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下之郷遺跡 守山市立下之郷史跡公園 歴史倶楽部 第169回例会 9月25日(日)

	下之郷遺跡	国指定史跡(再掲)

	下之郷町一帯に広がる紀元前1世紀(弥生時代中期)の巨大環濠集落跡で、村の周りに九重もの環濠が巡らされています。集落内部には
	四角い囲みや大型建物跡、井戸跡などがあり、銅剣、石やじり、弓、盾などの武器・武具や、動物や魚の骨、植物の種などが見つかって
	います。当時の社会や生活がよくわかる、滋賀県下最大の環濠集落で、国の指定史跡です。






	下之郷遺跡  国指定文化財
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	名        称 	: 下之郷遺跡(しものごういせき) 
	文化財の種類 	: 国指定重要文化財 史跡  
	文化財の指定日 	: H 14.3.19  
	大きさ / 時代 	: 2,866.5u 弥生時代 
	文化財の所在地 	: 守山市下之郷(下之郷史跡公園) 
 
	昭和55(1980)年の公共下水道工事で弥生時代の溝、柱穴が検出され、弥生土器、石鏃が出土したことから、下之郷遺跡と命名された。
	その後、下之郷町一帯で行われる工事に伴って発掘調査を実施し、下之郷遺跡が3条以上の環濠を巡らせる、巨大な環濠集落であること
	が判明した。平成10年、市道改良工事で発掘調査を実施した結果、6条の環濠、円形壁立式建物、遺跡中央部で方形区画溝や掘立柱建
	物などが発見された。それにより当遺跡が滋賀県最大の環濠集落であり、当時の政治動向や社会、人々の生活を窺う出土品が豊富に埋蔵
	され、自然環境も復原できる遺跡であることが判明し、平成14年3月に国指定史跡となった。







藁葺き小屋を復元作業中だったが、それを監修していた教育委員会(?たぶん)の人に遺跡の説明を聞く。




	守山市は、この遺跡から出土したイネの種子について、元静岡大学農学部助教授であった佐藤洋一郎氏にDNA鑑定を依頼している。そ
	の結果、ここで温帯ジャポニカ種だけでなく、熱帯ジャポニカの存在も確認された。これは直播き、即ち陸稲(おかぼ)があったことを
	示しているが、陸稲は江戸時代にもあるので、弥生時代から最近まで日本では栽培されていたのである。これはイネが南方からも渡来し
	てきた証拠である。



クリックすれば大画面パノラマ写真になります。(て、いうか、これがデジカメ元々の大きさなんですけどね。)




	佐藤洋一郎氏は、1992年「アッサム・雲南起源説」と稲の祖先の一元論を否定して、ジャポニカだけが長江中・下流域で生まれたという
	「ジャポニカ長江起源説」を発表した事で有名だが、その論旨は以下のようである。

	(1).今までの史観では、弥生時代に現在へ繋がるような稲作が始まったという事になっているが、私は最近これに異論を唱えている。
	(2).弥生時代には水稲は来なかった。発掘されて、従来水田跡と言われてきた部分は、実は大半が休耕田である。
	(3).弥生時代の稲作の跡と言われている所から出土する稲は、その一部が熱帯ジャポニカと言われる種類で、これは縄文時代の稲が
	    弥生時代になってもそのまま栽培されていた事を示しており、古墳時代にもこの傾向は続き、江戸時代になっても熱帯ジャポニ
		カの稲は出土する。
	(4).結論として、弥生時代に外部からやってきた稲はあったとしても極めて少ないと考えられる。弥生時代=稲作という概念は今後
	    改める必要があろう。

	さらに焼き畑耕作について、

	●従来考古学者達は、縄文時代に稲作があったということをなかなか認めようとしなかった。これは遺跡から水田跡が発見されないから
	 であるが、稲作=水田稲作という図式は実は正しくない。インドシナ半島辺りで行われている焼き畑での稲作(陸稲)などは非常に高
	 い生産性を上げているし、我が国の初期の稲作もこの焼き畑、或いは直播きによる稲作であろうと考えれば、水田はなくて当然なのだ。
	●そして、縄文時代に栽培されていた稲は、現在の温帯ジャポニカではなく、熱帯ジャポニカといわれる種類のものだったと考えられる。
	●ここに、縄文時代=熱帯ジャポニカ、弥生時代=温帯ジャポニカという稲作史論が登場したが、弥生遺跡に於ける稲のDNA鑑定の結
	 果では、これも疑わしい。
	 ★青森県・高樋V遺跡から出土した炭化米のDNA鑑定によれば、熱帯ジャポニカに特徴的な「7C6A」という配列を示していた。
	 ★上記以外にも、弥生時代の遺跡として有名な以下の遺跡群からも熱帯ジャポニカは出土し、その割合は決して少なくないし、また調
	  査した遺跡もほぼ全国に渡っている。
		・下之郷遺跡(滋賀県守山市)・唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)・池上曽根遺跡(大阪府泉大津市)
		・菜畑遺跡(佐賀県唐津市)・妻木晩田遺跡(鳥取県淀江町)・登呂遺跡(静岡県静岡市)等々
	 ★この範囲は東北北部から九州地方北部に及んでおり、このことは、弥生時代日本列島の大方の場所では、水田で熱帯ジャポニカが栽
	  培されていた事になる。
	●熱帯ジャポニカはいつ何処で生まれたのか? 世界で最も古い稲作の跡が、中国・長江の中・下流域である事はほぼ疑いがない。
	 約7,000年前のイネの籾が出土している。ここでは多量の炭化米の中に野生イネの種子も混じっていた。江西省の仙人洞遺跡からは、
	 11,000年ないし16,000年前の地層からイネの微化石が見つかっているから、長江中下流域がイネの起源地である事はまず確かだろう。
	●長江域で出土した炭化米から取り出したDNAを分析すると、20粒すべてジャポニカで、20粒のうち2粒が熱帯ジャポニカだった。
	  残りは熱帯ジャポニカか温帯ジャポニカか判別できなかった。想像だが、長江域に発生したジャポニカは熱帯ジャポニカだったとも
	 考えられる。
	●では温帯ジャポニカの起源はどこだろうか。現在、この問題に迫るアプローチは見つかっていない。
	●長江流域で水田稲作が生まれ、それに適応する形で熱帯ジャポニカの一部が温帯ジャポニカに変化していったという仮説を立てると、
	 温帯ジャポニカもまた、長江流域で発生したという仮説が成り立つ。
	 ★遺伝子は、遺伝情報の担い手で4種類の塩基(A,T,C,Gと書くならわしである)の並びによって必要な情報を書きあらわしている。
	 一方DNAには、何の遺伝子情報も持たないのりしろのような部分が存在する。
	 ★SSR領域とは、AAAAA・・・ や、TATATA・・などのように、短い配列(Simple Sequence)の繰り返し(Repeat)のことで、頭文字を取
	 ってSSRと呼ばれるが、SR領域はこの「のりしろ」の部分に多くが見つかり、何の情報も含んでいず、個体や品種のSSR領域の
	 配列には変形版が非常に多い。この、変形版が多いという性質を利用してイネの品種をきちんと区別できるようになる。
	●中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaから
	 hまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると以下の図のようになる。(略)
	●中国には8種類全ての変形が存在し、朝鮮にはbを除く7つが存在するのに、日本の品種の多くはaまたはbに限られている。
	●aからhのタイプが「中立」だった事を考えると、日本列島に運んでこられた水稲の量がわずかだった、という推論が成り立つ。
	 (このあたりはちょっと理解できなかった。)
	●SSRの多型を調べてみたら、以外にも日本列島に渡ってきた水稲が小さな集団でしかなかったことがわかる。弥生時代に、多量の水
	 稲が水田耕作の技術とともに渡来したという従来の史観には大きな疑問が生じる。
	●従来、稲の伝わってきたルートは朝鮮半島経由だというのが考古学の結果から推論されていた。しかしSSR多型の観察からは、もう
	 一つの渡来の経路が想定される。
	●それは、8遺伝子のうちb遺伝子が朝鮮半島の在来品種の中に見つからないという点である。にもかかわらず、中国と日本には高い割
	 合で分布している。おそらく過去には、中国大陸から直接日本へ到達するモノの流れがあり、b遺伝子を持つ水稲もそのルートを経て
	 きたものと思われる。また、a遺伝子は中国ではそんなに高頻度では分布しないが、朝鮮半島と日本列島には高い頻度で分布する。こ
	 の遺伝子は朝鮮半島を経てきたと推測できる。
	●唐古鍵遺跡と池上曽根遺跡の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(宇約2100〜2200年
	 前)の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事が
	 わかる。すなわち、2000年前、明らかに中国大陸からb遺伝子を含む水稲が、近畿にも渡来してきたことが実証できるのである。

	【結論 −DNAから見たイネの道−】
	★「縄文の要素」・・・・・イネと稲作は、縄文時代前期の終わり頃はじめて日本列島に渡来した。当時のイネと稲作は現代とは違い、
	 焼き畑式の耕作スタイルに、熱帯ジャポニカと言われる陸稲だった。何処から渡来したかについては明確でないが、柳田国男以来の
	「海上の道」である可能性が濃厚である。
	★「弥生の要素」・・・・・中国大陸長江流域で生まれたであろう水稲(温帯ジャポニカ)は、水田稲作の技術とセットになって、縄文
	 時代晩期の終わり頃日本列島にやってきた。
	★「弥生の要素」には2つのルートがあった。1つは朝鮮半島経由で、稲作技術とともに渡来した。もう一つは中国大陸からのもので他
	 の文化とともに東シナ海を渡って日本列島に達した。(b遺伝子を持つ温帯ジャポニカ)
	★2つの「弥生の要素」は、日本列島で再び一つになって日本列島を東進する。その過程で、池上曽根・唐古鍵遺跡にもb遺伝子を持つ
	 イネが栽培されており、東進の一局面ととらえられる。
	★東進の多くの局面で、「縄文の要素」と「弥生の要素」は併用されていたものと思われる。すなわち、
	★「弥生の要素」は来たものの、温帯ジャポニカはそんなに大量にはやってこなかった。人々は、水田耕作の技術や稲作道具は受け入れ
	 たが、焼き畑耕作の栽培方法は手放さなかった。イネも多くが熱帯ジャポニカのままであった。つまり弥生の人々は「縄文の要素」を
	 脈々と受け継いだのである。「縄文の要素」は中世末頃までは残存した。
	★土地の全面が水田であるような平野の景観や、稲作中心の農村風景は、少なくとも近世に入るまでは存在していなかった。
	
	【講演を聴いての私の感想】
	◆驚いた! 稲の渡来ルートが2つ以上あり、南方の東南アジアから南九州へ、長江下流から東シナ海を抜けて長崎や佐賀の西・北九州
	 に、という仮説は知っていた。しかし、弥生時代に稲穂が実った水田光景など全くなかったという話は想像もしていなかった。驚きだ。
	 DNA分析という自然科学の力を借りての検証だけに、その信憑性は高い。焼き畑稲作! 一体どんな光景だったのだろう。

	以上、
	「学ぶ邪馬台国」の「29.講演会!「見えてきた稲の道」1.基調講演 イネと稲作の日本史 −DNAから見た稲の道−佐藤洋一郎 」から
	転載した。ちなみに佐藤氏はいま京都(大学?)にいるそうで、上記のような事をチラッと喋ったら、「教育委員会(?たぶん)の人」は
	多少びっくりしていた。単なるオッサンの歴史マニア達と思って相手していたのが、「こりゃ、あなどれん」と思ったような感じだった。





ここの遺跡の展示は何というか「案内所」のようなもので、本格的な遺跡は道路を挟んで反対側にあった。









遺跡へ行く道筋にも復元田圃が作ってある。後ろはホンダの配送センターのようだった。










	下之郷遺跡は、弥生時代中期後葉(紀元前3〜前1世紀)の多重環濠集落跡である。集落の外周には3〜9重の環濠が掘られていて、遺
	跡の全体規模は東西約670m、南北約460mで、面積はおよそ25ヘクタールにおよび、近江地域で最大を誇る。環濠の内側、集落
	部分には掘立柱建物、壁立式平地建物、井戸跡などが密集しており、竪穴住居は発見されていない。集落西側の環濠には出入口が確認さ
	れていて、その付近では石剣、石鏃、銅剣、弓などの武器や武具が数多く出土していることから、戦いもあったことが推定される。集落
	の中央部では、およそ東西南北方向に掘られた溝で区画された大型建物跡が複数みつかっており、祭りや政治などを行う特に重要な場所
	ではないかと推定されている。




	<遺跡の特徴>

	(1)土器が大量に出土。井戸からは籠目土器(植物繊維を網目状に編んだもの)やミニチュア製品が出土した。 
	(2)環濠から、磨製石剣、環状石斧、環石、石鏃、石斧など、多種の石器が発見されている。 
	(3)木器には、祭祀用の組物や盾、木偶、装飾弓(漆塗り)、鍬、鋤、容器、杵などがある。 
	(4)金属製品には銅剣がある。また、戈の柄が出土しており、その形状から大阪湾型銅戈が着柄されていた可能性が高いと考えられる。 
	(5)稲籾のDNA分析から、ジャポニカ種の温帯型に加え、熱帯型が確認された。(陸稲の存在)
	(6)環濠から多量の魚骨が発見されています。その骨の多くが琵琶湖の固有種であるゲンゴロウブナの頭骨部分と判明しました。 
	 (7)ウリ科作物(メロン仲間)の果実部分が出土した。当時の食生活の具体的な様子や栽培植物のあり方を探る上で非常に貴重。 
	(8)遺跡中央部には、溝で区画された規則正しい建物配置があり、ここで集落全体の政治や祭祀が行われていたと推測されている。 




	環濠集落は、弥生時代のみの集落形態である。縄文時代にはみられず、古墳時代には姿を消している。ほぼ全国の弥生遺跡群でみられ、
	壱岐の「原ノ辻遺跡」、佐賀の「吉野ヶ里遺跡」、福岡の「平塚川添遺跡」は、九州における三大環濠集落として有名である。この3つ
	の遺跡は、環濠の濠が深く、多重に集落を巡っていてその防御性が高いことから、実際に「倭国大乱」の時代にその渦中にあった集落と
	して、「姉妹遺跡」のネットワークを組んでいる。
	ほかにも、福岡の板付遺跡、大阪の「池上曽根遺跡」、愛知の「朝日遺跡」、静岡の「伊場遺跡」、横浜の「三殿台遺跡」など、小規模
	な集落も含めると環濠集落の数は列挙にいとまがない。しかし、多重環濠、即ち環濠が集落を幾重にも取り囲んでいる遺跡はそう多くは
	ない。「平塚川添遺跡」が、発見当時六重の環濠と騒がれたが、その後「九重」の環濠集落であることが判明した。ここ「下之郷遺跡」
	も同数の「九重」の環濠を持っていた。




	弥生時代の環濠には、実際に水をたたえた「水濠」タイプのものと、水をもたない「空濠」タイプとがあるが、「下之郷遺跡」は実際に
	水が張られた環濠だった。平塚川添遺跡も環濠に水が張られており、その規模も大きく、幅5〜8m、深さ3〜5mとなっているが、こ
	こ下之郷でも幅5〜8m、深さ約2mという規模を持っている。木製品の道具しかない時代に、とてつもない労力を必要としたはずの、
	このような大規模環濠を掘る必要性は一体何であろうか。しかも九重というのは尋常ではない。誰しも第一に考えるのは「集落の防御」
	である。外敵から集落を、或いは蓄えた穀物や食料品を護るための施設である。他にも、田圃へ水を引く為の灌漑用水路、水害よけの防
	災施設、集落の水はけや生活用水の排水路、木工製品の製作過程における貯木場などの説があるが、その幾つかは兼用されているのかも
	しれない。




	この下之郷では、木製の盾や銅かを取り付ける柄などが発見されているし、石製の鏃などもたくさん出土しているので、まず防御施設と
	しての役目が第一番だったのではないだろうか。下之郷では、環濠の中の居住域からは、高床式の掘立柱建物や平地式の壁立式建物など
	が多数発見されているが、竪穴住居は一棟も発見されていない。これはこの遺跡の大きな特徴である。
	集落の西端部の調査では、環濠を横断する土橋状の出入り口が発見されている。出入り口は、環濠の一部を土で埋め戻し、通路状に整え、
	その両側に堅固な柵や門柱が築かれていた。そして周辺から、銅剣をはじめ磨製や打製の石剣、石鏃、焼けたり折れたりした弓などが多
	数発見されている。出入り口付近に堅固な防御態勢を敷き、実際にその付近で戦いもあったのではないかと思わせる状況だ。




	集落の中央部の調査では、南北に伸びる溝と、東西に延びる溝で四角く囲まれた場所が数カ所発見されている。その囲みの中から、棟を
	東西方向や南北方向に整えて建てられた掘立柱建物が多数確認されている。中には独立した棟持柱をもつ大型建物も発見されている。
	環濠内部に区画溝を設ける集落は非常に少なく、吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡、唐古鍵遺跡など、いずれも佐賀・和泉・奈良平野の中で、
	中心的な巨大環濠集落である。これらの建物の役目についても、「祭祀の場」、「首長の居館」、「ムラの集会所」など諸説あるが、そ
	のムラにとって最重要な場所であったことは想像にかたくない。




	遺跡には環濠の一部が復元されて実際に水が張られているが、九州の復元遺跡に比べるとあまりにも小規模である。近畿では既に住居や
	建物が遺跡に密集しているため、広範囲にわたって買い上げたり、公園化したりという事が難しいのだろう。吉野ヶ里や平塚川添などは、
	遺跡のなかへ入っただけでまるで弥生時代にタイムスリップしたような気になるほど、広範囲を歴史公園化している。特に「環濠」集落
	という意味では、日本中で「平塚川添遺跡」の復元を越えるものは今の所ないと言ってよい。



ここにも復元田圃(?)が作られている。これは守山市青年会議所が、付近の小学生と一緒になって作ったものである。










	可動式発掘作業テントの向こうに「環濠保護施設」がある。そこを見に行く。立派な資料館だった。このテントの下はまだ掘っていない
	環濠で、今文化庁に発掘を申請している最中だそうで、許可が下り次第、雨天でも作業できるように天幕がつくられた。










	守山市下之郷遺跡出土のウリ(メロンの仲間)の果実の展示

	守山市下之郷遺跡の弥生時代中期(紀元前2世紀)の環濠から、約10pの植物遺体が出土し、DNA鑑定の結果、ウリ科の果実でメロン
	の仲間であることがわかりました。また、放射性炭素による年代測定で2120±40年前という結果が出て、紀元前の果実遺物であることも
	判りました。この大変珍しいメロン仲間の果実を次のとおり展示公開します。

	  期間 平成19年6月2日(土)、3日(日)午前10時から午後4時まで
	  場所 守山市立埋蔵文化財センター 滋賀県守山市服部町2250番地
	     電話 077−585−4397

	この果実は、保存環境が変化すると崩れる可能性が有りますので、2日間だけの展示とします






 邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 169回例会・下之郷遺跡