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吉野ヶ里遺跡
歴史倶楽部 第168回例会 8月6日
私のデジカメはここに至って、屋外なのにどういう訳か全く良い写真がなかった。のっけから粗い粒子のザラザラした写真ばっかりだ
ったので、全面的に私の写真使用は断念した。代わりに西本さんが沢山写真を撮っていてくれたので、このコーナーは西本さん、河原
さんの写真を使わせて貰う事にした。
上の写真は、下で私が写していますが、全面的に白っぽくとても1630万画素のデジカメ写真とは思えません。
吉野ヶ里遺跡は広大なので、足が悪い服部さんには無理矢理車いすに乗って貰う事にしました。
吉野ヶ里遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)とは、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に、およそ50ヘクタールにわたって
遺構が残る、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。
1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見され、現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見
やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(88番)
に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
復元された竪穴式住居佐賀県東部は、福岡県境に標高1,000メートル前後の脊振山地を北端に、脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野(筑
紫平野)、有明海へと移るにつれて標高が低く南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の1つである。
吉野ヶ里遺跡の最大の特徴とされるのが集落の防御に関連した遺構である。弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、V字型に
深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかも
ぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。大きな外壕の中に内
壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
内郭の内外に建物の遺構が発見された。竪穴住居、高床住居は祭祀に携わるものやその側近が暮らしていたと考えられており、祭祀が行
われる主祭殿、東祭殿、斎堂とともに内郭の中で見つかっている。また、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡な
ども発掘された。
多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓は、住民や兵士などの一般の人の共同墓地だと考えられている。一方、遺跡の南
部と北部にあわせて2つの墳丘墓(それぞれ「北墳丘墓」「南墳丘墓」と命名されている)があり、こちらは集落の首長などの墓ではな
いかと考えられている。発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、
倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。また、ガラス製の管玉などの装飾品が一緒に埋葬されたものも多く見つかっている。
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や
祭祀に用いられるものなどがある。1998年には、九州で初めてとなる銅鐸が遺跡の周辺部で発見された。九州北部で製造されたと推定さ
れており、形状から福田型銅鐸とみられている。
出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるが、中国大陸、朝鮮
半島、南西諸島と共通・類似したものも多く見られており、吉野ヶ里への渡来人の来航や吉野ヶ里から各地域への渡来によるものとみら
れる、さまざまな面での共通性が見られる。
また、遺跡内にある3基の前方後方墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられている。
吉野ヶ里遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<弥生時代>
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。前期には、吉野ヶ里丘陵
のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環壕が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕
棺が多く見られるようになる。大きな憤丘墓になると南北約46メートル、東西約 27メートルの長方形に近い憤丘で、高さは4.5メートル
以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つ
の内郭ができ、文化の発展が見られる。
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、
遺構からは港のようなものがあったと推定されている。吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持っ
たと考えられている。
吉野ヶ里歴史公園で実際に復元されているのは、環濠、竪穴住居、高床住居、物見櫓(柱の跡や木材が遺構として残っており、これから
復元されている)、柵、逆茂木、高床式倉庫、墳丘墓などである。
遺構の保護やさらなる発掘のため、もともとあった場所から異なる場所に復元されたものもあるが、盛り土をして遺構を保護した上でも
ともとあった場所の真上の同じ場所に復元されたものもある。
また、遺跡の周辺部では、遠くからも分かる目印として物見櫓が立てられているところもある。公園の南端はJR九州の長崎本線に接して
おり、同線の吉野ヶ里公園駅と神埼駅の間では列車内から物見櫓等の建造物を遠望することができる。
出土品の多くが、公園内にいくつかある施設内に保管され、展示が行われている。実際に手で触ることができるものもある。
吉野ヶ里遺跡・資料室
吉野ヶ里遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
<縄文時代>
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域
が海と近かったことがあると考えられている。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、
有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。
有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、
また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
吉野ヶ里遺跡では、この長い弥生時代の全ての時期の遺構・遺物が発見されている。これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志
倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので、国の特別史跡に指定されている。また、有柄銅剣やガラス製管玉等の出土
品は国の重要文化財に指定されるなど、出土品の多くが、高い学術的価値を有するものである。
吉野ヶ里(よしのがり)は、1986年から佐賀県教育委員会によって発掘調査が開始され現在もなお継続した調査が行われている。これま
での調査より、弥生時代前期初頭に小規模な環壕集落が丘陵南端に形成され、前期には3ヘクタール、中期には推定20ヘクタール超、後期
には40ヘクタールを超す大規模な環壕集落へと発展したことが判明し、後期後半には望楼を備えた環壕によって囲まれた特別な空間(北
内郭・南内郭)の存在が確認されている。しかもそれぞれの時期の特徴をよく表しているものが見つかっており、この時代にどのように
社会が変化していったかが分かる極めて学術的価値の高い遺跡である。
弥生時代中期(紀元前2〜紀元1世紀)南の丘陵を一周する大きな外環壕が掘られる。首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も
見られ、集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえる。
エントランスはまるでどこかのテーマパークの入り口のようで、相当コストを掛けてこの遺跡を整備しているのがわかる。広範囲な遺跡
群をまるまる復元して、一大「弥生村」を出現させようとしている。新しく発掘調査が終了した北方面の区画に、大きな祭殿跡と見られ
る柱坑や集会所跡、甕棺墓などが発見されたため、それらについても復元施設が建設されている。環濠や防御杭なども発見場所に復元さ
れている。この広大なエリアを見ていると、ここが邪馬台国ではないかと思えてくる。
魏志倭人伝に記されている「楼閣」を思わせる掘立柱穴跡が、内濠の内側で東西2ケ所発見されている。柱の数はいずれも6本。大きさ
は一辺約1mで、全体の大きさは縦約7.5m、横約5m。現在復元されている物見やぐらは、床高6.5m、高さ12mで、柱穴跡か
ら推定して復元されている。
弥生時代にこのような高さの建築物を、しかも大木に穴を開け組み合わせてやぐらを組む技術がすでに1800年前に存在していたのである。
吉野ヶ里もそうであるが、最近次々と発見される縄文・弥生の遺跡、青森三内丸山、鹿児島上野原、大阪池上曽根、奈良唐古鍵、福岡平
塚川添等々の遺跡の内容を見ていくと、人間は、土木・建築や生活の技術というものを相当昔から確立していたのがよくわかる。
我々が今まで考えていた以上に、古代においても計画・管理された社会を営んでいた可能性がある。
環濠は、弥生前期には発生していた。大規模な環濠は中期に出現し、そのまま利用され後期まで使われた。二本の川が、堀の役割をして
いたが、それでは防護が不十分であったようだ。弥生後期になると内濠をつくり、主要と思える大きな建物がこの中に作られていく。
この環濠の傾斜、深さはどうだ。大阪の和泉にある「池上曽根遺跡」の環濠と比べると、これこそが環濠だという気がする。近畿地方の
環濠は浅く、単に水を集落へ導くための用水路のような気がする。比べて、九州地方の環濠は、有名な壱岐の「原の辻」、甘木の「平塚
川添」をはじめとして「板付遺跡」などでも、その傾斜は急で、明らかに外敵に対する防御施設である。
弥生時代の、穀物をめぐる戦いもまず北九州で始まったのだろう。そして、それが東へ行くにつれ、次第に争いは減少し、近畿で弥生村
が営まれる頃は、環濠はもう本来の目的を失っていたのではないだろうか。
遠くに見えている山々は背振の山並である。あの向こうに伊都国、末羅国がある。それにしても、よくぞまぁと思わせるほど見事に復元
されている。相当カネが掛かったんだろうな。後の支払いは大丈夫かいなと心配になるが、しかし同じ借金返済でもこんな施設の借金な
ら、乗客もいず、やがてペンペン草が生える空港の借金なんかよりははるかに支払いがいがあると言うものだ。
弥生時代後期(紀元1〜3世紀)、国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である
2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになる。特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたる。
吉野ヶ里では、甕棺墓、土コウ墓、箱式石棺墓と様々な墓制が見られるが、一番多いのがこの甕棺墓である。二つの甕を合わせた中に、
座った姿勢で埋葬されている。数は少ないが、そのまま埋める土コウ墓、箱式石棺墓もあり、これらは近畿地方でも存在するが、一つ
の遺跡で坡、その数は10基内外というように少ない。吉野ヶ里では、すでに2000基の甕棺墓が発掘されており、最終的には、15000基は
あるだろうといわれている。
北内郭は、内部に中期の墳丘墓に南面する祭殿と目される大型建物を含む掘立柱建物跡が存在するなど、司祭者の居住・祭祀の場と考え
られ、南内郭は高階層の人々の居住区と考えられる。
南内郭西方に存在する大規模な高床倉庫と目される掘立柱建物跡は、その規模・構造から「市」の存在も推定されるなど、クニの中心集
落へと発展した姿を読み取ることができる。
また、前期末から大型甕棺墓が盛行するが、中期の600メートルに及ぶ長大な列状の集団墓地などとともに、歴代首長を埋葬したと考え
られる大規模な墳丘墓が存在して、銅剣やガラス製管玉、絹布片などが出土し、階層分化と首長権確立のありさまを示している。
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 168回例会・吉野ヶ里遺跡