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葛木坐火雷神社(笛吹神社)
歴史倶楽部 第177回例会 5月27日
県道30号を渡る手前に「地光寺旧跡」の石碑が立っている。遺跡からは屋根瓦などが出土している。石碑から脇田神社
まではかなり距離があるので、一帯を寺の境内とみるよりも、山麓の上下で寺地の移動があったのであろう。
<地光寺跡>
・西遺跡
地光寺西遺跡からは塔の基壇とみられる8世紀前半の壇上積基壇の東辺と西辺を確認しており、四天王寺式伽藍を備えた
寺院の存在が推定され、複弁五弁蓮単文軒丸瓦や葡萄唐草文軒平瓦などが出土している。両遺跡は極めて隣接して存在し、
出土瓦の年代差以外にも東遺跡の伽藍は条里地割に規制されていない一方で、西遺跡の基壇の位置が条里坪中軸線に一致
していることなどから、東遺跡の寺院が造営された後に、西遺跡の場所に移転されたと考えられている。
地光寺跡は忍海郡に所在する唯一の古代寺院跡である。1972年に塔の心礎が遺存する葛城市の脇田神社付近や、以前から
瓦が出土していた西方地区の遺跡確認調査が実施された。
地光寺東遺跡とされた神社付近では基壇などの遺構は確認できなかった。現存する塔心礎によって7世紀後半創建の東西
両塔を備えた薬師寺式伽藍が想定されているが確定しているわけではない。屋瓦には新羅系の特徴をもった鬼面文軒丸瓦
や三重孤文軒平瓦が使用されていて、朝鮮半島から渡来した系譜をもつ忍海氏の氏寺と考えられている。
葛木坐火雷神社/笛吹神社(ふえふきじんじゃ)
正式には「葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ)」という。旧忍海郡14ヶ村の総鎮守社。県天然記
念物に指定されているイチイガシが群生し、境内には奈良県指定史跡の笛吹神社古墳もある。
南北にのびる金剛山地の一峰、葛城山の東麓に鎮座する神社で、創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられるが詳らか
ではない。崇神天皇の御代には当社がすでに鎮座していたと当社旧記に伝わる。
祭神 : 火雷大神 天香山命(笛吹連祖神)(ほのいかづちのおおかみ あまのかぐやまのみこと)
相殿 : 天津彦火火瓊瓊杵命・大日霊貴命・高皇産霊命・伊古比都幣命
もともとは、火雷大神を祀る火雷神社と、笛吹連の祖神・天香山命を祀る笛吹神社とは別に祀られていたようだが、延喜
式の成立以前に合祀され「葛木坐火雷神社」となったとみられる。それより前「日本三代実録」(901)には、貞観元
年(859)正月27日に「葛木火雷神」が従二位の神階を授けられたとある。そのときの名称に坐が見られないのは、
単に省略なのか後世に加えられたのか?他にも十市御縣神などで同じ例がある。
中世以後は衰え、所在もわからなくなり「大和志」によると江戸中期には村の笛吹神社(式外社)の傍で末社となってい
たようだ。明治七年には火雷神社を合祀して、名称も現在のように改まったという。
火雷大神が火の神であることから、火を扱う飲食・製造業や消防関係者と、天香山命の神徳からフルート、尺八等の楽器
上達を願う参詣が全国各地からあるという。
★ 所在地 :奈良県葛城市笛吹448 ★ アクセス:近鉄御所線近鉄忍海駅より徒歩約32分、駐車場有
境内の中央に日露戦争当時の大砲が置かれている。明治42年に政府から奉納されたという露国製カノン砲で、北葛城郡
河合町の「廣瀬神社」 にも同じ大砲がある。
本殿左側に円形墳があり、その入口らしきものがみえている。古墳内の玄室中央には凝灰石で造られた石棺があるという。
笛吹神社古墳とよばれている。
<笛吹神社古墳>
笛吹神社古墳群の多くは、これまでに破壊されたり、未調査だったりだが、笛吹遊塚古墳からはミニチュア炊飯具が出ていて、
これも半島との強い関わりを示す。笛吹古墳群の盟主と考えられるのが、笛吹神社の中にある笛吹神社古墳である。火雷大神
とは文字通り火の神様で、鍛冶生産・鉄器生産の神と考えられ、この古墳と古墳群の性格を示している。
笛吹神社の石室の実測図(未公表)によれば、玄室の長さは6.41m・奥壁での幅は2.41mで高さは土砂に埋もれてい
るため不明。羨道部の長さは現存している部分で6.41mとなる。右肩袖の玄室で、天井石は5石、羨道部の天井石は3石
で、南に開口している。
玄室の片袖部分の側壁は若干ゆがんだ状態で、石が抜け落ちたり、崩落している。玄室のほぼ真ん中には、刳抜式の家型石棺
が置かれているが、奥壁からの土砂により身の部分と蓋の三分の一が埋まっている。神社が保護しているため、現在この石棺
を見ることはできない。
笛吹神社古墳の被葬者は、鉄器生産の工人集団の首長か、もしくはそれに匹敵する身分の人物と考えられる。
<笛吹古墳群>
笛吹古墳群は、葛城市笛吹集落の西に標高200m前後の二筋に分かれて東に延びる丘陵があり、その丘陵の西の基部から二筋
の丘陵上に分布する古墳群である。総数80基ほどからなり群中に全長約40mと30mの2基の前方後円墳を含が、その他は直径
がいずれも20m以下の規模の円墳からなる。
1971年に尾根基部に分布している一群が破壊された際に、6世紀後半代の片袖式の横穴式石室が発掘調査され、鉄斧、鉄
鋤、鉄鎌、刀子などの農工具のほか、轡や辻金具などの馬具や鉄鏃などの武器類が出土している。
1987年にも6世紀代に築造された約20基あまりの古墳が発掘調査された。古墳の埋葬施設はすべて横穴式石室であるが、
石室には片袖の比較的規模の大きなものと、無袖の小規模な石室とに別けられるが、古墳の数からすると小規模な無袖横穴式
石室墳が圧倒する。
このほかに円筒埴輪を用いた棺を直接埋葬した例もある。古墳から出土した副葬品には大刀、鉄鏃、玉類、土器のほかに、金
銅製紋子や鍛冶に伴う鉄滓があるほか、ミニチュアの炊飯具なども出土していて、渡来系氏族である忍海氏に関わった古墳群
と見る考えがある。
かつて兄川底古墳と呼ぱれた横穴式石室もこの群中の西端に位置した一古墳である。この古墳群の北側丘陵の東端付近に所在
している式内社笛吹神社(葛城座火雷神社)は笛吹連の祖を祀るが、その境内には6世紀初頭ないし前半頃の造営とみられる
笛吹神社古墳が位置している。
古墳は直径約25m、高さ約4mの円墳で、花崗岩の自然石で構築した全長約10‐6m、玄室長約6m、幅約2.4mの片袖式の横
穴式石室内が南に開ロし、石室内には屋根部平坦面の狭い古い型式をとどめた刳抜式家形石棺が納められている。かつて金銅
装の大刀などの遺物か出土したと伝える。
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