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角刺神社

歴史倶楽部 第177回例会 5月27日 奈良県葛城市







	角刺(つのさし)神社 旧村社 

	近鉄御所線「忍海(おしみ)駅」から北へ1分歩き、最初の道路の手前で左へ曲り踏切を渡る。南西から流れてくる溝の
	様な「安位(あに)川」を渡ると、すぐ葛城市歴史博物館(旧新庄町歴史民俗資料館)の駐車場と建物が見えてくる。
	駐車場の先にこんもりとした小さな森が見える。この森のあるところが「角刺(つのさし)神社」である。




	祭神は飯豊青命(いいとよのあおのみこと)である。彼女は葛城襲津彦の子、葦田宿禰(あしだのすくね)の孫で、甥の
	億計(おけ)と弘計(をけ)の兄弟が、清寧天皇崩御の後、譲り合ってなかなか皇位に就こうとしないので、10ケ月ば
	かり、ここ忍海の「角刺宮」で執政を取ったとされている。忍海の「角刺神社」の辺りは「日本書紀」顕宗即位前記で、
	「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」と歌われており、
	相当立派な宮殿が建っていたものと推測されるが、今はその面影はない。




	角刺神社境内の東側に、小さな「鏡池」がある。飯豊青皇女が「忍海角刺宮」で政務を取っていた時、毎朝この池で顔を
	洗って、池に自分の姿を映していたという故事から、この池は「鏡池」と呼ばれている。また、時代が下って奈良時代に
	は、當麻寺にいた「中将姫」が、蓮糸で曼陀羅を織るために探し求めていた蓮が仰山生えていた。今は1本も生えていな
	いが、当時は相当生えていた様で、それで願いがかなって曼陀羅を織り上げたという。




		【飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)】「天皇陵めぐり」より転載

		生没年:  ? 〜 清寧5年11月崩御(45歳?「本朝皇胤紹運録」による。)
		父  :  (市辺押磐皇子(履中天皇の子)/履中天皇:市辺忍歯別王の妹)
			  【市辺押磐皇子=市辺忍歯別王】
		母  :  葛城黒媛(くろひめ:黒比売命(古事記):父は葛城襲津彦の子、葦田宿禰
			  (あしだのすくね))/ 葛城はえ媛
		別名 :  忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよのあおのみこと)/
			  飯豊皇女(いいとよのひめみこ)/飯豊青尊(いいとよあおのみこと)/
			  忍海部女王(おしうみべのひめみこ)/青海皇女/飯豊女王/忍海部女王/飯豊郎女など。
		宮城 :  忍海角刺宮(仮政庁とされている。)
		陵墓 :  葛城埴口丘陵(北花内大塚古墳)奈良県葛城市新庄町(旧葛城郡新庄町北花内)




	白髪武広国押稚日本根子(清寧)天皇の治世3年4月、清寧天皇は億計(おけ)王を皇太子とし、弘計(おけ)王を皇子
	とした。清寧5年春1月、清寧天皇は崩御したが、皇太子億計皇子と弘計皇子とが皇位を譲り合い、長く天皇不在の期間
	があった。このため両皇子の姉(日本書紀による。古事記では叔母。)の飯豊青皇女が、忍海の角刺宮(つのさしのみや)
	で、自ら忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよのあおのみこと)と名乗り皇位に着いた。つまり天皇になったわけで、23代
	顕宗天皇24代仁賢天皇の前に即位したという事になる。ホントであれば33代推古天皇の登場を見るまえに、我が国初
	の女帝となっていたはずである。
	しかし現在、皇統譜にも勿論天皇とは記されていないし、公式には天皇ではないのだが、宮内庁が立てたこの陵の看板・
	石柱には、ちゃんと「飯豊天皇」と記されている。当時の歌に、

	「日本邊也(やまとべに)(見欲物也)見まほしものは 忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮」
	(大和のあたりでみておきたいものは、忍海の高城にある、立派な角刺の宮であろう。)

	日本書紀巻十五、顕宗紀

	「(清寧天皇)五年春正月。白髪天皇(清寧天皇)崩。皇太子億計王与天皇(顕宗天皇)譲位。久而不処。由是天皇姉飯
	豊青皇女於忍海角刺宮臨朝秉政。自称忍海飯豊青尊。当世詞人歌曰。日本邊也。見欲物也。忍海乃此高城名也。角刺宮。
	冬十一月。飯豊青尊崩。葬葛城埴口丘陵。十二月。百官大会。皇太子億計取天皇之璽。置之天皇之坐。」

	という歌があり、宮殿が相当立派だったことを推測させる。だとしたら、実は彼女が我が国初の女帝だった可能性は高い
	と言えるのではなかろうか。






	彼女の呼称である「忍海飯豊青尊」「飯豊青尊」の「尊」という称号や、「崩」「陵」という文字の使用から、彼女を女
	帝とする説もあり、後世の「扶桑略記」などでは、「飯豊天皇、廿四代女帝」として、彼女を「飯豊天皇」としている。
	また皇胤紹運録には「飯豊天皇、忍海部女王是也」と書かれている。しかし勅撰歴史書である日本書紀は、彼女を女帝と
	して認めていないし、忍海飯豊青尊と自称して忍海角刺宮で政務を執った、となっている。




	清寧天皇が崩じたのは清寧5年春1月で、彼女が没したのも清寧天皇と同じ年の11月である。その翌月、弘計王が即位
	し顕宗天皇となっている。この記述からみれば彼女の統治期間は最大11ケ月間ということになる。11ケ月あれば十分
	天皇と記してもいい期間ではなかろうか。もっと短い在位期間の天皇もいる。しかしそれにしても、清寧の死から1年に
	も満たず死去してしまう彼女の死にも、勘ぐれば何か不自然な臭いがしないでもない。
	ここに言う「臨朝秉政」は、天皇の代わりに政治を行うという意味だそうだが、十分即位したとも受け取れる。彼女が公
	式には歴代天皇に数えられなかった理由は何であろうか。




	巻末で見て頂くように(略)、古事記は清寧天皇の段に
>
	「天皇みまかりましし後、天の下しろしめす王なかりき。ここに日継ぎ知らしめす王を問うに、市辺忍歯王の妹、忍海郎
	女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺(つのさし)宮にましましき」

	と述べて、清寧の没後、飯豊皇女が皇位を継いだことを記している。そして、治世の間に、播磨に隠れていた意祁(おけ)
	(仁賢天皇)袁祁(をけ)(顕宗天皇)の兄弟が現れたので、彼らに皇位を譲ったとしている。




	一方日本書紀は、清寧天皇の在世中に億計(おけ:仁賢天皇)、雄計(をけ:顕宗天皇)の2皇子が発見されるが、やがて
	清寧は没する。ところが、兄弟は皇位を譲り合って決しない。そこで

	「これによって、天皇の姉、飯豊青皇女、忍海の角刺宮に、みかどまつりごとしたまい、自ら忍海飯豊青の尊と称えたま
	いき」

	と顕宗紀に記している。




	すなわち、古事記が飯豊皇女を履中天皇の娘とし、また、その皇位継承を公式なものとしているのに対し、日本書紀は、
	皇女を市辺押磐皇子の娘で2兄弟の姉とし、かつ、その皇位は全く臨時的方便的なものとしており、飯豊の皇位継承は無
	かったごとく記している。
	しかし、彼女が女帝、それも、日本最初の女帝であったことは疑い得ないように思われる。それは、後世、天皇就任を渋
	る炊屋姫(推古天皇)に対して聖徳太子が、「女性の天皇は飯豊青皇女という前例があります」といって説得するという
	話がある事でも確認できる。




	史界では、実際飯豊青姫が即位したのかしなかったのかについては意見が分かれているが、この角刺神社は飯豊青皇女が
	政務を執った宮の場所に建っていると伝承されているし、とても、古事記・日本書紀を読んだ後世の人たちが作ったもの
	とはちょっと考えられない。

	★ 所在地 :葛城市忍海322
	★ アクセス:近鉄御所線忍海駅から西へ徒歩2分







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