SOUND:月の沙漠
秀吉の名護屋城を訪ねて
2011.07.18 青沼先生と佐賀県唐津市にて
	
	このHPを制作したもう1年近く前のことで、この時の帰省は何が目的だったのかすっかり思い出せない。帰ったら、洋画家の青沼先生
	達と遊びに行くのが帰省時の習わしのようになっており、この日も高尾さんの運転で、八女の佐藤さん、久留米の小柳さんと佐賀県唐津
	市の名護屋城跡へ遊びに来た。久留米でお会いしてから、「井上さん、どっか行きたいとこないかい?」と先生が仰ったので、昔から行
	きたかったが遠くてまだ訪問は実現していない名護屋城に行きたかったので、福岡からは少し遠いかなとは思ったが、「名護屋城なんか
	どうでしょう?」とおそるおそる言い出すと、いつも運転を務めてくれる高尾さんも「行こう、行こう、あそこまでの道は私のデート・
	コースじゃもん、ようしっとる。」と即決。
	夏ではあったがすこし曇り空の下、みんなで秀吉が築いた名護屋城跡へ出かけてきた。城跡には大きな「名護屋城博物館」があって、名
	護屋城の全貌がわかる。資料を見て驚いた。名護屋の町がこんなに大きな町だったとは知らなかった。せいぜい朝鮮侵攻の出先としての
	小さな町が造られたのだろうと思っていたら、人口10万を数える一大城下町が築かれていたのだった。秀吉配下の名だたる武将達の屋
	敷は勿論商人や職人・農民までその構成要素にかり出された大都市だったのである。わずか数年間とは言え、日本でも有数の地方都市が
	形成されていたのだ。



上下の建物が「名護屋城博物館」。佐賀県立博物館の分館だ。








駐車場に車を入れて歩き出すと、大手口前の井戸跡があった。駐車場を造る時に出土したそうだ。









博物館を左手に見て、右側にある茶店でカキ氷を食べ、そこから城跡へ登ってゆく。







大手口前は大きな広場である。



	
	案内板を眺める八女在住の佐藤さん。佐藤さんも古代史に造形が深く、八女姫が卑弥呼だと主張している。時々大阪まで、ご自分で書い
	た論文を送ってくれる。勿論青沼先生の絵のファンで、先生関連の会ではよくご一緒する。













こんなに大きな範囲の城下町だったとは。城下町は、この外側にも広がっている。秀吉の天下統一後は、大阪城に次ぐ大きな城だった。



















名護屋城大手門跡。大手口と櫓の石垣。左の櫓は崩れてしまっている。









大手口から本丸へ向かう道。

	
	名護屋城	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	名護屋城(佐賀県) 
	通称 名護屋御旅館 
	城郭構造 梯郭式平山城 
	天守構造 5重7階(非現存) 
	築城主 豊臣秀吉 
	築城年 1591年 
	主な改修者 なし 
	主な城主 豊臣氏 
	廃城年 1598年 
	遺構 石垣、空堀 
	指定文化財 国特別史跡 

	名護屋城(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)、東松浦郡玄海町)にあった
	城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた。国の特別史跡に指定されている。平成18年(2006年)には日本100名城(87番)に
	選定された。
	名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであっ
	た。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、
	ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
	名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000 平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。五重天守や
	御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた[1]。
	秀吉の死後、大陸進攻は中止され城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる[2]。
	石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。歴史上人為的に破却された
	城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている[3]。
	大正15年(1926年)11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
	昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)
	6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。黒澤明監督による『乱』(昭和60年(1985年)公開)のロケ地の一つに、
	名護屋城が選ばれ撮影が行われた。
	史跡名称は、「名護屋城跡並陣跡」であるが、鎮西町教育委員会の堀苑孝志は、陣跡以外の遺物や遺跡の様子から、より包括的な名称
	として「肥前名護屋軍事都市遺跡」という名称を提唱している[4]。


	
	名護屋城のステレオ空中写真(1977年)国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。



	<歴史・沿革>
	天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉は九州平定(九州の役)すると、天正17年(1589年)、奥州伊達政宗、翌年北条氏直を降し(小田
	原征伐)、徳川家康を関東に移封し天下統一をなした。国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「高麗」つまり李氏朝鮮に、
	服属と明侵攻への協力を 要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を重ねるが、朝鮮は拒絶の意志を変え
	なかった。なお秀吉は同様に琉球やルソンや高山国(台湾)にも使者を出した。


	 浅野文庫所蔵 諸国古城之図[5]

	<築城>
	宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は、天正19年(1591年)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前
	線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元名古屋と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝
	男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたのだが、この地の領主であった波多親はこれに反対したため不興をかっ
	た。また甥の内大臣豊臣秀次に関白を譲って自らは太閤となった。9月、平戸城主松浦鎮信に命じて壱岐の風本に城を築かせた。その
	築城の担当は、平戸城主松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前、五島城主五島純玄であった(宇久純玄はこの年、姓を五
	島に改める)。
	10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取掛かった[6]。『松浦古事記』によれば、20万5570あまりの兵が高麗へ渡り、
	名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされた[6]。
	加藤清正、寺沢広高が名護屋城の普請奉行となった。九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8か月後の文禄元年(1592年)3月に完
	成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。

	フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸
	の平塚滝俊が書状に記している[7]。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった[8]。


	<作事衆>
	築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を長谷川宗仁が担当した[9][6]。大手門は御牧勘兵衛尉が担当し、各所の建築が分
	担された[6]。


	<構造>
	本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天
	守に葺かれていたものと考えられている。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。

	 名護屋城天守跡 

	本丸は東西五十六間、南北六十一間、総高さ三十二間一尺五寸であった。乾の角に天守台があり、高さ十五間。海より池まで十二間一
	尺、池より三の丸まで十四間三尺五寸。三の丸より本丸まで五間三尺五寸、以上右高さ也。池の長さ百六十三間也、巾十一間より三十
	一間まであった[6]。 	*二ノ丸は、東西四十五間、南北五十九間。 
	遊撃曲輪は、東西廿六間、南北二十四間。弾正曲輪は長さ九十五間、横四十五間又三十間。水ノ手曲輪は十五間四方。山里曲輸は東西
	百八十間、南北五十間横ニ廿間四方。城の廻りは十五町、城への入口は五ヶ所あり、大手門、西ノ門、北ノ門、舟手門、山里通用門だ
	った[6]。
	三ノ丸は、東西三十四間、南北六十二間。このほか、腰曲輪・小曲輪・合而十一曲輪であった [6]。


	<出兵後>
	西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成され、4月1日(5月12日)に小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵したのを皮
	切りに、名護屋を出発した諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡っていった。秀吉は京都聚楽第を3月26日(5月7日)に出発し4月25日(6
	月5日)に当地に到着している。以後大政所の危篤時を除いてこの地が本営となる。文禄の役では最終的に20万以上の兵が名護屋から
	朝鮮に渡った。当地には西国衆の渡海後も東国衆と秀吉旗本衆約10万の兵が駐屯している。多くの人員を養うには水源が足りなかった
	ようで、水不足が原因の喧嘩が絶えなかったという。
	朝鮮半島で戦線が膠着すると、翌文禄2年(1593年)4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び慶長2年(1597年)
	2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させた。
	この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。慶長3年8月18日(1598年9月18日)、秀吉が没したため
	に全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2か月であった。


	<文禄・慶長の役以後>
	出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)、広高は唐津城の築城を開始し
	た。この際に名護屋城を解体しその遺材を使用した。また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すな
	どの作業を行われたようだが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱以降のことである。島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が
	利用されること恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られている。

	<陣屋跡>
	名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、うち65ヵ所に遺構が残っているが特別史跡に指定された陣跡は以下の23箇所。

	・生駒親正陣跡	・上杉景勝陣跡	・片桐且元陣跡	・加藤清正陣跡	・加藤嘉明陣跡	
	・木下利房陣跡	・木下延俊陣跡	・木村重隆陣跡	・九鬼嘉隆陣跡	・黒田長政陣跡
	・小西行長陣跡	・島津義弘陣跡	・伊達政宗陣跡	・徳川家康陣跡	・徳川家康別陣
	・豊臣秀保陣跡	・鍋島直茂陣跡	・長谷川秀一陣跡・福島正則陣跡	・古田織部陣跡
	・堀秀治陣跡	・前田利家陣跡	・毛利秀頼陣跡


	<関連施設>
 	佐賀県立名護屋城博物館が隣接している。

	名護屋城博物館

	<参考文献>
	西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 平成12年(2000年) 420ページ

	<脚注>
	1. 学習研究社編『【決定版】図説 よみがえる名城 漆黒の要塞 豊臣の城』 学習研究社 平成20年(2008年)
	2. 平井聖監修『城』(九州沖縄 8) 毎日新聞社 平成8年(1996年)
	3. 中井均・三浦正幸監修「城を復元する」学習研究社編『よみがえる日本の城30』 学習研究社 平成18年(2006年)
	4. 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』 文英堂 平成12年(2000年) 37頁
	5.『浅野文庫所蔵 諸国古城之図』(矢守一彦編 新人物往来社 1981年)広島市立図書館特別集書
	6. a b c d e f g 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事[1]
	7. 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算』文英堂,2000年
	8. 笠谷和比古・黒田慶一同書36頁
	9. 『萩藩閥閲録』・『太閤記』






大手口左側の、崩れた櫓の石垣。







	
	文禄・慶長の役	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

	文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および朝鮮:万暦20年)から1598年(日本: 慶長3年、
	明および朝鮮:万暦26年)にかけて行われた戦争。日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮の軍との間で交渉を交えなが
	ら朝鮮半島を戦場にして戦われた。日本と中国・朝鮮連合軍との間で展開したこの国際戦争は16世紀東アジア最大の戦争とされる。
	文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によ
	って始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
	なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年
	のほとんどの出来事は元号的には天正20年の出来事である。

	明の征服を企図していた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)の九州征伐で臣従させた対馬の領主・宗氏を通じて、「李氏朝鮮の服属と
	明遠征の先導(征明嚮導)」を命じた。宗氏は元来、朝鮮との貿易に経済を依存していたため対応に苦慮し、家臣の柚谷康広を日本
	国王使に仕立て、要求の内容を改変して、新国王となった秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を李氏朝鮮側に要請したが、朝鮮
	側は、秀吉が日本国王の地位を簒奪したものとみなし、要請を拒絶した。
	1589年(天正17年)、秀吉命により、宗義智自らが博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇、博多豪商島井宗室とともに朝鮮へ渡り、重ねて通信
	使派遣を要請した。翌1590年(天正18年)11月、通信使として黄允吉と金誠一が派遣され、聚楽第で引見した。宗氏は通信使を、秀吉
	には服属使節だと偽って面会させ、穏便に済まそうとした。このため秀吉は、朝鮮は日本に服属したものだと思い、李氏朝鮮に明征
	服の先導をするよう命令した。だが明の冊封国であった李氏朝鮮にそのような意思は無く、命令は拒否された。このため秀吉は、明
	の前にまず朝鮮を征伐することを決めた。
	一方、翌1591年(天正19年)3月、朝鮮に帰国した朝鮮通信使は秀吉のことを報告したが、報告内容は2つに分かれていた。西人派(正
	使の黄允吉)は戦争が近いことを警告したが、東人派(副使の金誠一)は「日本の侵略はあったとしても先の話」と否定。結局、政
	権派閥だった東人派が戦争の警告を無視し、対日本の戦争準備はほとんど行われなかった。朝鮮通信使に随行したのは柳川調信と景
	轍玄蘇であったが、なんとか日朝の危機的状況を回避しようと苦慮していた玄蘇は、耳を貸さない李朝官人に対して「かつて朝鮮は
	元と一緒に日本を攻めたではないか。日本が怨みから朝鮮を攻撃するのは道理がある」とその認識の甘さを激高したという。
	同年6月には宗義智が釜山に訪れ、和平が失われる可能性について諭したが、朝鮮側は聞き入れなかった。また、釜山浦の倭館に常
	時滞在していた日本人数十人も帰国した。
	宗義智から交渉決裂を聞いた秀吉は8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、名護屋城築造を九州の大名に命じた。
	フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した名護屋には、全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水
	戸の平塚滝俊が書状に記している。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。

	<日本軍陣立て>

	秀吉は、文禄元年(1592年)3月13日付で軍令「高麗へ罷(まか)り渡る人数の事」を発表し、日本軍を9組に編成した陣立てを示した。
	軍団の構成は以下の通り。

	一番隊
		小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄(宇久純玄)ら計18700人
	二番隊
		加藤清正、鍋島直茂、相良頼房ら計22800人
	三番隊
		黒田長政、大友吉統(大友義統)ら計11000人
	四番隊
		毛利吉成(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊ら計14000人
	五番隊
		福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之、来島通総ら計25000人
	六番隊
		小早川隆景、小早川秀包(毛利秀包)、立花統虎(立花宗茂)、高橋統増(立花直次)、筑紫広門、安国寺恵瓊ら15700人
	七番隊
		毛利輝元、兵30000人
	八番隊	
		宇喜多秀家、兵10000人。対馬在陣
	九番隊
		豊臣秀勝、長岡忠興(細川忠興)ら計11500人
	船手衆(水軍)
		九鬼嘉隆(志摩鳥羽)、堀内氏善(紀伊新宮)、杉若氏宗(紀伊田辺)、桑山重勝・桑山小伝次 (紀伊和歌山)、藤堂高虎(紀伊粉河)
		脇坂安治(淡路洲本)、菅野正影(淡路岩屋)、加藤嘉明(淡路志知)来島通之・来島通総(伊予来島)

	文禄元年(1592年)4月(和暦。漢数字表記の月は以下同じ)、宇喜多秀家を総帥とした16万人の大軍が朝鮮に送られた。


	<主な戦い>

	1592年(文禄元年) 

	4月27日 忠州の戦い - 小西行長対申?
	5月18日 臨津江の戦い - 加藤清正対李陽元
	6月5日 龍仁の戦い - 脇坂安治対李洸
	7月7日 閑山島海戦 - 脇坂安治対李舜臣
	7月8日 梨峙の戦い - 小早川隆景対権慄
	7月9日 (第1次)錦山の戦い - 小早川隆景対高敬命
	7月16日 (第1次)平壌城の戦い - 小西行長、大友義統、立花宗茂、黒田長政対祖承訓
	7月17日 海汀倉の戦い - 加藤清正対韓克?
	8月17日 (第2次)錦山の戦い - 小早川隆景、立花宗茂、安国寺恵瓊対趙憲
	8月29日 釜山浦の戦い - 対李舜臣
	10月4日(10日まで) (第一次)晋州城の戦い - 細川忠興、長谷川秀一対金時敏、郭再祐

	1593年(文禄2年) 

	1月7日 (第2次)平壌城の戦い - 小西行長対李如松
	1月26日 碧蹄館の戦い - 宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂対李如松、?大受、高彦伯
	2月12日 幸州山城の戦い - 宇喜多秀家、石田三成対権慄
	6月21日(29日まで) (第二次)晋州城の戦い - 宇喜多秀家、黒田長政、加藤清正対崔慶会、金千鎰、徐礼元

	1597年(慶長2年)

	7月15日 漆川梁海戦 - 藤堂高虎対元均
	8月13日(15日まで) 南原城の戦い - 宇喜多秀家対楊元
	8月14,5日頃(16日まで) 黄石山城の戦い - 毛利秀元対郭シュン
	9月7日 稷山の戦い - 黒田長政対解生
	9月16日 鳴梁海戦 - 藤堂高虎対李舜臣
	12月22日(翌年1月4日まで) 蔚山城の戦い - 加藤清正、毛利秀元、黒田長政、小早川秀秋対楊鎬、麻貴、権慄
	1598年(慶長3年) 
	9月19日(10月9日まで) 順天城の戦い - 小西行長対劉?、陳?
	9月20日(10月6日まで) (第2次)蔚山城の戦い - 加藤清正対麻貴
	10月1日 泗川城の戦い - 島津義弘対董一元
	11月18日 露梁海戦 - 島津義弘、立花宗茂、宗義智対陳?、李舜臣


	<文禄の役>
 
	年月日:1592年4月 - 1593年7月(第二次晋州城攻防戦) 
	場 所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 
	結 果:小西行長と沈惟敬らの共謀により日明間で休戦
	交戦勢力 日本 李氏朝鮮・明連合軍 
	指揮官	大将軍宇喜多秀家(八番隊)
	諸将	一番隊将軍小西行長、宗義智	二番隊将軍加藤清正、鍋島直茂		三番隊将軍黒田長政、大友吉統
		四番隊将軍 島津義弘		五番隊将軍福島正則、長宗我部元親	六番隊将軍小早川隆景
		七番隊将軍毛利輝元		九番隊将軍豊臣秀勝、細川忠興		水軍 九鬼嘉隆・藤堂高虎・脇坂安治
	明軍大将軍(防海禦倭総兵官)李如松 
	諸将	慶尚道右水使元均		全羅左道水軍節度使李舜臣		全羅右道水軍節度使李億祺
		晋州牧使金時敏			明軍副総兵(遼東軍)祖承訓		高彦伯(朝鮮軍)
 	戦力 	158700人 朝鮮軍 172000	明軍53000 義兵軍22400 計247400人 
	損害 	約50000(諸説あり) 


	<慶長の役>

	年月日:1597年1月 - 1598年12月 
	場 所:朝鮮半島 
	結 果:豊臣秀吉死去により日本軍が帰国し終結 
	交戦勢力 日本 明・李氏朝鮮連合軍 
	指揮官 	大将軍宇喜多秀家 他西国諸将
	明軍大将・経略朝鮮軍務楊鎬 
	諸将	東路軍総兵麻貴	西路軍総兵劉挺	董一元	明朝鮮水軍将陳?	水軍副総兵ケ子龍	左協軍大将李如梅
	朝鮮軍大将権慄 
		三道水軍統制使元均→李舜臣	全羅右水使李億祺	義兵大将郭再祐
	戦力 	141500人(諸説あり) 
	損害 	(諸説あり)


	釜山鎮 - 多大鎮 - 東莱 - 尚州 - 忠州 - 玉浦 - 泗川 - 臨津江 - 唐浦 - 唐項浦 - 大同江 - 閑山島 - 平壌 - 全州 - 海汀倉 - 
	釜山浦 - 第一次晋州 - 平壌 - 碧蹄館 - 幸州 - 第二次晋州 - 漆川梁 - 南原 - 黄石山 - 稷山 - 鳴梁 - 第一次蔚山 - 泗川 - 
	第二次蔚山 - 順天 - 露梁 







	
	この日は先生の足の調子が悪く本丸までは行けないので、大手口付近を見学して博物館へ向かった。名護屋城は広大な史跡であり、我々
	は今日その入り口に立っただけなのだ。「こりゃ本格的に来て、じっくり一日かけて見学しないといけませんね。」と佐藤さんと再訪問
	を約束した。またリトライする日もあるだろう。









	
	大阪への帰りはいつものボンバルディア。「いつか落ちるぞ」という口の悪い友人もいるが、私はこのプロペラ機が好きで、努めてこの
	機に乗るようにしている。JET機だと眼下には雲しか見えないが、これだとその半分の高度を飛ぶので、眼下に海岸線や町などがよく
	見えるのだ。しかし滞空時間は30分ほど長い。



	
	タラップを登っているのはどうもWIFEのようである。とすると一緒に帰省したのだ。名護屋城には来てないから別行動をしたのだろうが、
	はて、何のための帰省だったのか。



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