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山鹿市立博物館 歴史倶楽部 第168回例会 8月5日







	山鹿市立博物館は、昭和53年4月1日、熊本県内で2番目に開館した博物館ある。建物は鉄筋コンクリート2階建て、延べ面積681
	平方メートルの小さな博物館だ。山鹿市を中心とした菊池川流域の考古資料のほか、歴史資料や民俗資料が展示されている。また
	近年発掘された「方保田東原遺跡」の、全国に唯一の石包丁形鉄器や、30数例しかない巴形銅器など大変貴重な資料もここにある。
	博物館周辺は歴史公園「肥後古代の森」として整備されていて、装飾古墳として有名な史跡チブサン・オブサン古墳まで徒歩15分
	の「古代への道」が続いている。但しチブサン古墳は、決まった時間しか開示していないので、時間を調べていく事が肝要。
	そのほか江戸時代の民家や、全国第二位の用水橋(石橋)である「大坪橋」が移設復原されており、また「西南の役」錦絵も復元
	展示されており、文化財あふれる空間となっている。

	主な展示資料

	〔旧石器〕尖頭器(市指定)、ナイフ形石器
	〔縄 文〕縄文土器、土偶、骨角器
	〔弥 生〕丹塗土器・家形土器・巴形銅器・青銅鏡・石包丁形鉄器(県指定)、中広銅矛(市指定)
	〔古 墳〕鏡、勾玉、馬形埴輪、人物形埴輪、鳥形埴輪
	〔古 代〕中村廃寺瓦、墨書土器、凡導寺経筒(県指定)
	〔中 世〕輸入陶磁器、瓦質土器
	〔江 戸〕湯町絵図(市指定)、古事記伝写本(県指定)
	〔明 治〕西南の役山鹿口の戦い錦絵

 
	開館時間 9:00〜16:30
	休館日  月曜日・祝日の翌日・年末年始
	入館料  一般・大学生210円、高校生以下50円
	     (山鹿市内の小中学生は無料)
	      団体(20名様以上)は2割引
	交  通  
		◎公共の交通機関(九州産交バス利用)の場合
		・熊本市内から…交通センターA2番乗り場から山鹿温泉行きで1時間「山鹿バスセンター」(終点)下車、瀬高駅行きに
		 乗り換え。5分「鍋田」か7分「博物館前」下車、徒歩10分。
		 ※瀬高駅行きは本数が少ないため、ご注意ください(山鹿バスセンターから博物館までタクシーで1,000円程度)。

		◎自動車の場合
		・熊本市内から…国道3号(28km)→国道443号(5km)
		・九州道 南関ICから…国道443号(15km)







上は橋爪君を追加しています。うまく収まっているでしょ。






	私はこの親子については知っていた。伊勢・松坂に「本居宣長の館」を訪ねたとき、そこにこの親子の記事があった。娘の「京」という
	名前も変わっていたのと、15歳の京が書写する「古事記伝」の文章が宣長を驚嘆させたというので、妙に記憶に残っていたのである。
	それに帆足(ほあし)という名前はそうそうあるもんじゃない。私のワンゲルの先輩に一人いたが、もしかしてあの帆足さんの先祖は
	山鹿出身だったのかもしれない。以下はその時の文章である。
	
	宣長50歳代が天明年間(1781〜89)にあたり、世の中は飢饉に噴火、政変、大火と大混乱の中にあるが、宣長はその学問業績を積み
	重ね、執筆中の「古事記伝」も次第に全国に知れ渡り、宣長の名声も高まる。諸国からの入門者、来訪者も増えていった。 
	熊本県山鹿市の神職であった帆足長秋は、「古事記伝」の刊行を待ちきれず、娘京と「古事記伝」書写の旅に発つ。帆足京は15歳の
	若さながら、見事な書体で古事記伝を書写し宣長を驚かせた。帆足長秋・京親子の書写した「古事記伝」は本居宣長記念館以外では、
	唯一現存している全巻揃いの古事記伝写本となっている。熊本博物館前には、旅立つ帆足長秋・京父娘の像がたっている。
	
	熊本博物館前というのは間違いで、ここ山鹿市博物館前だったのだ。



ガラスの説明板に「西南戦争時の銃弾の跡」とあったが、どこにそれがあるのか判らなかった。












	「西南の役山鹿口の戦い」  山鹿市教育委員会

	明治10年(1877年)に起きた西南の役で、山鹿口の戦いは、田原坂の戦いと並ぶ激しいものでした。西郷隆盛は、福岡方面から
	南下してくる政府軍を阻止するため、山鹿を重要な戦略拠点とし、豪将桐野利秋率いる四番大隊を山鹿に差し向け、本陣を敷きました。
	薩軍が山鹿に入ってきたのは同年2月25日です。それから、数回にわたる激戦を経て、3月20日に田原坂が落ち、薩軍が山鹿を撤
	退するまでの24日間、ここが作戦基地となりました。本陣は梅の井旅館(山鹿ホテルの西隣)に置かれ、桐野利秋は、戦いの前半、
	ここにいました。3月21日には、政府軍が山鹿入りします。本営は薩軍がいた梅の井旅館にそのまま置かれ、山鹿口の戦いは終焉を
	迎えました。
	宮崎滔天(とうてん)の著書「熊本協同隊」には、「山鹿は有名なる温泉場なり、すなはち食うに佳肴あり、飲むに美酒あり、加うる
	に人民の歓迎を以ってす。人々をしてそぞろに賊軍をうらやむの念を生ぜしむ」と薩軍を歓迎した様子が書かれています。
	薩軍が山鹿にいたこの間に、日本最初の民権政治がおこなわれました。平川惟一(のぶかず)、宮崎八郎らで組織する熊本協同隊は、
	西南戦争が勃発すると、薩軍と一緒に参戦します。そそて、山鹿に彼らが理想とした民権政府を作り、地元の野満長太郎を民政官に選
	出しました。普通選挙により人民総代を選び、総代により町の円滑な政治が行なわれました。しかし、この試みも薩軍や熊本協同隊の
	山鹿撤退と同時に崩壊しました。

	熊本と福岡を結ぶ豊前街道は、当時は戦略的に重要な意味を持つ街道でした。その街道沿いの山鹿もまた、重要な戦略拠点です。山鹿
	の豊前街道は現在も残り、昔の古い建物も残る、風情のある様相が、往く人の目を楽しませます。また、八千代座、山鹿灯篭民芸館
	(元安田銀行・有形文化財)などが現存しています
























旧石器時代






























縄文時代


























弥生時代






























方保田東原遺跡














































































古墳時代






































































律令時代












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