音楽:ぺにいれいん
羽白熊鷲の墓 2010.05.01 福岡県朝倉市矢野竹





福岡県朝倉市矢ノ竹にある「水の文化村」。開村当時と違って、もう訪れる人もいないので噴水も止まっている。



		日本書紀は「六国史」の嚆矢で、「続日本紀」によれば古事記編纂の完成後8年たって完成した官選の国史である。
		「六国史」 (国史として認められているもの(日本書紀〜日本三代実録まで:古事記は国史ではない。)

			日本書紀     720   神代〜持統 
			続日本紀     797   文武〜桓武 
			日本後紀     840   桓武〜淳和 
			続日本後紀    869   仁明 
			日本文徳天皇実録 879   文徳 
			日本三代実録   901   清和〜光孝 

		書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は古事記に比べて
		かなり多く記述されているのが特徴である。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあ
		てているのも特徴である。これは古事記が天皇統治の正当性を主張していたのに対し、日本書紀は律令制の必然性を
		説明していると直木孝次郎は指摘している。確かに古事記に比べれば、日本書紀の方がその編纂ポリシーに、律令国
		家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもない。
		日本書紀自体には、古事記の序のような、その成立に関する説明はない。天武天皇の皇子舎人親王が総裁となって編
		纂事業に携わった事が「続日本紀」に見えるだけである。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完
		成したと推測できるが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだ
		けである。
		日本書紀は巻数が多いので多くの原資料が用いられ、古事記がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つ
		の説で貫かれているのに対して、日本書紀は「一書に曰く」と諸説を併記している。国内資料のみならず、朝鮮資料
		や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも古事記にはない特徴である。特に、漢籍が当時の日本に渡っ
		てきて日本書紀の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、古事記のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっ
		ぱら漢文調の文体で日本書紀を仕上げたのだとされている。この潤色の典拠となった漢籍を考定する研究を「出典論」
		と言って、日本書紀の成立を探る研究分野の一つになっている。




		全30巻の構成は、1・2巻を神代上・下として神話の記述にあて、第3巻以降が神代に対して人代の時代となる。
		神武天皇から40代持統天皇までを28巻にまとめている。宮内庁認定と異なり、日本書紀は舎人親王の父天武と戦
		った弘文天皇を、天皇とは認めていない。従って現代の天皇代数より一つだけ少ない代数となる。ちなみに弘文天皇
		(大友皇子:おおとものおうじ)が39代天皇と認定されるのは明治になってからである。明治天皇の裁可を仰いで、
		弘文天皇は皇統に加えられた。40代を28巻に納めるので、どうしても2帝紀以上を合巻とする必要があった。
		以下がその合巻である。

			第4巻   8帝紀    綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化
			第7巻   2帝紀    景行・成務
			第12巻   2帝紀    履中・反正
			第13巻   2帝紀    允恭・安康
			第15巻   3帝紀    清寧・顕宗・仁賢
			第18巻   2帝紀    安閑・宣化
			第21巻   2帝紀    用明・崇峻

		また、日本書紀は神功皇后に一紀をあてている。これをもって、彼女も天皇であったという説も結構根強い。さらに
		天武天皇には、巻28と29を天武紀上・下巻として2巻1帝紀となっている。これらを除けば、他の19天皇はす
		べて1帝紀1巻の原則を守っている。

		神功皇后は別名を息長帯比売(おきながたらしひめ:古事記)と言う。古代には、息長(おきなが)という名前の付
		いた皇族が何人も出現する。注意して「記紀」を読むと、この名前の付いた人が結構登場するのだ。これは一体何を
		意味しているのだろうか? 滋賀県に今も息長という地名の残る場所があり、ここに息長氏が隆盛を誇っていたとい
		う説がある。滋賀・京都南部から奈良北部・大阪東部にかけてこの息長氏の勢力圏は広がっており、継体天皇の大和
		入りを助けたのはこの一族だという説もある。
		神功皇后もこの一族の出身だという意見もあるが、また反面、そのあまりに超人的な行動や、神懸かり的な故事の故
		に、神功皇后は実在の人物ではないという意見も結構根強い。直木孝次郎氏は、神功皇后物語は新しく七世紀後半に
		成立したとしている。




		記紀の伝えるところによれば、

		仲哀天皇・神功皇后は熊襲征伐のため九州に赴いていた。一行が筑紫の香椎の宮に居るとき、神懸(かみがか)った
		神功皇后に建内宿禰が神託を問うと、「西に国がある。金銀をはじめ輝くような財宝がその国にある。今その国をお
		前にやろうと仰せになった。」だが夫の仲哀天皇は、「高いところにのぼっても国は見えない。ただ大海原が広がっ
		ているだけだ。」と答えてこの神託を信じなかった。引いていた琴を止めておし黙った天皇に対して神々は怒った。
		建内宿禰は恐れて天皇に「琴をお引き下さい」と進言した。天皇はしぶしぶ引いていたがやがて琴の音がとまり、そ
		のまま仲哀天皇は崩御した。
		(日本書紀は、一書に曰くとして、仲哀天皇は矢で腹を射抜かれ絶命したという伝承があることを紹介している。
		ここから、仲哀天皇は熊襲との戦いの最中、戦乱の中で戦死したのだという説もある。)

		御大葬の時、建内宿禰が神託を問うと神は、「この国は今皇后の腹の中に居る御子が治める国である」と答え、子供
		は男の子であると告げた。そこで建内宿禰は「今お教えになっている貴方は何という神様ですか」と聞いた。神が答
		えるに、「これは天照大神の御心である。神は、底筒の男、中筒の男、上筒の男である。西の国を求めるならば、天
		地の神、山の神、海河の神を奉り、我が御魂を船の上に祭り、木の灰を籠に入れ、箸と皿を沢山作って全て海の上に
		散らし浮かべて渡っていくが良い」と答えた。

		上記部分を読むと、これはまさしく我が国「神道」の基本理念ではないかと思える。まさに汎神論の世界だ。
		この後も皇后は神の神託を求め、それに従って行動した様が記紀に記録されている。

		小山田邑(おやまだむら)に斎宮(いつきのみや)を作らせ、自ら神主となって神託を聞く。神の教えに従って神々
		を祀り、吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を使わして熊襲を滅ぼし服従させた。また筑前国夜須郡秋月庄(あきづき
		のしょう)荷持田村(のとりたのふれ)を根城にして暴れ廻る「羽白熊鷲」(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞か
		ず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を差し向けこれを討つ。神懸かりした皇后軍の前に、さしもの熊鷲も屈
		伏した。






		この故事の舞台は、実は私の故郷である。

		荷持田村(のとりたのふれ)は今、福岡県甘木市大字野鳥となっていて、小学・中学時代の友人は今もここに住んで
		いる。私の卒業した秋月小学校も野鳥(のとり)にあった。子供の頃この話を聞いて、「羽白熊鷲」(はじろくまわ
		し)という名前のおどろおどろした印象とは裏腹に、話自体には全く現実味を感じなかった。故郷の故事が日本書紀
		に載っている事にも、さしたる感動も覚えなかったが、今になってみると、どうしてこのような事象が我が故郷に残
		っているのかに俄然興味を惹かれている。
		「古処山」(こしょさん)という、近在では一番高い山(864m)を根城にしていたという、この「羽白熊鷲」なる人
		物はいったいいかなる素性の人間だったのか? どこから来たのだろう? 書記に載るくらいだから、もし実在して
		いたのなら相当な蛮族だっただろうし、この譚が架空の物語だとしたら、何故山峡の小さな町である我が故郷が、日
		本書紀の編者の目にとまったのだろうか?

		全く、「謎が謎を呼ぶ古代史」(黒岩重吾)である。

		この後「記紀」は、神功皇后が魚の力を借りて朝鮮半島に渡り新羅・百済の国を治める事になったと記し、「底筒の
		男、中筒の男、上筒の男」を祭ってそれが住吉大社になったと記録する。さらに帰国後筑紫で誉田別命(ほんだわけ
		のみこと)を産み、それ故その地を「宇美」と呼ぶようになったと記録している。神話的な要素の濃い説話の故に、
		この話そのものは後世の造作であり、朝鮮遠征そのものも実在しなかった逸話だとされ、ひいては神武皇后非実在説
		へ発展している。

		非実在・実在説の真贋については現在決着は着いていない。わからないのである。しかし住吉大社の縁起や、宇美町
		の実在等を考えるに、何かそれに類似した故事があったのではないかと思えてくる。

		また、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)は、実は神功皇后と建内宿禰の子供であると言う説もある。

		日本書紀の記すところによれば、神功皇后は「摂政」という後の世の制度を与えられ、ほぼ天皇に近い扱いを受けて
		いる。実際天皇だったという説を唱える学者もいる。また暗に皇后を魏志倭人伝に言う「卑弥呼」だと匂わせている
		が、書記の編者には、卑弥呼に該当する日本史上の女帝が神功皇后以外には思い浮かばなかったのだろうと思われる。
		新井白石以後、この書記の内容を受けて「神功皇后=卑弥呼」説を唱える論者は多い。現代でもその説を唱える人が
		いる。しかし、その記述内容から見ても、この説は無理があるようだ。

		神功皇后は、摂政69年を経て100歳で没し、「狭城盾列池上陵」(さきのたたなみのみささぎ:現奈良市山陵町)
		に葬られたと書記は記録している。




		【羽白熊鷲の墓】(はじろくまわしのはか)

		羽白熊鷲は現在の古処山を本拠としていた豪族で「翼を持ち、空を飛べた」と日本書紀に記されるなど、一時は隆盛
		を誇っていたとみられる。その墓はもともとこの「水の文化村」中央部にはなかったが「せせらぎ館」建設に伴い、
		南端部に移転された。しかし、その場所は人通りが少なく、雑草の生い茂った場所だったため、商工会議所にて、せ
		せらぎ館の正面近くに再度移転した。入館者の多くの人は、墓の前に書いてある約千六百年前の「羽白熊鷲の由来に
		ついて」を読んで、豪族の墓が地元に残っていると喜んでいる。



上の写真で説明板を読んでいるのは私の弟である。帰省して、車でここまで運んで貰った。


		【神功皇后と羽白熊鷲(はじろくまわし)】

		日本書紀巻九の伝えるところによれば、仲哀天皇・神功皇后は熊襲征伐のため九州に赴いた。
		皇后は神の神託を求め、それに従って行動した様が記紀に記録されており、「小山田邑(おやまだむら)に斎宮(い
		つきのみや)を作らせ、自ら神主となって神託を聞く。神の教えに従って神々を祀り、吉備臣の祖、鴨別(かものわ
		け)を使わして熊襲を滅ぼし、服従させた。また荷持田村(のとりたのふれ)を根城にして暴れ廻る、「羽白熊鷲」
		(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞かず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を差し向けこれを討つ。

		神功皇后の戦歴は大変崋々しく、その中で羽白熊鷲や熊襲は国賊として登場する。書紀は国家による正史であるから、
		敗者が勝利者である政権側から不当な扱いを受けるのは当然であるが、熊襲や朝鮮半島の新羅討伐の記事はあまりに
		も簡素で、そっけないものになっている。故に、神功皇后の存在そのものと同様に、この事績は極めて疑わしいもの
		とされている。反して、羽白熊鷲に関する描写は具体的で、かつ記事も長い。






		皇后は軍勢を率いて御笠川沿いに南下し、砥上岳(朝倉郡筑前町夜須)の南麓に中宿 (本陣)を置いた。以来、この地
		は中津屋と呼ばれ、本陣跡は中津屋神社として残っている。その後、松峡宮(まつおのみや)[朝倉郡筑前町三輪栗田
		―栗田八幡宮] まで進み、今日、目配山(めくばりやま)と言われる山で物見をして作戦を立てたと言われる。
		筑後川の北側1キロの平野部に、巻貝の河貝子(カワニナ)を集めて城を築き(それでこの附近を蜷城(ひなしろ)
		という:現朝倉市蜷城)、熊鷲の目を引き付けておいて、秋月〜下渕の后の森、宮園の森、開屋の森、三府の森、会
		所の森、宮岡の森、梅園の森の七ヶ所に陣屋を設け、進攻した。しばしば戦闘を繰返しながら、鬼ヶ城山へ追い詰め
		て行っている。



		神功皇后の軍勢は、佐田川中流の山間部で矢箟(矢の幹)の材料となる篠竹を刈り取り(それでこの附近を矢ノ竹
		(やんたけ)という:朝倉市矢野竹)、熊鷲の一味を殲滅している。熊鷲は山沿いに北方に逃げ、古処山(コショサ
		ン)の北東6キロにある益富山で討伐された(大熊山)。
		神懸かりした皇后軍の前に、さしもの熊鷲も屈伏した。皇后は、古処山南麓へ戻り、「熊鷲を討ち取ったので即ち我
		が心安し」と周りに告げ、ここを安(やす:夜須)と名づけた。







		存在が危ぶまれている「神功皇后と」いう人名を除外すると、あとに残るのは「中央政権によって、一地方の豪族が
		討伐された」という記事だけである。年代的には、今日の考古学や歴史学の研究成果からみて、古墳時代の前期(西
		暦300年頃?)になってからのことと推測できる。
		羽白熊鷲という名前は、国賊として卑しめるため、大和政権によって命名されたものと考えられる。羽白とは、鳥の
		服装をして自分たちだけの世界で独自の祭祀を行う司祭者を、熊鷲は猛々しくて悪行の限りを尽くす野蛮な地方豪族
		をイメージしているかのようである。
		熊鷲の本拠地とされる荷特(に/のとり)を朝倉市秋月の野鳥と想定すれば、その支配領域は、もとの夜須郡、つま
		り現在の筑前町夜須と三輪全域におよび、旧甘木市(朝倉市秋月)にまたがる範囲が考えられる。




		この地名譚にいう荷持田村は、旧筑前国夜須郡秋月庄野鳥村とされる。江戸時代、貝原益軒が記録した「筑前国続風
		土記巻十」(元禄16年、1703年)によれば、「荷持田村ハ秋月ノ東古処山ノ麓ニアリ、(略)、今ハ野鳥村ト云ウ」
		と書き残しているし、「大方翁手記」には、「神功皇后ガ熊鷲ヲ討チ取リ給フ時、白山(古処山)ノ麓ノ者ドモ大御
		荷持ヲ運ビタレバ後ニ佃ヲ給フ、故ニ荷持田ノ名トナリタルベシ云々」とある。
		砥上神社の言い伝えとして、「神功皇后が新羅を討つため諸国の軍衆をここに集め、「中やど也」と言ったのでこの
		場所を仲ツ屋というようになった。そして、軍衆に命じて兵器を研ぎ磨かせたので、砥上というようになった」とい
		う。古代律令制での中津屋郷(一郷は約50戸で一戸は約20人)というのはこの「中ツ屋」付近とされ、現在の砥上を
		中心とした地域といわれている。





		荷持田村(のとりたのふれ)は今、福岡県朝倉市大字野鳥となっていて、私の小学校・中学校時代の友人は今もここ
		に住んでいる。私の卒業した秋月小学校も野鳥(のとり)にあった。子供の頃この話を聞いて、「羽白熊鷲」(はじ
		ろくまわし)という名前のおどろおどろした印象とは裏腹に、話自体には全く現実味を感じなかった。故郷の故事が
		日本書紀に載っている事にも、さしたる感動も覚えなかったが、今になってみると、どうしてこのような事象が我が
		故郷に残っているのかに俄然興味を惹かれている。




		書紀によれば、皇后は熊襲を討つため橿日の宮から松峡の宮に移ったが、三輪町栗田の松尾がその地といわれ、背後
		の目配山(めぐばりやま)は、皇后が熊鷲軍の形勢を窺った山として、山頂にある畳二枚ほどの大石は、皇后の腰掛
		石と伝えられている。また、新羅出兵の準備の際、船と兵を集めようとしたが、集まりが悪かったので、「大三輪の
		社」を建てて刀矛を奉ったのが、旧三輪町弥永にある「大己貴神社」(通称オンガサマ)と伝わる。
		この地は、南の広大な扇状地の要に位置し、戦略的にも重要な場所である。神社の祭神は「大国主命」で、これは敗
		者である熊鷲への鎮魂であると同時に、中央政権による勝利の証として打ち込まれた楔なのかもしれない。




		ところで、「筑前国続風土記」によれば、旧三輸町弥永からに上高場にかけて水を流す「千間溝」(約1800m)が紹
		介されているが、溝の構築年代は不明である。古代の律令制によれば、旧夜須郡には六つの郷が有ったとされ、その
		一つに雲堤郷(うんなでごう)がある。雲堤郷とは溝(うなで)であり、雲堤郷の範囲を溝(うなで)の流域、つま
		り弥永から上高場のあたりとする説がある。
		また書紀には、神功皇后の治世として、那珂川町の裂田の溝(うなで)の記載があるが、千間溝については何もふれ
		ていない。これらのことから、旧三輪町にある千間溝は、在地の政権により、つまり羽白熊鷲によって独自に構築さ
		れたもので、中央政権には認められないものだったのかもしれない。
		もっとも、神功皇后はその存在自体が疑問視されていることから、裂田の溝も、のちに皇后を神格化するため、彼女
		に結びつけられたものかもしれず、書紀のほかの地名譚の例からも、その可能性は高い。




		「古処山」(こしょさん)という、近在では一番高い山(864m)を根城にしていたという、この「羽白熊鷲」なる人
		物はいったいいかなる素性の人間だったのか?どこから来たのであろうか。
		書記に載るくらいだから、もし実在していたのなら相当な蛮族だっただろうし、この譚(はなし)が架空の物語だと
		したら、何故山峡の小さな町である我が故郷が、日本書紀の編者の目にとまったのだろうか?
		この後書記は、神功皇后が魚の力を借りて朝鮮半島に渡り新羅・百済の国を治める事になったと記し、「底筒の男、
		中筒の男、上筒の男」を祭ってそれが住吉大社になったと記録する。さらに帰国後筑紫で誉田別命(ほんだわけのみ
		こと)を産み、それ故その地を「宇美」と呼ぶようになったと記録している。神話的な要素の濃い説話の故に、この
		話そのものは後世の造作であり、朝鮮遠征そのものも実在しなかった逸話だとされ、ひいては神武皇后非実在説へ発
		展している。




		非実在・実在説の真贋については現在決着は着いていない。わからないのである。しかし住吉大社の縁起や、宇美町
		の実在等を考えるに、何かそれに類似した故事があったのではないかと思えてくるし、筑紫には神功皇后の伝承や事
		跡が至る所に残っている。
		我がふるさとにも、皇后が山頂に立って形勢を分析し作戦を立てたと云われる「目配り山」、皇后軍が駐屯したとい
		う、「后ノ森」、「宮園ノ森」「三府ノ森」。また、皇后軍が矢立を調達したという「矢ノ竹」。ここには私の高校
		時代の友人が住んでいて、我々その友人を「やんたけ」と呼んでいた。
		宮皇后が兵を集めるのに呼応して、人々が集合した場所だという大三輪神社(大己貴神社)は、地元では「おんがさ
		ま」と呼ばれて今も参拝者がある。他にも、秋月八幡宮、老松神社、美奈宜神社などの神社にも神功皇后の事跡と関
		わりのある縁起が残る。
		「神功皇后」や「羽白熊鷲」が実在していたかどうかは不明である。今後新たに確証が得られる可能性は低い。しか
		し、これらの伝承や事跡、古記録等々を検証すると、過去、この地に大和朝廷にまつろわぬ豪族がいて、その勢力が
		大和朝廷の支配下に組み込まれる戦いが、この地で行われたことはほぼ確実だろう。熊襲といい、熊鷲といい、ある
		いは後の磐井といい、九州の豪族は、近畿圏で勢力を伸ばしつつあった大和朝廷(の萌芽?)に対して、頑強に抵抗
		し続けたものと思われる。言い換えれば、大和朝廷が真に日本統一を成し遂げるまでに、そのような抵抗勢力が各地
		に存在したと云う事なのだろう。



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