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飯豊天皇陵(北花内大塚古墳) 歴史倶楽部 第177回例会 5月日











	飯豊天皇陵(北花内大塚古墳)

	新庄町北花内に「北花内大塚古墳」がある。全長約90mの相当大きな前方後円墳である。前方部を南西に向け、周濠を巡らしている。
	現在宮内庁により「飯豊(いいとよ)天皇埴口(はにぐち)陵」に治定されて、その管理下にあり整備されている。周辺遺物から、6世
	紀前半の築造と推定され、また、飯豊天皇は、先の「角刺神社」に祀られている飯豊青皇女で、別名忍海郎女(おしみのいらつめ)とも
	云い、古事記では第23代顕宗(弘計)、第24代仁賢(億計)両天皇の伯母だが、日本書紀では彼らの姉となっている。また「扶桑略
	記(ふそうりゃっき)」では、神功皇后が第15代天皇で、飯豊天皇も第24代天皇となっている。








	ところで日本書紀はこの飯豊青皇女について、清寧天皇三年秋七月の条に以下のような短い記事を突然挿入している。前後の脈略とは何
	の関係もなさそうに見える記事だが、一体何のためにここに記載されているのか昔からの謎の一つである。




	「飯豊皇女、於角刺宮、与夫初交、謂人曰、一知女道、又安可異、終不願交於男」 

	「飯豊(いいとよ)の皇女(ひめみこ)、角刺(つのさし)の宮にて、夫(おとこ)と交(ま)ぐわいしたまいき。人に語りて曰く、ひとはし
	女の道を知りぬ。またいずくんぞ異ならん。終(つい)に、まぐわいを願わじ、とのたまいき」 
	
	「ひとおおり女の道を知ったが、特にどうという事はないので、今後はもう男とは交わらない、と語った」と言うものだが、これは何を
	言うためにここに記事として挿入されたのか。解釈は諸説あって、「夫と初めて交わりたまう」という部分の夫が一体誰を指しているの
	かを巡っても諸説紛々だが、真相は例によって、永遠の謎である。日本書紀もその註記で「ここに夫ありと云える。いまだ詳(つまびら)
	かならず」と書き添えている。




	この短い記事からは、彼女が相当な年齢になるまで処女であった事がわかるし、おそらく、若い時から神に仕える巫女のような存在とし
	て過ごし、一生独身のままで死んだことも判る。
	この時交わったと云う男が雄計(顕宗)だとし、彼女は雄計に殺されたという見方もある。飯豊皇女に比べて雄計はあまりに若く(17歳?)、
	満足に女の喜びを教えるような性交は出来ず、恥をかいた雄計がやがて飯豊皇女を殺害したというのだが、古代にあっては17歳は十分
	に大人のような気もする。




	角刺の「角」(つの)は(かど)でもあり、かど=かつであり「葛」に通じ、「刺」は、さし(城)と呼んで、「角刺」は「葛城」と同義
	だとする説もあるが、男と交わったことを示す単なる語呂合わせの「角刺し」だと言う説もある。





	通常皇統譜外の天皇については、たとえ宮内庁が管轄していても「陵墓参考地」とするのが普通なのに、ここは宮内庁自身がはっきりと
	「飯豊天皇陵」としている。その訳も宮内庁に聞いてみたい。



★アクセス: 近鉄新庄駅より南 徒歩15分



これは郭公さんが飯豊青皇女についての記述があったと持ってきてくれたもの。福井にも伝承があるんだ。



角刺しのイメージ、らしい。




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