Music: j fly moon

紀伊風土記の丘・資料館・岩橋千塚古墳群 歴史倶楽部 第167回例会 6月26日







	我が歴史倶楽部では、1999年7月に第22回例会として、2007.4.29(日)にも第121回例会で、この遺跡・資料館を訪れた。22
	回例会は服部・河原・栗本・井上の4人で、河原さんの友人がやっている南部川村の民宿「紫音」に1泊して、「熊野古道
	・岩橋千塚古墳・和歌山・南紀熊野博」と巡った。121回例会は、服部、河内、栗本、錦織、橋本、杉本、高野、田上、井上
	の9人で「貴志川線」に乗り、神武天皇の兄「五瀬命墓」を訪ね、沿線の神社を巡って紀伊風土記の丘へやってきた。




 	紀伊風土記の丘は、岩橋千塚古墳群の保存と活用を目的として昭和46年に開園した。約59万平方bの広大な敷地内には古墳
	群のほか、中心施設の資料館に、古墳から出土した遺物をはじめ民具なども展示されている。
	風土記の丘には、石室内部が安全に見学できるよう整備した将軍塚古墳(前山B53号墳)など、12基の古墳が点在している。
	また尾根の上に点々と並ぶ古墳が見られるエリアや展望台などもある。資料館の近くには、和歌山県の代表的な民家を移築
	保存したエリアや、万葉集に登場する植物が所狭しと植わっている万葉植物園なども整備されている。














	資料館の壁も、この結晶片岩を積んだ装丁になっている。資料館のすぐ裏手には竪穴式住居も復元されている。資料館の裏手
	から広場を通り、移築された民家の脇を歩いて尾根へ行き着くようになっている。舗装された登り道から脇へそれて古墳見学
	の道があり、見学後また舗道へ戻る。












































































































	上左の馬冑は、高句麗古墳壁画や騎馬傭に多く見られるが、日本では二例しか出土していない。ここにある「和歌山大谷古墳」
	のもの(重要文化財だがここにあるのはレプリカ。本物は上野にある。)と、もう一つ(埼玉県さきたま古墳群の将軍塚古墳、
	だったと思う。)である。
	高句麗の壁画には馬の兜はたくさん描かれているが、実物は東アジア全体でも16個しか出土例がない。韓国訪問の時、慶州
	の福泉洞古墳にもあったが、みなさん覚えてますか? その系統から言えば、紀州に来た渡来人たちは、おそらく高句麗を中
	心とした今の北朝鮮辺りにいた民族ではないかと考えられる。




	下の山中に付けられた丸いマークがすべて古墳である。ただ穴を掘って埋葬したのではなく、この山に多数ある板状の結晶片
	岩を、一枚一枚積み重ね盛り土をして完成させている。




































岩橋千塚古墳群


	<岩橋千塚古墳群> (紀伊風土記の丘)

	岩橋千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)は、和歌山市岩橋に所在する古墳時代後期後半の古墳群である。紀国造(きのくにの
	みやつこ)集団に関係する古墳群とみられる。約600基の古墳からなり、北の方鳴神地区には花山支群が、南の方岡崎地区には井
	辺八幡古墳支群がある。また、西の方宮地区には紀国造家が祀る日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両社がある。そのうちの一
	番大きな前方後円墳の天王塚(てんのうづか)古墳が紀国造の紀直(きのあたい)の古墳とみられる。6世紀後半頃に造営されたと
	考えられ、それより1〜2世代を下ると群集墳が造られなくなっている。その後の追葬や祭祀が余り行われていない。
	しかし、支群の井辺八幡山古墳群中に方墳の井辺1号墳が築造されている。つまり、族長だけがなおしばらく盟主墳的な古墳を造営
	していると考えられる。なお、これらの群集墳の造墓は、大化の薄葬令よりも約半世紀前に終了している。












	岩橋千塚古墳群は、江戸時代にはすでにその存在が知られていた。『紀伊続風土記』には古墳の所在に関する記述が見られる。イギ
	リス人のマンローは“Prehistoric Japan”1923(大正12)年のなかで岩橋千塚古墳群についてふれ、広く世界にも知られる遺跡とな
	った。岩橋千塚古墳群の調査は明治期に始まるが、本格的な調査は1918(大正7)年から和歌山県によって行われ、その後1931(昭和6)
	年に当時の内務省より史跡指定を受ける。












	1952(昭和27)年岩橋千塚古墳群が国の特別史跡に指定され、その後、第2次大戦中は古墳を利用して防空壕が設けられたり、戦後も
	燃料不足から岩橋千塚古墳群一帯の樹木が伐採され、さらには食糧難から遺跡地域の開墾計画が持ち上がるなど、この時代は岩橋千
	塚古墳群にとってまさに受難の時代だった。
	1948(昭和23)年に入って、地域の人たちから大切な郷土の文化財を守るべく岩橋千塚に対する保存の声が出始める。1962(昭和37)年
	から和歌山市が調査、1967(昭和42)年には和歌山県が調査し、その成果や蓄積された情報をもとに特別史跡範囲を対象に「風土記の
	丘整備計画」が進行、1971(昭和46)年に至り岩橋千塚古墳群の保全と公開を目的として「紀伊風土記の丘」が開設された。そして現
	在に至るまで、古墳群の分布調査や保存・公開を目的とした発掘調査を継続して実施している。














	紀ノ川下流左岸の和歌山平野が一望できる丘陵地にある岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群は、約700基にも及ぶ古墳群からなり、大
	部分の古墳は1500年前から1400年前までの約100年間に築造されたと推定されている。この古墳の重要性はすでに明治年間に指摘され
	ており、その数の多さに加えて、その石室の構築技術が注目されていた。この古墳群は、横穴式石室に石棚(いしだな)・石梁(いし
	はり)を持つ古墳が多く、とくに石梁は全国でも他に類例をみない。

	岩橋千塚古墳群から出土した遺物には大陸との関係を色濃く残すものも多く、この地域を治めていた首長達は、大和政権との関係を
	保ちながら、同時に大陸との交流にも関与していたと思われる。この古墳群は、これらの首長達とその一族の墓ではないかとされ、
	後の紀氏一族の墓群ではないかとする見方もあるが証明はされていない。




















	岩橋千塚古墳群は、紀ノ川下流の南側、JR和歌山駅東方約2kmの丘陵地(標高20〜150m)を中心に分布する古墳時代後期後
	半の古墳群である。その範囲は、花山地区・大谷山地区・大日山地区・岩橋前山地区・井辺前山地区・井辺地区・寺内地区などおよ
	そ3キロ四方に広がり、北に紀ノ川、西は日前宮を中心とした岡崎平野に面している。この地域は、平野部の少ない和歌山県内にあ
	って、最も広い平地が広がり穀倉地帯となっている。

	国特別史跡の岩橋千塚古墳群は、後期を中心とする我が国最大規模の群集墳である。古墳群は花山(はなやま)・大谷山(おおたに
	やま)・大日山(だいにちやま)・岩橋前山(いわせまえやま)・和佐(わさ)・井辺(いんべ)・井辺前山(いんべまえやま)・
	寺内(てらうち)の八支群からなり、古墳総数は700基にちかい。稜線には天王塚(てんのうづか)・将軍塚(しょうぐんづか)・
	郡長塚(ぐんちょうづか)などの前方後円墳を配し、尾根には無数の円墳や方墳が分布する。








	後期の古墳には緑泥片岩(りょくでいへんがん)を積み上げた横穴式石室が多く、また玄室には石棚や石梁が多く、この古墳
	群の特徴となっている。古墳には、日前宮(ひのくまぐう)を奉祭し和歌山平野を支配していた、紀伊国造(きいのくにのみ
	やっこ)紀直(きのあたえ)一族や家臣達が葬られたと推定できる。盗掘を受けた古墳も多いが、井辺八幡山古墳や大谷山22
	号墳からは人物埴輪や形象埴輪などが多数出土している。風土記の丘には資料館があるが、この古墳群からの出土物の多くは
	「和歌山市立博物館」などに分散して展示されている。













定例の位置で記念撮影。



	翼広げて飛ぶ鳥形埴輪見つかる 和歌山の古墳で国内初 asahi.com 2005年07月20日22時52分

	

	岩橋千塚古墳群から見つかった翼を広げた鳥形埴輪=20日午後、和歌山市の和歌山県教委で
 
	和歌山県教委は20日、和歌山市岩橋の国の特別史跡「岩橋(いわせ)千塚古墳群」で、翼を広げて飛ぶ姿を表現した鳥形
	埴輪(はにわ)が見つかった、と発表した。6世紀前半に作られたとみられる。鳥形埴輪は全国で100例以上見つかって
	いるが、翼を広げた埴輪は初めてという。同教委は「埴輪の変遷を知る上でも貴重な資料だ」としている。 
	見つかった鳥形埴輪は全体が赤茶色の素焼きで、高さ約40センチ、全長約50センチ。右側には長さ約25センチの翼が
	接合され、左翼はちぎれた状態だった。水平に飛んでいる格好を表したとみられる。 
	胴体には直径1センチ程度の穴が約10カ所あり、制作当時、実際に鳥の羽が差し込まれ、装飾された可能性があるという。 
	同古墳群にある前方後円墳(大日山35号墳)の東側のくびれ部分で見つかり、破片をつなげる復元作業をしていた。鳥形
	埴輪には、死者の魂を来世に運ぶなど様々な解釈があるが、飛ぶ形にされた理由は不明という。 
	同古墳群は約700基の古墳があり、有力豪族だった紀氏の墓とみられている。出土した埴輪は、同市岩橋の県紀伊風土記
	の丘で26日から9月19日まで展示される。 
 


	【天声人語】2005年07月23日(土曜日)付
 
	まず、ぽっかりと開いた目にひきつけられる。黒い穴のような目の先に短いくちばしがあり、右の肩から翼が伸びている。
	和歌山市の「岩橋(いわせ)千塚古墳群」で出土した鳥形埴輪(はにわ)の写真を見て、一時心がなごんだ。
 	埴輪の顔が私たちをひきつけるのは「切りとった目ゆえである」と国立歴史民俗博物館の館長だった佐原真さんが書いてい
	た。「埴輪の顔に対するとき、人はおだやかな眼差となる。切りとった目は、目の輪郭にすぎず、黒目がない。埴輪は相対
	する者を凝視できない」(『日本の美術』至文堂)。
 	人物埴輪についての記述だが、動物の埴輪にも通じるところがあるように思う。「埴輪に対する人は、見つめられることな
	しに、見つめることができる」。それだから、やすらいだ気持ちで埴輪に向かうことができると佐原さんは記す。
 	東京・両国の江戸東京博物館で開催中の「発掘された日本列島2005」には、全国各地からの様々な出土品と共に埴輪も
	幾つか展示されている。中に奈良県巣山古墳で出土した3羽の水鳥形埴輪がある。白鳥を思わせるこの埴輪の目は、くりぬ
	かれてはいない。しかし、これはこれで、じっと遠くを見ているような風情がある。
 	鳥形の埴輪には、死者の魂を来世に運ぶといった解釈もあるそうだ。翼を広げたものが出土したのは、今回の和歌山が初め
	てという。奈良文化財研究所の高橋克寿・主任研究官は「渡り鳥のように飛ぶことが得意な鳥をモデルにしたと考えられる」
	という。古代からよみがえった謎の鳥は、想像の翼を広げてくれる。

	





邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 167回例会・和歌の浦