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消えてゆく 邪馬台国
2011.4.27 みやま市瀬高を訪問

私はこのHP(邪馬台国大研究)の中の、「邪馬台国比定地一覧」で「山門=邪馬台国説」を紹介し、その案内ガイドも
掲載している。しかしご覧頂いた方はおわかりのように、あれは Virtual Trip である。つまり私自身はその地を訪問し
ていないのだ。
邪馬台国九州説の、いわば老舗であるこの地をいつかは訪ねたいと思っていたが、平成の大合併でとうとう山門郡の地名
がこの世から消えてしまった。山門説のよりどころともなっていた「山門」(ヤマト)という名前が無くなってしまった
のだ。これでは将来、もうここがヤマトと呼ばれていた事を知る人もいなくなり、「ヤマタイコク」と結びつけて考える
論拠も無くなってしまう。いわば、「消えてゆく邪馬台国」なのだ。

大学同窓会の、全国理事会が福岡で開催されたので4月に帰省した。私は関西支部の副支部長を仰せつかっているので、
支部長代理で出席したのだ。往復の運賃、一泊の宿泊費も出してくれるので、時ならぬ里帰りを楽しんだ。理事会の翌日、
実家付近で友人達と会食の予定だったが、夜までは時間があったので迷ったあげく「瀬高」に行って見ようと思い立った。
邪馬台国山門説の本家本元をまだ訪れていないので、ちょうどいい機会だった。JR博多駅から鹿児島本線に乗って「瀬
高」まで、1時間ほどの列車の旅。
<山門郡> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に加筆
山門郡(やまとぐん)は、かつて福岡県にあった郡である。人口 29,537人、面積64.11 km2(2004年)。旧郡域は現在の
柳川市・みやま市の市域にあたる。消滅直前となる2007年1月28日の時点で以下の2町を含んでいた。
瀬高町(せたかまち) 山川町(やまかわまち)
2007年(平成19年)1月29日 - 瀬高町・山川町が三池郡高田町と合併し、みやま市が発足、郡より離脱。同日山門郡は消
滅した。 ちなみに、これまでに筑前・筑後で消滅した郡は以下の通りである。
消滅した、筑紫二国の、郡の一覧
--------------------------------------------------------------------------------
<筑前国>
志摩郡 | 怡土郡 | 早良郡 | 那珂郡 | 席田郡 | 御笠郡 | 糟屋郡 | 宗像郡 | 遠賀郡 |鞍手郡 |穂波郡 | 嘉麻郡 |
夜須郡 | 上座郡 | 下座郡 |
<筑後国>
御原郡 | 生葉郡 | 竹野郡 | 山本郡 | 御井郡 | 三潴郡 | 上妻郡 | 下妻郡 |山門郡 | 三池郡
まったくもって、日本人の郷土愛や歴史・伝統に対する意識の希薄さにはあきれかえってしまう。これらの郡名には記紀
や風土記に出現している地名が沢山あると言うのに。やがて、学者以外には誰もそれも知らなくなってしまうのだ。

途中の駅で見た新興宗教(だと思う)の看板。「善隣教」だって。雨森芳州の「善隣外交」を思い出して思わずシャッタ
ーを切った。渡っている川は筑後川。九州一の大河である。

瀬高駅に着いた。駅のホームにあった無形文化財の舞曲像。

<みやま市> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
みやま市(みやまし)は、福岡県の南部にある市。2007年1月29日、旧山門郡の瀬高町・山川町と旧三池郡高田町が合併し
て発足した。福岡県の南部に位置し、北九州市の南約100km、福岡市の南約50km、久留米市の南約20kmに位置する。一級河
川矢部川を挟んで柳川市、筑後市と、矢部川の一部と市東部の山間部で八女市と、隈川や市南東の山間部で大牟田市と、
また市南東部では熊本県玉名郡和水町および南関町とも隣接する。市域の多くは筑紫平野(筑後平野)に含まれる平地と
なっており、市の南西部は有明海に面する。
基幹産業は農業である。瀬高町東部および南部から高田町にかけては主に米作、瀬高町北部ではハウス農業でなすやセロリ
の栽培が盛んに行われている。市の東部を南北に貫く九州自動車道の東側および旧山川町域の大部分は山地となっており、
この地域ではみかんを中心とした柑橘類の生産が盛んである。南部の有明海に面する地域では海苔養殖を含めた漁業も行わ
れている。
また、古くは矢部川を水上交通路として利用したり、街道が通るなど陸上交通の要衝であったために、瀬高町上庄下庄の両
地区は古くより市街化し宿場町として栄え、現在も酒造が盛んである。
域内において瀬高町の下庄上庄の両地区に市街地が形成されている。全体的に旧山門郡内での交流が盛んであるが、市最北
部(瀬高町長田など)は隣接する筑後市と、高田町南部は大牟田市との結びつきが強い。
隣接する自治体
福岡県 大牟田市 柳川市 筑後市 八女市
熊本県 玉名郡:和水町、南関町
市名の「みやま」とは、三池郡の「三」と山門郡の「山」を取った合成地名で、消防署の名称などとして親しまれてきた。
漢字でなく平仮名とした理由は、合併協議会の説明によると「平仮名の方が親しみやすい」、「『三山市』の『三』と『山』
をひっくり返し、『三』を横にして『川』にすると、『山川市』になる」などがあるという。名称募集の集計結果や合併協
議会の協議過程では漢字名支持が多数を占めたが、合併協議会において各町の主張する名称がそれぞれ異なり議論が平行線
となったために、協議会会長であった鬼丸岳城瀬高町長の音頭によって平仮名名称での妥協に至ったとされる。

駅の売店で、女山までは遠いのか、タクシーで幾らくらいで行けるかを売り場のオバサンに聞いた。オバサンは、「女
山や神護石を見に来たんなら先に歴史資料館を見た方がいいですよ」と言う。「この道を真っ直ぐ行って、2つめの信
号を左に曲がって12,3分ですね」とう事なので、お薦めに従って資料館へ行く事にした。



駅前広場のモニュメント。まだ卑弥呼健在の頃、作られたもののようだ。


これも卑弥呼を売り物にしていた頃のなごりですな。他には殆ど「卑弥呼」や「邪馬台国」の表示は無かった。宇佐とは大分違う。

歩いて行く途中のNTTの建物にも権現塚古墳の写真があった。

歩く途中で「勝ち烏」(カササギ)が飛んできて電柱に留まった。もっと近くへ来いと待ち構えても、カメラを構えた途端に飛んでいってしまう。

ここからが、この訪問記のTOPICSである。
資料館を出て、またぶらぶらと10数分掛けて駅前へ歩き出した。帰りはちょっと違う道を通ったりして駅を目指した。タクシーで
女山(ぞやま)、権現塚古墳へ行こうとしたのである。
駅前へ来ると、さきほどの売店のオバサンが軽自動車に乗り込む所だった。「あら、もう行ってきたんですか?」と声を掛けられ、
これから女山へ行くと言うと、「私は午前中で仕事は終わりなので、いまから私が乗せてってあげましょう」と言う。「え、いやも
うお帰りになるんじゃないですか。ご迷惑では?」と言うと、「いいのいいの、家もすぐ近くだし、帰っても用事は無いから。」と
仰るので、タクシー代も助かるし、地元の人が案内してくれる事ほど心強いものはないので、有り難くご好意にあまえる事にした。
車中で、歴史倶楽部の事やHPの事、このHPが本になったことなどを話していると、オバサンは「へぇー、凄いですねぇ」とか、
「エライですねぇ」とか持ち上げてくれていたが、程なく私の携帯が鳴った。私はこの2月で「N●●ファ○○○」という会社を停
年退職したのだが、その会社の元同僚からだった。勿論大阪からだ。
「井上さん、今どこに居るんですか?」よく一杯飲んでいたヤツからだったので、「あ、今日はアカンで。儂いま九州におんねん。」
と答えると、「瀬高って知ってます?」「え、何で、儂いまそこにおるんやけど」
そいつは笑いをかみ殺したような声で、「井上さん、今財布持ってます?」と聞くのである。「え、え」といいながら上着のポケッ
トに手をやると、無い! 「あ、無いわ」「そうでっしゃろ、さぁ、どうしたんですかねぇ」「ど、どないしたんや、何でお前が?」
その男の話によると、駅のトイレで私のサイフと扇子を駅員が見つけて、中を見たら(昔の)名刺が入っていたので、駅員は会社へ
電話を掛けて、私の携帯番号を知っているそいつが私に掛けてきたのである。「JR瀬高駅で預かってるそうですから、そこへ取り
に行って下さい。」
オバサンに訳を話すと、「よかったですねぇ、あって。でも、もうそこが女山ですから、見学した後駅まで送っていきましょう。」
との事。ありがたや、ありがたや。オバサンは、瀬高町在住のABさんと言われる方で、親切きわまりないオバサンだった。ABさ
んと言い駅員さんと言い、親切な人ばかりでなんと助かったことか。感謝感謝である。あとでこの日の記録メモには以下のように書
いている。
(4/27) 瀬高神護石に車で案内してくれる。途中駅のトイレに財布・扇子を忘れていて、駅からファネットに連絡してくれて森から
tel あり。女山を見た後、駅まで運んでくれた。御礼に本を送ることにする。財布を取りに行って、売店でその話しをして、土産を
一個買う。「そうでしょ、あの人すごく優しいんです。」と交替の人が言っていた。
以下が、その女山、権現塚古墳訪問記だが、青字の解説は「邪馬台国比定地一覧」に書いた文章をそのまま転記した。

すでに江戸時代、邪馬台国とされていた、
福岡県山門郡が、初めて邪馬台国の候補地に登場したのは、江戸中期、6代将軍徳川家宣に仕えた儒学者・新井白石の「外国之事調
書」である。ついで本居宣長が異説を唱え、邪馬台国論争の起源ともなった場所がここなのだ。いわば、山門は邪馬台国論争の原点
でもあり、老舗でもある。新井白石が、山門を邪馬台国とした最大の理由は、「山門」すなわちヤマトという音が「ヤマタイ」に一
致する点である。他にも、日本書紀・神功皇后記に山門県(あがた)の上蜘蛛・田油津姫を討った記事があり、山門の地に女性の首
長がいたことをうかがわせる。


その後、久米邦武、白鳥庫吉、星野恒、坂本太郎、田中卓、藤間生大、井上光貞などの学者達も、この地を邪馬台国とした。この地
域からは、祭祀用具とされる中広の銅矛が多数見つかっている。八女市の吉田から13本、広川町の藤田から18本が出土しており、
さらに八女市亀ノ甲遺跡には、弥生中期から後期にかけての甕棺墓、石棺墓、土こう墓などの墓地群があり、鉄剣と鉄斧、そして
「ほう製鏡」が出土している。山門郡瀬高町にある権現塚は、観光パンフレットには「卑弥呼の墓」と紹介されているし、神護石の
ある女山(ぞやま)を卑弥呼の居城と結びつける説もあるが、全長3kmに及ぶ神護石そのものは、7世紀に築造されたものとの考
えが定説である。明治時代には、神護石の性格が不明で、城塞としては不十分であるし、神域を囲っているのではないかと考えられ
たようだ。女山(ぞやま)の旧名は、実は女王山といい、ゆえにここが卑弥呼の居城であるという説が登場した。いまでは、神護石
は7世紀に作られた朝鮮式山城という意見がほぼ定説だが、神護石に囲われた内側に城塞の施設があるかどうかは不明である。






史跡(国指定)女山(ぞやま)神籠石。女山は瀬高の東山連山の古僧都山の麓にあり、草場の部落に続く。かっては、山門=ヤマト
という古代からの地名が山門説の大きな根拠として注目され、瀬高町東部の女山(女王山)にある古代朝鮮式山城の「女山神籠石」
周辺が、卑弥呼に関係した遺跡と推定されていた。地元の言い伝えでは、女山と書いて「ぞやま」と呼ぶのは、女王山(じょうおう
やま)−> ぞぉやま(じょやま) −> ぞやま、との音便だという。この女山に、山を包囲する形で、列石(神籠石)が築かれ
ている。
山門という地名は、日本書記神功記に「(皇后)山門県に転至ましして、即ち土蜘蛛田油津媛を誅う」と現れ、延喜式の、筑紫の国
について書いた抄に、「山門五郷、大江、鷹尾、山門、草壁、大神」となっている。草壁は大草に変わったが、他の4地名は今も残
っている。日本最初の漢和辞典『倭名類聚妙』(931年〜939年)の中に、「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加
部(くさかべ)と訓む、大神 於保美和(おおみわ)と訓む・・・」とある。これらによれば、神功皇后のころから山門の地名は存
在し、夜万止(やまと)と呼ばれていたことになる。








ヤマトは邪馬台国発祥の地か
町の南西部には、太神という地名の場所がある。これでおおが、と読み以前は大神と書いた。太宰府と大宰府のように点(、)があ
るかないかの違いだが、我が国最初の漢和辞典とも言える「和名抄」では於保美和(おおみわ)とかなが振られている。三輪山を祀
る奈良の大神神社を思わせる。さらに、ここはかって宇佐神宮の荘園があったという場所でもある。宇佐から数百kmも離れた瀬高
町に宇佐神宮の荘園があるというのも何か思わせぶりだ。宇佐は邪馬台国にも比定されるが、邪馬台国連合の一つ「伊邪国」に比定
する説もある。
地元では、瀬高町の南部「大神」は、渡来人が有明海からこの河口に住みついた弥生人の上陸地で、この地に住んだ渡来人が舟の航
海安全に感謝し神々を祀ったところだとされ、大神には、渡来人が七支刀を持った像を祀ったこうやの宮、鉾楯の杜、釣殿宮、太神
宮、宇津良姫社などの古代信仰の跡があり、さらに物部一族の祖先を祀った宇津良姫社、田中の神、もあると言う。


先を歩いて案内してくれるABさん。可愛いオバサンだった。「写真を」と頼んだが固辞されたので、せめて後ろ姿なりとも。


町の中央、山門の堤と呼ばれる集落には1〜2mの巨石が点在している。一見したら古墳の石室の一部のようでもある。家が密集し
ており、その三輪崎に岩がころがっているような状態だが、集落全体が古墳で、それが卑弥呼の墳墓ではないかという説もある。
邪馬台国山門説には、低湿地で7万戸もの家を抱えるには狭く、国の所在地としては適さないとか、単なる読みの類似だけで比定す
るには無理があるとかの批判があるが、もともとここにあった邪馬台国が、より居住に適した久留米のような筑紫平野や筑後川流域
にうつり、ここにはその呼び名が地名として残ったのではないかという意見もある。そしてその勢力が近畿へ移動し、大和を名乗っ
たというのである。




4つの水門を持つ神護石
瀬高町は、久留米市の南、矢部川のほとりに開けた静かな町である。以前はみかん栽培が盛んだったが、いまではなすびとセロリの
日本有数の産地として知られ、ビニールハウスが連なる、のんびりした田園風景が広がっている。
「邪馬台国=山門郡説」を唱える人たちの根拠の一つがこの女山神護石の存在だ。標高195mの山腹をぬって、全長3kmにも及
ぶ列石である。西側は採土のため消滅している。周辺では旧石器も採掘され、縄文・弥生土器も出土しており、また三角縁神獣鏡3
面を出した、前方後円墳の「車塚古墳」にも近い。神護石は、学問的には山城説がほぼ定説だが、まだまだ霊域説も根強く、巨石信
仰とも結びついて、卑弥呼はこの地で生き続けている。




公園入口へ戻って、神護石とは違う方角に展望台が作ってある。ここに昇ると瀬高の町(みやま市街)が一望できる。

魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、卑弥呼。九州説の有力候補だった旧山門(やまと)郡瀬高町一帯。


私の見た神護石はほんの一部である。神護石はこの女山一帯を取り巻いているのだ。水城・基肆といい、久留米の高良山やここもだ
が、天智天皇は、果たして本当に「唐・新羅軍」を恐れていたのだろうか。それとも「古代山城」というのは、違う時代、違う人々
が、違う目的で築いたものではないだろうか?
<神籠石の謎に迫る> みやま市歴史資料館HPより
「神籠石」と呼ばれる遺跡は、福岡県内を中心に9ヶ所ある(神籠石遺跡一覧表参照)。その遺跡は山塊地形を利用した石列・水
門の連なりである。例えば、雷山神籠石は山頂部を鉢巻状に囲むし、御所ヶ谷神籠石などは山塊の稜線を繋いでいる。瀬高町の神籠
石の場合、西側山麓部から古塚山頂を囲むように列石・水門が続いている。
遺構の名称は、高良山神籠石が高良玉垂宮を取巻くように発見され、その境内図の中に「神籠石」の文字があったことから付けら
れた。しかし、各神籠石の発掘調査が重ねられた結果、現在では古代の山城遺構であることが略々断定されるまでになっている。
神籠石の構造は、石列に沿って土塁を築き上げ、谷筋には渓谷の流水路を塞ぐために水門を開けた石積みを施し、山頂部全体が防
御壁によって保護されて、外部からの侵入を阻止できるよう配慮されている。その構築技法から、「日本書紀」等に見える大野城
(糟屋郡宇美町外)・基肆城(佐賀県基山町外)・金田城(長崎県美津島町)などと等しく、朝鮮渡来の技術者によって築かれた
「朝鮮式古代山城」遺構の系統に属するものと推定され、その築造時期は古墳時代の後期、特に、唐・新羅と日本・百済による白村
江の海戦があった7世紀中頃前後の緊張した時期、6〜8世紀の間と考えられる。勿論、その分布・規模から大和政権による国家的
事業として築造されたものと見られる。

権現塚古墳
私を降ろして阿部さんとは駅で別れたので、サイフを受け取った後、権現塚古墳へはタクシーを使った。

女王を祀ったとされる権現塚と蜘蛛塚
女山から九州自動車道を越えた田んぼのまん中に権現塚古墳がある。周囲141m、高さ5.7m、直径45m。これは神功皇后が
田油津姫を討ったとき、多くの死者を出し、葬ったところ。または、国造の墓とも、卑弥呼の墓とも伝えられる。まわりがあまりに
のどかな田園で迫力が伝わってこないが、周辺からは、縄文、弥生時代の遺跡も発見され、甕棺墓も出土している。

権現塚の近くには、大塚の集落に蜘蛛塚がある。村の鎮守様といった小さな神社の隅に、わずかに盛り上がった土がそれ。上に小さ
な祠が祀られている。が、伝承では景行天皇西征のとき、従わない者がいたので征伐した首長の墓とある。また、土蜘蛛の首長・田
油津姫の墓ともされる。



南18mのところにも古墳があり、これも大塚とよんだ。道路を造る際に2分されたと考えられており、もとは一体の古墳だったと
思われる。以前は女王塚と呼ばれていたということから、やはり田油津姫の事をさしているのだろうか。雨が降ると血が流れ出すと
いう伝承もあった。石棺に塗られた朱が溶け出したものだろうが、征服された側の怨念を伝えるようでもある。

瀬高町に隣接する山川町にも古墳時代の遺跡がある。九折にある「大塚古墳」は全長約44m、幅25mの前方後円墳で、近隣では
類をみない大規模なものである。特にここからは、他には天皇陵や、磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳などから出土している埴輪の
“蓋”(きぬがさ)の破片が発見されている。ここを中心に、北に蛇谷古墳、南に面の上古墳、クワンス塚などがあり、魏志倭人伝
にいう「棺あれど槨(かた)なし」の、石棺直葬の前期古墳と考えられる。

「面の上古墳」は、洪積期に形成された扇状地の台地上にあり、まわりにはかって2、30基の古墳があったと想定されている。
この古墳からは、石棺、人骨、鉄剣、鑑、釧などが発見され、特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣がそえられており、そ
の柄の部分は、鹿角装の剣の特徴があり、周辺豪族の墳墓ではないかとされている。また、四匹の獣を肉彫りにした直径12cmの
四獣鏡も、手の間から出土した。四獣鏡は、三角縁神獣鏡よりも古い時代のもので、船山古墳や沖ノ島からも出土している。
「面の上古墳」は副葬品などから、古墳時代前期のもので、山門郡のなかでも古いものと考えられる。

「邪馬台国=山門郡」説は、位置論から見ても末廬国、伊都国、奴国、不弥国の放射線状の中心軸にあるし、また、末廬国、伊都国、
奴国については中間に山々があるがほぼ等距離にある。このことは山門が交通の要衝であったことを伺わせ、また、筑後川を利用し
て有明海から船で外海に出ることも容易だ。邪馬台国=山門郡とすれば、狗奴国はその南にあった事になり、熊襲=熊本にも合致する
というわけである。さらに、倭人伝の「女王国より以北」には、特に「一大率」を置いて、常に諸国を検察しているという状況にも
合致する。しかし「邪馬台国山門説」の弱点は、吉野ヶ里や平塚川添のような、弥生時代の大規模な遺跡が未だ発見されていない事
である。今後の調査に期待がもてるだろうか。

帰りは実家へ行くので、JRより西鉄電車のほうが都合がいい。幸い柳川が近いので、せっかくだからと柳川
の鰻の旨い店へ案内を頼むと、運ちゃんは時ならぬ遠出になった(タクシー代3,000円位)ので喜んで、
「儂らがいく所で、あんまり大したトコやないですが。」と言いながら料亭のような店へ案内した。或いは私
の物腰を見て、ここなら相応しかろうと判断したのかな、ハハハ。


西鉄柳川駅から直接甘木行きの電車があったのには驚いた。通常、久留米で甘木線へ乗り換えるのだが。

帰阪後、「邪馬台国大研究」と我が歴史倶楽部の機関誌を阿部さんへ送ったら、携帯メールで御礼の返事が来た。メアド交換してたんや。
2011.7.28 from 陪冢姉妹さん
以下3枚の写真は、「邪馬台国大研究」の掲示板他によく投稿して頂く「陪冢姉妹」さんから送られて来たもの。
新規HPをUploadするとすかさず関連の資料を送って下さる。いつも、ありがとうございます。

写真のものは、面の上3号?だったかな? ちょっと失念しましたが、山川の八ちゃん堂の工場の手前の空き地の
ような場所にご覧の形で再現されています。
http://www.mapion.co.jp/m/33.1304713888889_130.511740277778_6/
↑面の上古墳の場所です。この近辺にクワンス塚ほか、結構大きな古墳は集中しています。堤古墳群、車塚、権現
塚etc...なども撮っているのですが、

2枚目は瀬高(みやま)の「ミカカ」タワーです(笑)3枚目の鹿児島本線沿いのJAのカントリーエレベーター
(サイロ)にたしか「卑弥呼の里」という文字が大きく書いてあったはずですが今あるのかどうかはわかりません。

以下は掲示板での上記のやりとりを見て、郭公さんがUPしてくれたもの(2011.08.19)。ちゃんとまだ残ってます。

邪馬台国大研究 /歴史倶楽部Annex /福岡県みやま市