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屋敷山古墳

歴史倶楽部 第177回例会 5月27日







	山口の集落から来て平岡の集落に差し掛かった時、変わった神社があった。近所の人に聞くと在所の氏神様のようだったが、砦のような
	石垣を持った何とも堂々たる氏神様だった。何という神社なのかどこにも書いてないし、近所の人も口ごもってはっきりとは言わない。



普通の神社の石段のような階段を上ると、鳥居と広場があって、さらに、



まるで山城の山門のような、ものものしい神社への入り口がある。



さらに石段を登ると小さな広場と祠がある。



橿原神宮の方向を示す石柱と遙拝所のようなところがあったので、祭~は神武天皇かもしれない。






	屋敷山古墳

	新庄中学校の西側にある全長 135メートルの前方後円墳で、古墳時代の中期後半(5世紀半ば)につくられたとみられている。埋葬主体
	は、竪穴式石室に長持形石棺を納める。石室天井石と長持形石棺の部材は、それぞれ屋敷山公園、葛城市歴史博物館に展示されている。
	古墳が造られた時期は古墳時代中期にあたり、古代豪族葛城氏の首長の墓と考えられている。




	<屋敷山古墳の特徴>

	@ 前方部西端に特異な方形の張り出しがつく。
	A 中世〜近世初頭にかけて、この地方を支配した布施氏の居館として利用されその後桑山氏の陣屋として利用された。

	戦国時代には領主布施氏の館が築かれ、続いて江戸時代には大名桑山氏の陣屋が築かれた。かつて関ヶ原の合戦で徳川方について大名に
	取り立てられた桑山一晴は、この古墳の全構造を利用しここに陣屋を築いた。古墳の周囲の濠も城の掘となった。葛城市最大の前方後円
	墳で、昭和47年3月に「国史跡」の指定を受けている。






	<屋敷山公園> 葛城市HPより

	●歴史と文化を育む都市公園

	屋敷山公園は、葛城山のふもとにあり、水と緑に恵まれた自然がいっぱいの公園で、市内はもちろん近在の人たちにも広く親しまれてい
	ます。古くには古代豪族・葛城氏の勢力が及んだ地で、古墳時代中期の5世紀中頃に前方後円墳(屋敷山古墳全長約140m)が築かれ
	ました。その後、江戸時代に桑山氏が紀州より移り、この地に陣屋(新庄城)・武家屋敷を構築しました。新庄町では昭和45年度より屋
	敷山古墳を中心に都市計画事業として総面積約58,000平方m規模の総合史跡公園の整備に着手、昭和50年に竣工しました。敷地内には中
	央公民館・市民体育館・グランド等が整備され文化活動の拠点となっています。

	屋敷山古墳は、昭和47年3月には「国史跡」の指定を受け、今日に至っています。現在では、一年を通じて数々の催しものが開かれて
	おり、数々の催し物が開かれています。なかでも毎年5月上旬の公園まつりは、敷地内で多くのイベントが催され終日にぎわいを見せて
	います。また、7月中旬には市商工会主催の花火大会が開催され大勢の人が訪れます。春・秋の行楽シーズンには、一般客、県外・県下
	各地より保育所や幼稚園児、小学校児童が遠足で来園します。詳しくは、中央公民館(69-5131)まで



「あ、あそこになにかある」と錦織さん。




	公園の隅に石棺のふたとおぼしき石像物があったが、説明板はもうかすれて読めない。歴史文化都市を唱えるならこういう所はいの一番
	にメンテしなくちゃ。







池では噴水が上がってきれいに整備された公園になっている。



「新庄城跡」という石柱が立つ「屋敷山古墳」に登る。





これもかすれて殆ど読めない。以下はnetから拾ってきた。

	国指定 史跡 屋敷山古墳(昭和四七年三月二十五日 指定)

	新庄町内で最大の古墳で、全長約一三五メートル、後円部径約七七メートル、同高さ約十五メートル、前方部幅約九〇メートル以上の規
	模をもつ、前方部を北に向けた前方後円墳です。「屋敷山」の名は、中世〜近世初めにこの地を支配した布施氏が居館として利用し、さ
	らに江戸時代の初めに桑山氏が陣屋を築き、周辺に屋敷を構えたことに由来しています。そのため、埋葬施設が破壊され、墳丘も著しく
	変形していますが、前方後円墳の輪郭をほぼ保っています。埋葬施設は、長持型石の蓋石と小口板石、縄掛突起をもつ天井石が出土して
	いることから、長持型石棺を安置した竪穴式石室であったようです。古墳の東側に周濠の名残りと思われる池があり、また、古墳の周囲
	には埴輪がめぐらされていたようです。
	この古墳が造られたのは、古墳の形や長持型石棺の型式なから、五世紀中ごろと推定され、その被葬者は、古代大和の豪族であった葛城
	氏に関係するひとと考えられます。この古墳は、古代の葛城地域を知るうえで重要なだけでなく、中世、近世の新庄を知るうえでもたい
	へん重要な意義をもっています。	葛城市教育委員会(現地説明板より)



石段を登ったところが後円部の憤頂である。




	屋敷山古墳は大屋集落の南に沿って西から東に延びる丘陵を利用して築かれている。古墳は中世にこの地域に勢力を広げた布施氏の居城
	とされたことや、近世に入部した桑山氏の陣屋となったため本来の墳丘がかなり改変されている。1974年の発掘調査の結果、墳丘の
	全長 135m以上、後円部の直径78m、前方部幅90mの規模の前方後円墳であったことが明らかとなっている。




	前方部の西側には一辺が25mの規模の張り出し部が備わっている。周囲からは明確な周濠痕跡は見いだされていない。埴輪は楯形、蓋形、
	家形などの形象埴輪と須恵質の円筒埴輪が出土している。埋葬施設は完全に破壊されていたが、赤色顔料の付着した片岩の割石や玉石の
	ほか前後に突起を作りだした天井石が出土しており、割石で築かれた玉石敷きの竪穴式石室が想定でき、石室内に長持形石棺が納められ
	ていたと推定できる。石棺は現在蓋石と短剣石とかあり、蓋石は長さ215cm、幅102cm、高さ56cmの四注屋根形で左右に円筒状の二つの
	突起を造りだす。短側石は高さ93cm、幅88cmで上辺か蓋石と組み合うようにカーブする形態をなし、中央やや上部に小さい長方形の造り
	出しをもつ。棺の形態は久津川車塚古墳のものと類似しており、型式的に新しい段階の長持形石棺の特徴をもっている。なお天井石と石
	棺ともに竜出石が使われている。僅かにガラス玉と金銅装鉄製品破片が出土しているだけで副葬品に関する情報はほとんどない。



前方部の切れ込みははっきりとわかる。




	★所在地 : 葛城市南藤井17(屋敷山公園内)
	★アクセス: 近鉄新庄駅より 徒歩15分
	★墳 丘 : 前方後円墳(復元全長135〜138m、後円部径77〜78m、復元高さ15m、前方部
		   復元幅90m以上、現存高さ約10m)。周濠?葺石?。前方部を北に向ける。
	★埋葬施設: 竪穴式石室(竜山石製・長持型組合式石棺)
	★出土遺物: 円筒埴輪片、器財埴輪片、家型埴輪片、ガラス製小玉、金銅製鉄製品。
	★築造年代: 5世紀中頃
	★発掘調査: 1972年、1988年 
	★被葬者 : 葛城氏関連と推定


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