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歴史公園・鞠智城 歴史倶楽部 第168回例会 8月5日









	<鞠智城の概要>

	鞠智城は熊本県唯一の古代山城で、「続日本紀」の文武天皇2年(698)5月の条に初めて城名が見え、最後は「日本三代実録」の元慶
	3年(879)の条まで、城に関する記載がある。鞠智城跡の城域面積は、中央部の内城地区だけで55 haの広さがあり、菊鹿町米原の集
	落、農地、山林、丘陵を取り込み、一部は菊池市の堀切地区まで拡大している。
	昭和42年からの発掘調査は、平成11年度で21次を数えるが、調査の積み重ねによって遺跡の全容が明らかになりつつある。八角
	形建物跡、貯水池跡、貯木場跡が検出され、木簡も出土した。 これらはわが国の古代山城として初めての発見である。
	これまでに見つかった建物跡は総数67棟を数える。建物の性格は、鼓楼(八角形建物)、米倉、武器庫、兵舎、管理棟的建物が考え
	られる。鞠智城は大宰府の後背地に造られた兵站基地と位置付けられており、大野城や基肄城に食料や武器を補給し、支援の兵士を送
	り込む役割を担っていたものと思われる。日本史ばかりでなく、東アジア史を考える上でも重要な遺跡である。


	<鼓 楼>
	鞠智城のシンボルとなる「八角形建物」。鼓楼【ころう】と呼ばれ、役割としては最上階に太鼓を置いて連絡等を行っていたと考え
	られている。このような八角形建物は全国の古代山城では初めての発見である。高さ:15.9m、最大幅:8.2m。1層目の柱数は
	48本、2層、3層目には16本の柱にて支えられている。3層には連絡用の太鼓を置いていたと考えられている。 




	1300年前の古代山城「鞠智城」。大宰府とこの地は密接に関わっていたと考えられる。車から降りると、復元された古代山城の
	壮大な景色が目に入ってくる。それが「鞠智城跡」である。県外にはあまり知られていないようだが、その復元された建物や緑一面
	の敷地に足を運ぶと、一瞬でタイムスリップしたような気になる。広い敷地内に、八角形の鼓楼、米倉、兵舎、板倉などが点在して
	いる。上左は当地の物産品や土産物を売っている「長者館」で、上右はこの歴史公園の資料館である「温故創生館」である。まずこ
	の資料館に入ってみる。





	鞠智城	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	歴史公園・鞠智城

	城郭構造 古代山城 
	天守構造 なし 
	築城主 大和朝廷か? 
	築城年 不明 
	廃城年 不明 
	遺構 建物基礎 
	指定文化財 国の史跡 
	再建造物 米倉・板倉・兵舎・鼓楼 

	鞠智城(くくちじょう)は、古代山城(朝鮮式山城)の一つ。熊本県のサイトでは、きくちと振り仮名が振られている。熊本県山鹿市
	(旧鹿本郡菊鹿町)から菊池市にかけて所在する。菊池市隈府にあった菊池氏の居城「菊池城(菊池本城)」とは別の城である。

	文武天皇時代の修築記事(698年)ではじめてその名が正史に登場するが、築城年は記載がなく現在も確定されていない。しかし、7世
	紀後半、倭軍が朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れて、その来寇に備える軍事拠点と位置づけられて築城されたものであろう。
	古代史の資料「六国史」の記述や百済系瓦の出土例などから、鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡から
	は百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。
	大宰府管轄下にあった6城の1つで、大野城・基肄城の兵站基地として有事に備えた城と考えられている。城の面積は内城55ha、外縁地
	区65haに及ぶ。
	昭和34年(1959年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。昭和42年(1967年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい
	八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。
	平成6年(1994年)より歴史公園鞠智城・温故創生館として整備が開始された。校倉造りの米倉や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形
	鼓楼が平成11年(1999年)に復元され公開されている。平成16年(2004年)に国の史跡に指定された。

	『続日本紀』文武天皇二年(698年)五月二十五日条
	「大宰府をして、大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城を繕治(ぜんち)せしむ」 

	『三代実録』元慶三年(879年)三月十六日条



古代をしのぶ鞠智城のシンボル 「鞠智城温故創生之碑」



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鞠智城最盛期復元図 この図のうち、八角形建物(鼓楼)と米倉、兵舎については復元されている。


















	鞠智城(きくちじょう・くくちじょう)とは?   熊本日日新聞社刊「グラフよみがえる鞠智城」より抜粋

	古代、天智天皇(正確には中大兄皇子時代)の時代に、日本は朝鮮半島に大規模な軍事介入を起こします。これは、当時三国(高句麗、
	新羅、百済)分立時代だった朝鮮半島で、新羅が唐と結び百済を滅ぼした事に脅威を感じた天智天皇が百済の再興を願って、大軍を半
	島に派遣したということです。
 	しかし白村江(はくすきのえ)で待ち受けていた唐・新羅連合軍に日本軍は大敗北を喫し( 663年)、この後天智天皇は唐・新羅連合
	軍の日本侵攻を危惧し、西日本の各地に国土防衛上の施設を造らせます。対馬の金田城、筑紫の大野城や基肄城、水城等の施設がそう
	ですが、鞠智城もその一つとして築城されたと考えられています。ただ、有事の際最前線基地となる金田城、大野城、基肄城等と違っ
	て、鞠智城はこれらの城よりずいぶん内陸部に造られており、後方支援(武器・食糧を前線に供給し兵士を送る兵站基地)を主たる任
	務としていたと考えられています。
	尚、呼称については、古来「鞠智(く・く・ち)」であったのが平安時代に「菊池(き・く・ち)」になり、現在では「鞠智城」で
	「きくちじょう」とも「くくちじょう」とも呼ばれているようです。

	以前は鞠智城を「くくちじょう」と呼んでいたが、現在では「きくちじょう」に統一されたようだ。






	「鞠智城跡」は熊本県指定史跡で、「続日本紀」に登場する山城である。大和朝廷が7世紀後半に太宰府を守る為に築いた軍事拠点と
	考えられている。その広大な遺構からは木簡、軒丸瓦など貴重な資料が出土している。特に木簡は今まで古代山城遺跡からは出土した
	例が無く、日本で初めてである。山鹿市では一帯を歴史公園として進めており、現在までに鼓楼、米倉、兵舎、板倉などを復元してい
	る。 特に1999年10月に完成した鼓楼は八角形の珍しい建物で、当時は太鼓を置いていたといわれている。同様の建物は 中国や
	韓国にしか存在せず、当時の日本と大陸との繋がりを証す建物として話題を呼んでいる。  
 



	鞠智城は西暦660年頃、大和朝廷が日本を治めていた時代に、朝鮮半島からの侵攻に備えて作られた古代山城。当時朝鮮半島には、
	百済、新羅、高句麗という3つの国があったが、660年、日本と友好関係にあった百済が、中国を支配する唐と新羅の連合軍に攻
	め込まれた。救援を求めらた日本は援軍を送ったが、663年、白江村【はくすきのえ】にて大敗してしまう。このことが元で、鞠
	智城は誕生した。  
	百済が滅んだ後、天智天皇は博多湾近くにあった朝廷の機関「那津官家【なのつみやけ】」を防備のため大宰府に移す。これが大宰
	府の始まりと考えられている。またその大宰府を守るため、百済の亡命者による築城技術を組み入れ、要所に山城を築いた。大野城
	(福岡県)、基肄城【きいじょう】(佐賀県)、金田城(長崎県対馬)が造られ、ここ鞠智城はこれらの城への食料、武器、兵士の
	補給支援基地とみられている。



クリックするとまた善男善女が。何かもう夫婦のようにして写ってますが、他人です。




	<高床式倉庫跡>

	掘立柱建物跡に復元された高床式倉庫(柱のみ)。面積83.78u、屋根の高さ9.0m、床の高さ1.5m。建物の配置から、正史に記述さ
	れた「兵子(武器庫)」のひとつではないかとみられている。 刀などの武器の出土はないが、当時の戦いは歩兵戦が中心で、太刀や
	弓矢、矛などをもって戦っていた。上級兵士(将)は小さな鉄の板を閉じ合わせた鎧(挂甲【けいこう】)を身に付けていた。  

	
	9月29日、「陪冢姉妹さん」から来たmailで以下を指摘された。負け惜しみではなく、実は私もここじゃないなと思いながら、「ま、
	いいか。」くらいの気持ちでそのままにしておいたのである。資料では兵舎の裏辺りにあるような感じだったが、さすがに地元の人
	はゴマカせない。お詫びして訂正します。ここは<高床式倉庫跡>ではありません。「兵舎の裏辺り」も怪しい。
	私は<掘立柱建物跡>かなと思っていたのだが、「八角形鼓楼の柱の本来あった場所」だそうである。平にご容赦。そういえば、柱
	が密集していて模型と符合する。八角形鼓楼は本来ここに建っていたのである。そうだったのか。

	
	追伸:筑前さんの、今回の鞠智城訪問記のページ内のキャプションですが

	<高床式倉庫跡> ・・・・・

	...の部分で、西本さん?が立っておられる柱は、高床式倉庫跡ではなく、八角形鼓楼の柱の本来あった場所を示していますので、今、
	キャプションの入っています位置の二枚下の写真の下あたりが適当かも知れません。
	(※現在の復元鼓楼は遺跡保護のため、本来の発見場所より少しオフセットして建てられているそうです)

	筑前様のことですので一応、ご存知かと思いますが、ご参考まで書き添えておきます。	それではまた 9/29





陪冢姉妹さんによれば<高床式倉庫跡>はこのあたり(上)にあったもののようだ。区分されている所がそうかもしれない。或いは下かな?



	
	先のmailを貰って<高床式倉庫跡>を訂正したら早速翌日以下のmailと3枚の写真が送られてきた。「兵舎跡付近」で良かったのだ。

	筑前様
	
	鞠智城の件、先日訪問の際におさえておいた資料(写真3点)を添付いたします。私からのひとつ前のメールで、
	>陪冢姉妹さんによれば<高床式倉庫跡>はこのあたり(上)にあったもののようだ。区分されている所がそうかもしれない。或い
	は下かな?

	とありますが、下が正解です(笑)

	...と書きましたが、これは間違いかもしれません。取り消してください...どうもすみません...
	写真のもの(板倉復元建物)が正解と思います。うしろに見えている柱のあと?と思われます。

	9/30 陪冢姉妹












	<米 倉>
	米の保管場所とされる建物。高床式・校倉造り・ねずみ返しと当時の米倉の特徴を兼ね備えている。間口7.2m、奥行き9.6m、屋根
	は瓦葺きであったと推測されている。高床式の為、風通しが良く、兵糧米にとっては最高の環境だったと思われる。三角形の建築材
	を組み合せて外壁とする校倉造りは、奈良の正倉院にも引き継がれる。計算上この米倉には1200俵が保管できたそうである。復元米
	倉は1棟だけだが、当時は複数棟あったようだ。瓦は色も再現した復元瓦。(鼓楼の瓦も同じ。) 






    <兵 舎>
	防人【さきもり】達が寝起きしていた建物である。間口8.0m、奥行き26.6m、土間面積213.6u、屋根までの高さ6.3m。板葺き屋根、
	土壁、土間造りが特徴。板葺き屋根で、3枚の厚板を重ね合わせていた。窓は突き上げ式で棒で支えていた。復元されてからは、各
	種の出土品の仮展示場として使用されている。 

	「防人」とは元来「崎守」の事で、主に大陸に面する北部九州の崎々に配属されて国土の防衛にあたった。防人が正式に制度化され
	たのは白村江の敗戦後のことで、当初は西国の兵士が主体となる予定だったが、百済救援などの戦闘に参加した疲労が激しく、任務
	に耐えなかった為に全国各地から徴兵される事になった。徴兵された兵士は自前で武器・武具などの装備を整え、難波津(大阪)に
	集まって船で瀬戸内海を下り、大宰府を目指した。九州に入ってからは、各地に配属されて軍務のほか、食料の自給自足制度の為、
	空き地の開墾作業にも従事した。兵役は3年間で、老父母の面倒を見ているものは免除されたというこの制度は、730年に廃止さ
	れるまで続いた。
  









	かねがね私は、古代山城がほんとに白江村の大敗のみが原因で築かれたのだろうかという疑問を持っていたが、以下の記事にあるよう
	な意見もやっぱりあるのだ。勿論防御の意味合いも濃かったと思うが、私見では天智天皇は山城を築くことで、大和朝廷の基盤固めを
	目論み、ひいては「中央政権」への足がかりとしたかったのではないだろうか。


	謎の鞠智城、九州南部統治の拠点説が急浮上		歴史と文化財(2009年7月31日  読売新聞) 

	白村江(はくそんこう)の戦い(663年)直後に築かれた古代山城(こだいさんじょう)のうち、唯一、築城目的が謎めいていた鞠智
	きくち)城(熊本県山鹿、菊池市)についてのシンポジウム「古代山城 鞠智城を考える」が25日、東京都千代田区の砂防会館別館
	で開かれた。同城周辺の古代官道の存在に焦点があてられ、九州南部の隼人経略のために築城された、とする説が急浮上してきた。

	古代山城は、唐・新羅の侵攻に備え、朝鮮半島の技術を導入して築城された。大野城(福岡県大野城市、宇美町)、基肄(きい)城(佐
	賀県基山町、福岡県筑紫野市)は、大和朝廷の対外拠点・大宰府(福岡県太宰府市)から約5キロ圏内にある。だが、同時期に築かれ
	たとみられる鞠智城は、熊本県北部にあり、大宰府と約80キロ離れ、有明海からも約30キロ内陸部にある。唐・新羅の侵攻に備え
	たにしては、大宰府からも海からも離れた特異な位置に存在する。ほかの古代山城も対馬から九州北部、瀬戸内海、近畿へ向かう防衛
	線に沿って点在するのに対し、鞠智城だけがそこから離れて位置しているのだ。では、何を目的として築城されたのだろうか。

	岡田茂弘・国立歴史民俗博物館名誉教授(日本考古学)は、歴史地理学の成果に解明の糸口を探る。鞠智城から有明海方面、大分・宮
	崎県方面に、「字(あざ)車町」(菊池市)「字車地」(山鹿市)といった、古代の官道と想定される「車路(くるまじ)」にかかわる地
	名や伝承が残っている。遺構も数か所で確認されており、7世紀後半当時、官道があったとみられている。岡田名誉教授は、大宰府か
	ら延び、鞠智城周辺で東西に分かれるこの古代官道に着目し、「東西両方面から九州南部に向かう古代官道の中心にあった鞠智城は、
	九州南部統治の拠点だった」と指摘した。

	続日本紀(しょくにほんぎ)によると、薩摩(鹿児島県西部)、大隅(同東部)両国の成立はそれぞれ702、713年。7世紀後半、
	九州南部には隼人とよばれた人々が住んでおり、まだ大和朝廷の勢力外だった。

	佐藤信・東京大教授(日本古代史)は「白村江の戦いは当時の世界大戦。存亡の危機に直面した各国で、中央集権化の動きが加速した」
	と分析し、敗戦が国家統合を急速に進めるきっかけになったと説明した。その一翼を担ったとみられる鞠智城――。発掘調査で確認さ
	れた72棟の建物跡の機能・役割の解明など、今後の調査が期待されている。




大観望を抜けて今夜の宿へ向かう前に、河内さんが車をCHECKしている。オイルでも漏れとんのかな?













	例会終了後、掲示板その他で以下のベントがあるのを知った。ここでエラいイベントをやっていた。


	古代の烽火100キロつなぐ 大宰府〜鞠智城跡    2011年08月29日 熊本日々新聞

	
	鞠智城跡の八角形鼓楼をバックに空高く白煙を上げる烽火=山鹿市菊鹿町 
 
	 煙や炎を使った古代の通信手段「烽火[のろし]」の実験が28日、山鹿市と菊池市にまたがる古代山城・鞠智[きくち]城跡と
	福岡県の大宰府政庁跡を結んであり、約1時間かけて約100キロのリレーに成功した。これだけの遠距離を結んだ大規模な実験は
	全国でも例がないという。
	 両市に全国の約30自治体が集まって10月に開く「古代山城サミット」のプレイベントとして県などが開催。21日に予定して
	いたが、雨天のため延期となっていた。
	 烽火は「日本書紀」にも記述がある古代の通信ネットワーク。九州では、外敵の侵略に備え、大宰府や大野城(大野城市など)、
	基肄[きい]城(佐賀県基山町など)と鞠智城を結んでいたとされる。
	 対馬(長崎県)の防衛隊が唐と新羅[しらぎ]の侵攻船団を発見、大宰府に急を知らせる烽火が届いたという古代さながらの想定。
	午前10時15分、同政庁跡で最初の烽火が上がり、約2〜13キロ離れた12カ所の中継地で次々と烽火や合図の旗が確認されて
	いった。
	 同11時10分、鞠智城跡の八角形鼓楼(高さ16メートル)に上っていた見張り番が約12キロ離れた最後の中継地・米野山
	(山鹿市)からの煙を確認。鼓楼近くの烽火台に火が入れられ、竹やスギの葉を燃やした白煙が空高く立ち上って到着を知らせた。

	 各地の映像は鞠智城跡に中継され、約150人が見守った。古代の交通路に詳しい鶴嶋俊彦・人吉城歴史館長は「時速100キロ
	でリレーできたのは、烽火が遠距離の通信手段として有効だったことを示す。意義ある実験だった」と講評した。(富田一哉) 



	烽火100キロ57分で結ぶ…福岡・太宰府―鞠智城、4県が協力 (2011年8月29日  読売新聞) 

	
	中継地の烽火を確認して、鞠智城で上げられる最後の烽火

	 福岡県太宰府市の大宰府政庁跡から山鹿、菊池両市の歴史公園・鞠智(きくち)城までを烽火(のろし)でリレーする催しが28日行
	われ、約100キロを57分で結ぶのに成功した。
	 古代の通信手段を再現しようと、熊本県や山鹿市などでつくる実行委員会が企画、熊本、福岡、佐賀、長崎の4県14市町村が協
	力して実施した。
	 日本書紀などには、唐・新羅連合軍に白村江で敗れた大和朝廷が664年、対馬や壱岐、筑後国に防人(さきもり)と烽(とぶひ)を
	置き、侵攻に備えたことが記されている。
	 大宰府政庁跡で午前10時15分、長崎県対馬市・金田城での烽火映像を合図に火を起こし、大野城跡(福岡県大野城市)、基肄
	(きい)城跡(佐賀県基山町)、十連寺公園(福岡県久留米市)、米野山(山鹿市)などで次々に確認しては烽火を上げ、午前11時
	12分、14か所目の鞠智城に到達した。
	 古代道研究家の鶴嶋俊彦・人吉城歴史館長は「当時の軍事防衛システムや烽火の有効性が理解でき、煙を真上に上げる技術など当
	時の努力、大変さもうかがえた」などと話していた。


	ニュース 速いぞ「のろし」  =2011/08/29付 西日本新聞朝刊= 

	 熊本県で10月に開かれる「古代山城サミット」のプレイベントとして、サミット実行委は28日、大宰府政庁跡(福岡県太宰府
	市)と鞠智(きくち)城跡(熊本県菊池市、山鹿市)を古代の通信手段「のろし」で結んだ。
	 午前10時15分、大宰府政庁跡で竹やスギを燃やして「のろしリレー」がスタート。古代山城の大野城跡や基肄(きい)城跡な
	ど福岡、佐賀、熊本3県12カ所の経由地で、遠くに煙が見えた時点で順次点火していった。1時間後、約100キロ離れた鞠智城
	跡で確認できた。
	 昔はのろしで敵の侵入を知らせていたという。電話もインターネットもない時代、時速100キロの通信手段は「名前はのろしで
	もスピード“速し”」と担当者。

	
	以下は、又々「陪冢姉妹さん」が、上記のイベントに行って送ってくれた写真である。熊本から戻ってこのHPを制作中にわかった
	のだが、予想通り「陪冢姉妹さん」はこの近在にお住まいだった。日時さえ会えば、ここでお会いすることも出来たのだが残念だ。
	「陪冢姉妹さん」いつもありがとうございます。












邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 168回例会・歴史公園・鞠智城