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下之郷遺跡・環濠保存施設 歴史倶楽部 第169回例会 9月25日(日)






	遺跡側から「環濠保存施設」へ入る。後で判ったが、こちらは裏側の出口だった。「環濠保存施設」という名前なのも後で判ったが、
	ヘタな資料館よりも展示は充実していた。15分ほどの Videoを見ると、この遺跡の成り立ちからその意義まで、全般的に理解できる
	ようにやさしく説明してくれていて非常に有効だった。解説してくれたオジサンもここの生まれらしく、「私らが小さい頃は・・・」
	という話も聞けて楽しかった。




	復元遺跡のほうへ伸びている環濠。黒い部分がこの建物から続いている環濠だ。テントの下へ伸びている。あそこを掘ったら又面白い
	物が出るかもしれない。



入口から環濠が繋がっているのがわかる。下の方に実際の環濠が保存処理されて見学できるようになっている。


























	出土した銅剣(上左)とその復元品(右)

	環濠の底から出土した銅剣は。「中細型銅剣」と呼ばれる種類のものである。北九州から出雲にかけて多く出土し、滋賀県では初めて
	の出土である。また国内では最東端の出土例でもある。出土した銅剣は、通常の物よりも切っ先が短いため、破損した物を研ぎ直した
	ものだろうと考えられている。弥生時代、こういう例は幾つも在り、私の故郷(福岡県朝倉市)出土の銅剣も研ぎ直されて短くなって
	いた。






	「銅戈(どうか)」を取り付ける柄の部分が出土している。「戈」とは長い柄の先に銅製の刃を取り付け、主に戦車の上から敵の首を
	刈る武器であり、中国の戦国時代に類例があるので、大陸から渡来してきた物であるのは間違いない。出土した「戈」の柄は全長56
	cmでヒノキ材を丁寧に削り上げている。柄の先には溝孔が開いており、その孔に青銅の「戈」が装着されていたものと考えられる。






	弥生時代の集落では、子孫繁栄・豊作祈願などのために、様々なマツリが行われていたと考えられる。下之郷遺跡では、環濠から木で
	人をかたどった「木偶(もくぐう)」や、鳥を模した鳥形木製品が出土している。木偶は祖霊をかたどったもので、「祖霊信仰の祭祀」
	に用いられていたものと思われる。鳥は遠方の祖霊や穀物の精霊を迎え入れる力があると信じられていたようで、「悪霊」除け、豊作
	祈願に使われた。神社の鳥居の原型は、朝鮮半島によく見られる。棒の先に鳥形製品を取り付け、ムラの入口の左右に立てて、悪霊が
	ムラへ入ってこないようにしたもので、これが日本の神社の鳥居のもとである。





一寸見、悪役・デカ役専門のシブい2.5枚目風のオジサンが解説してくれる。



我々と比べたら、大人と子供のような感じやね。背も高く映画に出たらデカ長辺りが似合いそうだ。
















	これが環濠の一部と、その中に立っていた杭の復元。この杭は最初吉野ヶ里にあるような逆木かと思ったら、防御用ではなくて水の量
	を調節する「柵」(しがらみ)だそうだ。となると、環濠の主たる目的は灌漑だね。








	左上から、この環濠へ溝が伸びてきている。これは環濠へ水を供給する為か、或いは集落からの排水路か、いずれにしても環濠へ水が
	流れて来ていたのだ。


















磨製石器を作るのにどのくらい時間が掛かるかご存じだろうか?私は一度挑戦してみたことがあるが、1ケ月掛かっても出来なかった。






	弥生時代中期には、様々な石器が使用されている。その種類は、武器や狩猟具から農具や調理具など、日常生活に欠かせないものまで
	多種に渡る。下之郷遺跡でも石器が出土しているが、武器や狩猟具と考えられる物も多数見つかっており、中でも、矢の先に取り付け
	られた「石鏃(せきぞく)」は、磨製石鏃と打製石鏃の2種類が出土している。前者は石を全面に磨いたもので大陸から伝来したと考
	えられ、後者は石を打ち欠いた縄文時代からの伝統を受け継ぐものである。














	夥しい量の木材。下之郷でも、「弥生時代は稲作」を示すように、多数の農具や木製品が出土している。鍬(くわ)先や一本の木で作
	った「一本鋤(すき)」や「一本鍬」などに加えて、脱穀に使用する竪杵(たてぎね)など、用途に合わせて種々の形に加工している。
	また作りかけ木工製品も多く出土しており、ムラで使用する用具は自分たちで作っていたことがわかる。
	また環濠からは、現代のスプーンに似た「杓子(しゃくし)」、皿のような「槽(そう)」、土器の高杯に似せて作った木製の高杯な
	ども出土している。








	土器の出土しない発掘調査というのは無い。どのような遺跡であろうと、まず土器は出土する。ごくまれに出土しない調査もあるよう
	だが、それは特殊な事情により遺跡としての性格が失われてしまったような場合である。通常の古代遺跡の場合、100%土器は出土
	する。そしてそれがその遺跡の年代や時代を決定づけるのだ。
	下之郷遺跡からも夥しい土器が出土しており、その内容は多種多様にわたっている。その検討結果からこの遺跡が弥生時代中期、今か
	ら約2,200年前のものと判明したのである。また東海地方や四国など、他の地方からの土器も出土しており、この時代に既に広範
	囲にわたった交流・交易が行われていた事も明らかになった。




	土器の形や文様は、時代を経て大きく変貌してゆくが、それを製作・使用した地域や集団によってある程度固有のものをもっている。
	それではこの近江地方、湖南地方に独自の形式というのはあるのだろうか。通常弥生土器は、縄文土器と比較すると機能的でシンプル
	なものである。ところが弥生時代中期の近江では、煮炊きに使う甕を飾り立て、口縁部が受け状になる、他の地域とは違う土器が出現
	する。この受口状の口縁や粗いハケ目を地紋として、波状紋、鋸歯文、刺突紋などによる独自のデザイン構成は壺や鉢にも応用され、
	受口状口縁土器群は近江特有の土器として確立してゆく。











温帯ジャポニカに比べて熱帯ジャポニカは背丈が倍近くある。




	「木盾」(手前)、奧にある槍のようなものは「かざり弓」

	出土した楯は全長105cmあり、ほぼ完形だった。これまで出土している弥生時代の盾は、板材にモミを用い、表面に顔料を塗ったり
	している例が一般的である。それらと比較すると、この下之郷遺跡出土の盾は、板材にスギを用い、顔料も塗られていない非常に珍しい
	形式である。年輪年代法による測定では一番外側の年輪がB.C.223年のものだった。約2200年前に伐採された木材を使用している。

	外周の溝より出土した「かざり弓」には漆が塗られている。下之郷遺跡からはこれまでに10本以上の弓が出土していて、素材にはイヌ
	ガヤなど、弓を射る際に不可欠な弾力を持った木材が使用されている。中には樺(かば)が巻かれていたり、漆が塗られたりした弓も出
	土しており、単に戦闘に用いられただけではなく、マツリに使用された可能性も指摘されている。







籠目(かごめ)土器











当時の暮らしを再現した生活(?)コーナー。当時の暮らしぶりがわかる。






























	実は入ってきた反対側がこの史跡公園の入口で、こっちが公道に面している。「これからどこまで行くの?」とオジサンに聞かれて伊勢
	遺跡までは遠いかと聞くと「相当あるよ。」との事だったのでタクシーをよんでもらった。「すぐ来るよ」という言葉通り、2,3分で
	どっかからスーッという感じでタクシーが入ってきた。



タクシーが来るまで見送ってくれた説明員のオジサン。ホンマに、昔俳優か何かやってなかったのかな?色々ありがとうございました。



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