)それまで都が営ま
	れてきた大和や河内から遠く離れている。しかも継体が大和に入ったのは即位から20年後(「日本書紀」別記では7年後)であること
	から、対立する勢力が大和にいたことをしめしているのではないか。




	継体という諡号(しごう)は跡継ぎの意味だが、「日嗣の皇子(ひつぎのみこ)」の嗣の字には血縁関係のある継承の意味があっても、
	継の字にはそれがない。つまり継体天応は前天皇と血のつながりがないこと、氏族を異にしているのではないかと推測できること、な
	どである。水野祐氏は応神天皇および継体天皇のとき王朝が交代したのだとする、三王朝交代説を唱えている。
	
	一系とされていた天皇家は崇神天皇からはじまる崇神王朝、応神天皇からはじまる仁徳王朝、継体天皇から始まる継体王朝の三王朝に
	分けられる。すなわち現在の天皇家の始祖は継体天皇だということになる。もちろんこの三王朝交代説にはさまざまな反論もあり、定
	説となっているわけではない。しかし天皇家が「万世一系」だとする考え方には多くの疑問があることも事実なのである。
	【(株)学習研究社 1998年6月1日発行 :「天皇の本 −日本の霊的根源と封印の秘史を探る−」より抜粋】


どっかの団体が元気のいいおっさん講師の話を聞いていた。この集団とはこの後アチコチで出くわし、昼食場所も一緒だった。

	日本紀によれば、武烈天皇の崩御後、越前三国の王であった継体を臣下達が探し出し中央に招いたと言う。既に継体は幾人もの妃を持
	ち57歳であった。生前に位を譲る「譲位」を日本で初めて行ったとされる継体は、皇子(安閑天皇)が即位したその日に崩御している。
	また日本書紀は、武烈天皇の残虐非道ぶりを記録しているが、(妊婦の腹を割き胎児を眺めたとか、女と馬を交尾させたとか、生爪を
	はがして芋を握らせたとか)これは、応神・仁徳皇統最後の帝を貶めその非道ぶりを強調することで、続く継体王朝の正当性を強調し
	たものと考えられている。これを見ても継体とそれ以前の王朝とは明らかに対立関係にあったと推測できる。また一説には、継体は近
	江出身の豪族で、北陸・東海の豪族と連合して自力で大王の地位を獲得し、天皇の系譜を継いだ、とも言う。

	継体天皇の時代には、朝鮮においても動乱の様相が濃かった。朝鮮半島内において諸国の勢力が増大して日本の勢力は相対的に低下し
	ていたのである。日本は百済と関係を保っていたが、百済は任那四県の割譲を日本に要求してくる。神功皇后が新羅征伐で勝ち取って
	応神天皇に与えられたそれらの土地を容易く与えてしまう事に対しては、相当な抵抗勢力があったものと思われるが、結局日本はその
	要求を受諾してしまう。しかし、決定した大伴金村は、512年、任那4県を百済に割譲したことで、物部尾輿らの弾劾を受け失脚した。




	学会あげて継体天皇陵は今城塚古墳としているのに、宮内庁はかたくなに太田茶臼山古墳を継体天皇陵とし続けている。まぁ、今城塚
	古墳はその為陵墓参考地にも指定されておらず、高槻市はじめ学究の調査が可能になっているので、考古学ファンとしてはその方がい
	いような気もする。もしかしたら、ここは全国で唯一、天皇陵に調査が実施されているところかもしれないのだ。一番いいのは勿論、
	「三島藍野陵」にもちゃんとした学術調査を行った方がいいのはわかり切っている。考古学者を入れれば、いずれが天皇陵かはっきり
	するし、継体天皇実在の信憑性も高いかどうかはっきりするはずだ。




	継体天皇陵、やっぱり別人の墓? 古すぎた埋葬の埴輪  平成14年(2002)11月22日 −Asahi.com−

	宮内庁書陵部は22日、継体天皇陵に指定している大阪府茨木市の太田茶臼山古墳(全長226メートル)の墳丘部で、護岸工事に伴
	って進めている発掘調査現場を報道陣と研究者に公開した。6世紀前半に没した継体天皇の時代より約80年古い5世紀中ごろの埴輪
	(はにわ)が、埋葬された当時の並んだ状態で確認できた。継体天皇陵は「被葬者は別人」とするのが学界での定説だったが、本体の
	墳丘部で継体天皇の没年よりかなり古い埴輪が出たことで「別人説」を裏付ける有力な「物証」になった。
	継体天皇陵は86年にも護岸工事に伴い、周囲の濠(ほり)の外堤が研究者らに公開され、5世紀中ごろの埴輪の破片が確認された。
	今回は古墳の本体である墳丘が初めて部外者に公開された。円筒形や上部がラッパ状の埴輪など、86年に確認されたものと同時代の
	埴輪が多数出土しており、並んだ埴輪もあった。
	86年に堤から出土した埴輪は、形や刻まれた印などから大阪府高槻市の新池遺跡の窯で作られたものとわかった。この窯は科学的な
	年代測定で450年ごろのものと判明。継体天皇の没年は日本書紀では531年とされ、埴輪の年代と一致しないことが指摘され被葬
	者は別人とする説が有力になっていた。
	考古学者の間では、継体天皇の墓は、同古墳から東へ1.5キロ離れた高槻市の今城塚古墳(全長190メートル)だという説が有力
	だ。同古墳は高槻市教委の調査で、6世紀前半の古墳であることが確実になっている。
	しかし、宮内庁は太田茶臼山古墳について「継体天皇の墓ではないという決定的な証拠はない」として、従来の見解を変えてこなかっ
	た。今後、陵墓の指定の再検討を求める声が高まりそうだ。
	明治以後、学問的な裏付けから陵墓が指定変更されたのは、1881年に天武・持統陵が見瀬丸山古墳(奈良県橿原市)から野口王墓
	(同県明日香村)に変更されたケースだけ。天武・持統陵が鎌倉時代に盗掘された時の内部の実況見分記録が前年に京都の寺で見つか
	ったためだ。約240ある古代の陵墓古墳を非公開にしている宮内庁は、災害復旧工事や補修の際に一部を研究者らに限り公開する程
	度だ。太田茶臼山古墳の場合、来年度、墳丘が崩れないよう護岸工事をする予定で、その方法を検討するため、10月から墳丘のすそ
	部分の30カ所で発掘調査を実施。それに合わせて公開に踏み切った。 (14:41)

	 継体天皇陵(手前)と今城塚古墳(奥)=大阪府茨木市で、本社ヘリから 




	また継体天皇21年には、筑紫の国造磐井が反乱を起こす。これについてもはたして反乱なのか、大和朝廷の理不尽な地方圧政なのか
	は意見の分かれるところである。これについては「遺跡・旧跡巡り」の「岩戸山古墳 −筑紫国造磐井の墓− 」をご覧いただきたいが、
	書記によれば、磐井は新羅と通じており、百済を助けようとした援軍を遮り、筑紫の御井(現福岡県三井郡)で官軍と戦い、大敗した
	となっている。磐井は、22年11月、朝廷の派遣した物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の軍と戦って敗死したという。

	磐井の墓については延べたように福岡県八女市にある「岩戸山古墳」がそれにあたるとされており、全長132mの北部九州最大の古
	墳である。この古墳は石人石馬を伴っていて、『筑紫の国風土記』の記す内容とよく符合することから、筑紫の磐井の墳墓にほぼ間違
	い無いのではないかとされている。国造級の被葬者の名前が判明する前方後円墳として重要であるが、この古墳のおおよその築造年代
	は、発掘されているわけではないの確かな年代ではないが、「六世紀型古墳群」に属していると言われる。

	継体天皇陵とされる太田茶臼山古墳は、かなり典型的な「五世紀型古墳」であり、古墳の型式においては応神天皇陵古墳よりも古い特
	徴を持っている。太田茶臼山古墳を継体天皇陵と見るのは、古墳の型式による編年と合致しないし、今城塚古墳は、「六世紀型古墳群」
	に属していることは明らかなので、継体天皇と同時代の筑紫の磐井の墓とされる岩戸山古墳ときわめて近い形をしている。今城塚古墳
	は、その場所や古墳の型式から見て、継体天皇の墓とみてよく、岩戸山古墳とともに520〜530年ごろに造られたものであろう。 
	さらに、継体天皇の妃の「目の子媛の墓」という説がある断夫山古墳ともほぼ同じ形をしている。 


	継体天皇陵古墳(太田茶臼山古墳)、今城塚古墳、岩戸山古墳の比較   

				継体天皇陵古墳m(%)    今城塚古墳m(%)    岩戸山古墳m(%) 
	墳丘全長		 226(100) 		190(100) 	132(100) 
	後円部径 		 135(60) 		100(53) 		  70(53) 
	後円部高さ 		   19(8.4) 		    9(4.7) 	  13.5(10.2) 
	前方部幅 		 147(65) 		140(74) 		  95(72) 
	前方部高さ 		   20(8.8) 	          12(6.3)          13.5(10.2) 
	前方部幅/後円部径 	     1.09 			1.40 		    1.36 
	(邪馬台国の会HP 247回講演会より)








	現在の学界の定説では、太田茶臼山古墳は継体天皇陵ではなく、近くにある今城塚古墳が真の継体天皇陵であるということになってい
	る。ここを継体天皇陵とするには大きな疑問があるのだ。1986年に行われた濠の外堤の調査時に発掘された埴輪などの出土品から、
	この古墳は5世紀前半から中頃にかけて造られたと考えられているが、継体天皇は日本書紀によれば西暦531年(6世紀)に没して
	いるので、両者の間は約百年近くズレている。また、2002年11月22日のマスコミ報道で、10月からの発掘調査の結果、5世
	紀中頃に造られた埴輪が、埋葬された当時の状態で墳丘本体上に確認されたという。(上記 asahi.com記事参照)
	このことは、この古墳の被葬者は継体天皇でないことを裏付ける有力な証拠になるとされた。 

	<継体天皇陵>

	この古墳は「継体天皇三嶋藍野陵」と呼ばれ、低い台地上に築造された一重の濠をもつ大きな前方後円墳です。規模は、全長226m、
	前方部幅147m、長さ117m、高さ19.8m、後円部径138m、高さ19.2mを測り、前方部端の幅と後円部の径があまり
	違わないこと、平坦地に造られていること、出土埴輪の形式などによって、古墳時代中頃のものであると考えられています。
	継体天皇は、第26代の天皇で「日本書紀」などによると、応神天皇から5代の子孫で、第25代武烈天皇の後継者がなかったため、越
	前(福井)から迎えられ、西暦507年に樟葉宮(枚方市付近)で即位され、その没年は西暦531年頃で、「三嶋藍野陵」に葬られたと
	されています。
	昭和63年7月、御陵外側の西南部(前方部側)において、茨木市教育委員会が発掘調査を行ったところ、前方部の外堤と平行に円筒埴
	輪が並んだ状態で検出されました。また、昭和47年8月、大阪府教育委員会が調査された御陵外側の西北部(後円部側)においても、
	同様の円筒埴輪が検出されています。
 	(茨木市教育委員会)





	現在、天皇陵とされているものの多くは確証がなく、かなり不確実なものが多いとされているが、宮内庁としてはこの太田茶臼山古墳
	を継体天皇陵の指定から外すことは現状では考慮していないという態度を崩していない。過去、天皇陵の指定が変更された例は極めて
	希であり一例あるのみといわれる。 

	日本書紀では、継体天皇25年(531年)2月に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩御したとあり、同じ年の12月に藍野
	陵に葬られたという。古事記は三島の藍の御陵としている。
	現三島藍野陵は、江戸時代中期に継体天皇陵に比定されたが、文献史学の立場からは、延喜式記載の所在地と異なるという問題点が早
	くに指摘されていた。さらに、出土埴輪の特徴は5世紀中頃のものと考えられているので、考古学的にも527年 (古事記) 〜 534
	年 (日本書紀或本云) に没した継体天皇の陵では在り得ないという意見が研究者の大勢を占める。
	これに対し、東へ1.5km程の所に所在する今城塚古墳は、所在地および考古学的に推定される築造年代が、文献に記される継体天
	皇陵としての条件に合致する上、当該期の古墳の中では隔絶した規模を持っており、こちらこそが真の継体天皇陵と考えられている。
	なお、現在知られている当古墳出土埴輪の殆どは、これから行く新池埴輪遺跡(現公園)で製作されたものである事が明らかになって
	いる。




	もしかしたら宮内庁は、今城塚古墳がほんとの継体天皇陵という事はもうとっくに知っていて、唯一掘れる大王墓として黙認している
	のではなかろうか? 有る程度の成果が出た時点で、「さぁもういいでしょう。十分掘ったでしょうから、後はこちらで管理します。」
	と、その時が来れば、陵墓変更に応じるのかもしれない。寛容な宮内庁であるうちに、掘って掘って掘りまくった方が賢明だろう。今
	こそ、「登呂遺跡」を掘ったときのような、大調査団を組織して、一気に「継体天皇陵」を発掘すべきではないか。高槻市だけでやっ
	てると、その内宮内庁が「さぁ、そろそろ。」と言い出さないとも限らない。今のうちだ! <2002.11.23 21:20PM>



	今回の例会フルメンバー。私は、もう写真合成にも飽きたので今回はパス。全員ポケットに「携帯天皇」を持ってます。今の日本人の
	若者の携帯電話依存度は、NYK のハーレムにいる麻薬患者と同じである。重傷患者は、これがなければもう生きていけない。そういう
	意味においては、継体天皇はいまこそ日本民族を支配下においたのかもしれない。知らないうちに、我々は「携帯天皇の僕(しもべ)」
	となってしまっているのだ。




継体天皇の出自については学会でも諸説紛々で様々な見解が提出されている。以下でその検証を行っている。(帰りはブラウザの「戻る」で。)



	
	【袁本杼命】繼體天皇 (古事記)

	品太王五世孫、袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。
	天皇、三娶尾君等祖、名若比賣、生御子、大郎子。次出雲郎女。【二柱】
	又娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女、生御子、廣國押建金日命。次建小廣國押楯命。【二柱】
	又娶意祁天皇之御子、手白髮命、【是大后也。】生御子、天國押波流岐廣庭命。【波流岐三字以音。一柱】
	又娶息長眞手王之女、麻組郎女、生御子、佐佐宜郎女。【一柱】
	又娶坂田大俣王之女、黒比賣、生御子、神前郎女。次田郎女。次馬來田郎女。【三柱】
	又娶茨田連小望之女、關比賣、生御子、茨田大郎女。次白坂活日子郎女。次野郎女、亦名長目比賣。【三柱】
	又娶三尾君加多夫之妹、倭比賣、生御子、大郎女。次丸高王。次耳(上)王。次赤比賣郎女。【四柱】
	又娶阿倍之波延比賣、生御子、若屋郎女。次都夫良郎女。次阿豆王。【三柱】
	此天皇之御子等、并十九王【男七。女十二】此之中天國押波流岐廣庭命者、治天下。
	次廣國押建金日命、治天下。
	次建小廣國押楯命、治天下。
	次佐佐宜王者、拜伊勢神宮也。
	此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。
	天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。
	
	【袁本杼命(おほどのみこと)】繼體天皇

	品太(ほむだ)の王の五世の孫、袁本杼(をほど)の命、伊波禮(いはれ)の玉穗(たまほ)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
	天皇 三尾の君等の祖、名は若比賣を娶りて生みし御子は、大の郎子。次に出雲の郎女【二柱】。
	また尾張の連(むらじ)等の祖、凡(おほし)の連の妹、目の子の郎女を娶りて、生みし御子は、廣國押建金日(ひろくにおした
	けかなひ)の命。次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命【二柱】。
	また意富祁(おほけ)の天皇の御子、手白髮の命【是は大后也】を娶りて生みし御子は、天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるき
	ひろにわ)の命【波(は)流(る)岐(き)の三字は音を以ちてす。一柱】。
	また息長(おきなが)の眞手(まて)の王の女、麻組(おくみ)の郎女を娶りて生みし御子は、佐佐宜(ささげ)の郎女【一柱】。
	また坂田の大股(おおまた)の王の女、K比賣を娶りて生みし御子は、~前(かむさき)の郎女。次に茨田(うまらた)の郎女。
	次に馬來田(うまぐた)の郎女【三柱】。
	また茨田の連、小望(おもち)の女(むすめ)、關比賣(せきひめ)を娶りて生みし御子は茨田の大郎女。次に白坂の活日(いく
	ひ)の郎女。次に野の郎女、またの名は長目比賣(ながめひめ)【三柱】。
	また三尾の君、加多夫(かたぶ)の妹、倭比賣(やまとひめ)を娶りて生みし御子は、大郎女。次に丸高(まろたか)の王。次に
	耳(みみ)の王。次に赤比賣の郎女【四柱】。
	また阿倍(あべ)の波延比賣を(はえひめ)娶りて生みし御子は、若屋(わかや)の郎女。次に都夫良(つぶら)の郎女。次に阿
	豆(あづ)の王【三柱】。
	此の天皇の御子等は并せて十九(とおあまりここのはしら)の王【男七はしら。女十二(とおあまりふた)はしら】。
	此の中に天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろにわ)の命は天の下治しめしき。次に廣國押建金日(ひろくにおしたけかな
	ひ)の命、天の下治しめしき。次に建小廣國押楯(たけおひろくにおしたて)の命、天の下治しめしき。次に佐佐宜(ささげ)の
	王は伊勢の~の宮を拜(おろが)みき。
	此の御世に竺紫(つくし)の君、石井(いわい)、天皇の命(みことのり)に從わずて、多(さわ)に禮(あや)无(な)し。故、
	物部(もののべ)の荒甲(あらかい)の大連(おおむらじ)・大伴(おおとも)の金村(かなむら)の連の二人を遣して、石井
	(いわい)を殺しき。
	天皇の御年は肆拾參歳(よそあまりみとせ)【丁未(ひのとひつじ)の年の四月(うづき)九日(ここのか)に崩(かむざ)りき】。
	御陵(みささぎ)は三嶋(みしま)の藍陵(あいのみささぎ)也。


邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 166回例会・高槻市・摂津富田