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方保田東原遺跡・山鹿市出土文化財管理センター 歴史倶楽部 第168回例会 8月5日











	方保田東原遺跡  国指定史跡

	方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡は、菊池川とその支流の方保田川に挟まれた台地上に広がる、弥生時代後期から古墳時代前期
	(今から約1700〜1900年前)に繁栄した、東西1200m、南北350mに及ぶ中九州最大の集落遺跡である。発掘調査の結果、幅8
	mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡、土器や鉄器の製作工房と考えられる遺構が発見されている。また、全国で
	唯一の石包丁形鉄器や、特殊な祭器である巴形銅器など、数多くの青銅製品や鉄製品が出土しており、相当な規模を持った弥生遺跡で
	あると同時に、弥生時代における北九州の、或いは西日本一帯の古代史研究にとって、すこぶる大きな意味を持った遺跡である。

	山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども多数出土しており、西日本一帯の活発な交流が窺える事から、交易で
	繁栄していた可能性も高く、菊池川中流域の拠点的な集落であったと考えられる。
	昭和60年2月、熊本県を代表する重要な集落遺跡として国の史跡指定を受けた。現在は、一部を芝生公園として整備し、隣接して山
	鹿市出土文化財管理センターが建設され、方保田東原遺跡の出土品を展示、収蔵、管理している。しかしながら、現在までに発掘調査
	が行われた面積は全体の1割にも満たず、今後の発掘調査で遺跡の全貌が姿を現すのを期待したい。


	所在地		熊本県山鹿市方保田   
	アクセス	○車 国道3号から県道198号へ。日置交差点を西へ(県道301号)。交差点から約300m。
			○バス (山鹿産交から)産交バス
			@「日置経由交通センター行き乗車。停留所「方保田」で下車。停留所から東へ徒歩で約5分。
			A「来民バイパス経由交通センター行き」乗車。停留所「日置(へき)」で下車。停留所から西へ徒歩で約5分。
			(熊本市方面から)産交バス
			熊本交通センター2番のりばから産交バス「山鹿温泉行き」(新道経由除く)乗車。停留所「日置(へき)」で
			下車。停留所から西へ徒歩約5分。 










この辺り一帯に大環濠集落があった。これから発掘が進めば、一体何が出てくるのかしらんと期待させる。












	方保田東原遺跡	(文化遺産データベースHP)
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	方保田東原遺跡は、熊本県の北部、菊池川中流域の標高35mの台地上に所在する、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落跡
	である。昭和55年に起こった宅地造成計画に伴い、山鹿市教育委員会が確認調査を実施したところ、少なくとも東西330m、南北
	300mに及ぶ環濠集落跡であることが判明した。出土遺物としては、多数の土器のほか、鉄鏃・刀子・手鎌・鉄斧などの鉄製品、巴
	形銅器・銅鏃・小型?製鏡などの銅製品がある。弥生時代から古墳時代にかけての社会を知る上で重要であることから、史跡に指定し
	た。 





センターから見た遺跡(の一部)。






























	下の資料は、例会スケジュール計画中に西本さんが送ってくれたもの。これを見て「方保田東原遺跡」を見学地に加えた。ちなみに、
	その他の遺跡も現地へ電話して確かめたのだが、どこも「いまは埋め戻されて何もありません」との事だった。特に「西弥護免遺跡」
	は鉄器の出土量が飛び抜けているので、ここも何とかして見れないかと思ったが、教育委員会のオッサンは「あぁ、もう埋めてしま
	って何もありませんねぇ。えぇ、看板も何も立ててません。行っても上にはもういっぱい建ってるし、多分わからんでしょう。」と
	そっけなかった。






	この本の出典になっている愛媛大学教授村上恭通博士の「倭人と鉄の考古学」は、私の書架にも並んでいてむかし読んだはずなの
	だが、「方保田東原遺跡」など全く記憶になかった。西本さんに教えて貰わなければ見逃す所だった。西本さんに感謝。




    方保田東原遺跡は広さは35〜40haにおよび、遺跡は防御用の溝をめぐらしたいわゆる「環濠集落」で、吉野ヶ里遺跡に匹敵する
	規模である。幅8mの大溝や多数の溝が発見され、外敵から集落を守っていたと考えられ、住居跡からは足跡も見つかっている。また
	鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている。




	3世紀後半から4世紀初頭のいわゆる弥生時代後期において、熊本県北部は全国的にも鉄製品が数多く発見される地域として知られて
	いる。特に西弥護免遺跡、方保田東原遺跡は多量の鉄製品出土で知られるが、残念な事に西弥護免遺跡は現在埋め戻され、上には建物
	が密集しており、現在ではどこが遺跡かも判らない状態だという。一方、方保田東原遺跡の出土品は鉄器の占める割合が高く、全国で
	唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されている。通常石包丁は材料が入手しやすく、また製作しやすい粘板岩や片岩などの岩石でつく
	ることが一般的だが、ここではそれを鉄器で製作している。こんな例は全国の弥生遺跡にはない。また、巴形銅器をはじめとする数多
	くの青銅器も出土している。




	北九州地方が、全国でも一早く鉄器生産技術を入手した事は実証されている。福岡、熊本、大分地域でも鉄器生産は開始されているが、
	熊本県特に阿蘇地域は、北九州の大陸・半島文化との交流も深く、弥生終末期には列島最大の鉄器生産地域に成長していた。(村上教
	授『古代国家成立過程と鉄器生産』青木書店2007年)
	鉄器生産で言えば、倶楽部例会でも訪れた日本海地域各地、なかでも丹後半島を中心とした京都・兵庫北部は、北九州とは別のルート
	で鉄原料を入手し、弥生終末期には鉄刀の宝庫となっていた感がある。四国にも鉄器生産が見られ、徳島では北九州からの鉄器生産の
	伝達があったようである。
	しかし近畿地方には全くと言っていいほど鉄関連の遺跡がない。また弥生期全般を通じて鉄製品の出土は僅かである。北九州に比べる
	と、吉備地方、ヤマト周辺、東海地域の鍛冶遺跡は全く貧弱と言うしかない。三輪神社の出雲との伝承等を考えると、ヤマトには日本
	海ルートで鉄器が入った可能性は高いが、勿論、弥生後期・古墳時代初頭になると鉄器生産技術はこれらの地方にも伝播し、広島県三
	原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれた。
	そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかとい
	われるものもあるが、いずれも中国山地でこの技術も日本海ルートからの伝播の可能性がある。 




	前出、村上教授の『古代国家成立過程と鉄器生産』によれば、鍛冶炉技術をTからWまで4段階に分類し(Tが最もレベルの高い鍛冶
	遺跡)、阿蘇は鍛冶遺跡でTとUで、集落間で分業が行われていたとしている。熊本県域のT類に分類された鍛冶遺構の分布の遺跡は
	以下の通りである。

	1.下前原遺跡、2.諏訪原遺跡、3.方保田東原遺跡、4.小糸山遺跡 5.尻遺跡、6.二子塚遺跡、7.西弥護免遺跡、
	8.狩尾遺跡 

	他の鍛冶工房もU類として分布が説明されており、菊池川流域、白川流域、緑川流域にある遺跡となっている。






	福岡市天神にあるアクロス福岡で行われた『邪馬台国フェスタ in 九州』の中で、「邪馬台国・リレー講座」第1日目に、熊本県山鹿
	市教育委員会文化課審議員である中村幸史郎氏が『邪馬台国と狗奴国』と題して講演した。その論旨は、

	1.3〜4世紀に、方保田に一つの国が存在したことは間違いなさそうである。
	2.佐賀県の吉野ヶ里は、国営吉野ヶ里歴史公園として整備されているが、おそらく吉野ヶ里を遥かに凌ぐ遺跡がここには眠っているの
	  ではないか。
	3.邪馬台国はここである可能性が高い。

	気持ちはわかるが、一般的にはこの地域は狗奴国と想定されており、魏志倭人伝の記述に拠るかぎり、ここを邪馬台国と比定するには無
	理があるような気がする。しかし狗奴国をもっと南の熊本県南部・鹿児島県北部あたりにもっていき、不弥国から筑後川を下って有明海
	へ出、また菊池川を遡って方保田東原へ来るとすれば、「水行十日」の謎は解けるのかも知れない。そうなるとまた邪馬台国比定地が九
	州に一つ増えたことになる。菊池川流域では早くから水田耕作も行なわれたらしく、玉名市両迫間・龍王田の両迫間日渡遺跡で、弥生時
	代前期(約2300年前)の水田跡が確認されている。また出典は不明だが、菊池川流域からは、熱帯ジャポニカのプラントオパールが集中
	して出土しているという情報もある。

	2008年 2月 8日 県内最古の水田跡発見 玉名・両迫間日渡遺跡 弥生前期 西日本新聞

	玉名市教委は7日、同市玉名の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡から弥生時代前期(約2300年前)の水田跡が見つかったと
	発表した。市教委によると、県内で見つかった水田跡としては最古という。同遺跡は菊池川右岸の玉名平野中央部に位置し、水田跡は九
	州新幹線新玉名駅(仮称)建設予定地の南約100メートルの地点。新駅周辺整備に伴い、市教委が昨年4月から発掘調査をしていた。
	 市教委は深さ約2.3メートルの地点で木製のくい約170本が2つの列をつくっているのを確認。列の長さは約7メートルで間隔は
	約50センチ。列と列の間に土などを盛って水田に泥が進入するのを防ぐ畦(あぜ)にしていたという。周辺からは弥生時代前期の土器
	片も複数見つかった。今後は土壌分析を行って稲の花粉が含まれていないかなどを調べる。
	2005年には、ここから東約200メートルで弥生時代後期(約1800年前)の水田跡も見つかっている。市教委文化課は「県内で
	稲作がはじまったルーツを探る貴重な手掛かりになる」としている。

	邪馬台国であるかどうかの議論も加わって、かって狗奴国と呼ばれたこの地域が「稲作と鉄」を中心にして、邪馬台国に匹敵するほどの
	規模と文化度を保有していたことは実証されつつあるのである。まったく、日々「現れる邪馬台国」である。









	おそろしいほどの量である。ここが凄いのは、これが殆ど一つの遺跡から出た物だという事だ。これで発掘が10分の1以下だと言うか
	ら恐れ入る。全部掘ったら一体どういうことになるのだろうか。センター職員もとても今の規模では不可能だろう。

	大阪市・難波宮跡の発掘は、発掘終了からもう60年以上過ぎているが、あそこはバイトも含めて職員が常時20人くらいいるにもかか
	わらず、今だに出土品の整理は半分も終わっていない。何年か前に聞いたら「さぁ、まだ(整理が全部終わるのに)100年はかかるで
	しょうね。」と言っていた。難波宮が都だった期間は10年(前期・後期)前後だというのに。





弥生土器を手にとって触らせてくれる。驚くほど薄くて軽い。これなら早い時間で煮えそうだ。







これが注目を浴びた「家型土器」である。何に使ったのだろうか?











トロ箱にいっぱい詰まった未整理の土器片をみて、溜息をつく錦織さん。整理係になったら溜息も出そうだね。






	遺跡の意味合いについて説明してくれる学芸員の後藤さん(?だったと思う)。ここへ来る前、山鹿で博物館の佐伯さんから説明を受け
	た事を話すと、「あぁ、佐伯ッチね」と嬉しそうだった。
	「ここからは多量の鉄滓が出ており精錬滓の可能性がある」こと、また「西弥護免遺跡では多量の鉄器が出ており、同時期の九州では一
	番の濃密度である」ことなどを説明してくれる。邪馬台国だとは(さすがに)言って無かったが。



山鹿市出土文化財管理センターの案内に拠ると、住居跡120軒、埋葬施設21基、溝状遺構5本が確認されている。









8m大溝の発掘時の様子(上)と、そこから出土した土器類(下)。
















    方保田東原遺跡は山鹿市の東に位置し、そこからの出土品の多くは遺跡の中にある山鹿市出土文化財管理センターにある。一部山鹿市
	立博物館にも展示され、調査・研究が進められている。出土文化財管理センターでは、市民見学会や一日発掘調査隊などが実施され、
	活動の様子を広く一般に公開している。近くには菊池川が流れており、菊池川の動植物の観察ができる。また、周辺に点在する古墳群
	の情報をセンターで調べる事も出来る。









	方保田東原遺跡 弥生人に数の概念あった物証の土器文様	(毎日新聞)- 6月15日10時9分更新

	
    数を表す文様の入った弥生式土器の首の部分。中央に10個の刺突文が並ぶ

	熊本県山鹿市教委は14日、同市方保田(かとうだ)の方保田東原遺跡で出土した弥生式土器に、弥生人が数を認識していたことを
	うかがわせる文様が見つかったと発表した。土器に施された竹管文が5〜10個と順に並んでいることから、市教委は「数量を認識
	していたことが裏付けられる」と説明。弥生人に数の概念があったことを裏付ける資料は初めてだという。
	 この土器は、約1800年前の弥生時代後期後半の壷(つぼ)型のもので口径約15センチ、上部の約3分の1、高さ約15.6
	センチが現存する。土器の頚部(けいぶ)に、細い竹の筒を押しつけてできたとみられる直径約2.5ミリのドーナツ状のくぼみ
	(竹管文)が横に並んだ文様が見つかった。くぼみが5個あるのを最小に、時計回りに間隔を置いて6個、7個と、一つずつくぼみ
	の数を増やしながら最大10個のくぼみまで施されている。途中「8」の部分は、上から施された別の波状の模様にかき消され確認
	できない。
	 方保田東原遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期の大規模集落の跡。85年に国史跡に指定されている。03年の発掘調査で発見
	された遺物を整理していた山鹿市出土文化財管理センターの職員が、今年5月にこの文様に気付いたという。
	 土器を見た甲元真之・熊本大教授(考古学専攻)は「当時日本は中国と交易しており、数の概念を持っていてもおかしくないが、
	弥生人が数の概念を持っていたことを裏付ける資料はこれまで発表されておらず貴重だ。今後、類例が増えれば当時の人が抽象的な
	概念を持っていたことが証明できるのではないか」と話している。【伊藤奈々恵】




2011年12月9日 新聞記事


	熊本県玉名市で弥生期の大規模集落跡が発見された。ここは我が歴史倶楽部の郭公さんの生まれ故郷である。方保田東原遺跡は山鹿
	市だが、玉名地方も弥生時代に北九州で隆盛を誇った弥生ムラの一つだった。これからも弥生ムラは、この地方でどんどん発見され
	るのかも知れない。そうなると、魏志倭人伝に言う「倭国勢力図」もまた書き換えられる可能性が出てきた。


	
	弥生時代の環濠集落を発見 玉名市・塚原遺跡 2011年12月09日 熊本日々新聞

	
	弥生時代の環濠集落跡が発掘された塚原遺跡=玉名市岱明町 
 
	 玉名市教委文化課は8日、同市岱明町野口の塚原遺跡で、弥生時代中後期(1〜3世紀)の環濠[かんごう]集落跡と大型の竪穴
	建物跡などを発掘した、と発表した。古い海岸線のそばで、近くには装飾品の「貝輪[かいわ]」が出土した遺跡もあり、同課は
	「海上交易の中継拠点の集落」とみている。
	 出土したのは、住居・建物跡23カ所やV字形の溝(幅約5メートル、深さ約2・2メートル)、甕棺墓[かめかんぼ]4基など。
	溝は形状や位置から集落を守る機能を持ち、一帯が環濠集落だったことを物語る。
	 竪穴建物跡は直径11メートルの円形で、弥生中後期としては九州最大級。集会場などの利用が考えられるという。弥生遺跡の南
	側からは、古墳時代前中期(4〜5世紀)の集落跡や北部九州に多い石棺系石室を持つ円墳、南北朝時代(14世紀後半)の溝や建
	物跡なども見つかった。
	 調査は市道新設に伴い、昨年8月に開始。遺跡全体(9万平方メートル)のうち8千平方メートルを発掘した。塚原遺跡の本格調
	査は初めて。文化課は「周辺の遺跡調査も進め、集落規模や性格を明らかにしたい」と話している。
	 10日午前10時から午後4時まで、一般公開する。(山口達也) 



	塚原遺跡から環濠集落

	
	玉名市塚原遺跡で発掘された弥生中期では県内最大の円形の建物跡(熊本県玉名市教委提供) 

	 熊本県玉名市岱明町野口塚原の塚原遺跡で、弥生時代中期(1世紀)としては熊本県最大の建物跡や、菊池川下流域では初めての
	大規模環濠(かんごう)集落などを発掘したと市教育委員会が8日、発表した。10日午前10時、午後1時の2回、市民に公開して
	現地説明会を開く。
	 市道改良に伴い、昨年8月から、幅約30メートル、長さ約250メートルの範囲を発掘調査。北側から1〜3世紀の弥生時代の
	住居・建物跡23か所、断面がV字型の溝(幅約5メートル、深さ約2・2メートル)、かめ棺墓4基、土器多数が出土した。
	 建物跡は円形と方形で、円形の最大は直径約11メートル。九州で最大といわれる長崎県雲仙市の遺跡の12メートルに次ぐ大き
	さで、隣接して10メートル、9メートルの円形建物跡もあった。
	 これらの居住域とかめ棺墓群の間に溝が走っていることから環濠集落だったと見られる。
	 南側からは、4〜5世紀の古墳時代前、中期の住居跡13か所、円墳とみられる古墳5基、白玉(石製ビーズ)多数と鉄器、土器
	なども見つかった。古墳の埋葬施設は石棺系石室と呼ばれる構造で、菊池川流域では初めて確認されたという。
	 塚原遺跡全体の広さは約9万平方メートル。約800メートル離れて、昭和30年代に支石墓から南方産のゴホウラ貝製の貝輪が
	出土した「年の神遺跡」があり、当時は菊池川河口付近だったという立地条件から、市教委文化課は「菊池川上、中流域の環濠集落
	とは性格が異なり、年の神遺跡と一体となった海上交易の中継点だったと考えられる」としている。村田和夫)
	(2011年12月9日  読売新聞)



	玉名市の塚原遺跡 大規模環濠集落を確認	2011年12月9日 00:31

	<写真1>
	弥生時代中期の大規模な建物跡。円形部分が古く、手前の四角形の部分は後代のものとみられている
	<写真2>
	弥生時代の甕棺墓 

	 玉名市教育委員会は8日、同市岱明町野口の「塚原遺跡」で、弥生時代中・後期(1−3世紀ごろ)の大規模な環濠(かんごう)
	集落跡を確認したと発表した。菊池川下流域では初めての発見で、市教委は周囲の遺跡との関係から、九州西部の海上交易の中継拠
	点だったと推測している。集落内の直径約11メートルの大型建物跡は弥生中期のものとしては県内最大という。10日に一般公開
	される。
	 市南西部にある塚原遺跡付近は現在、農地や宅地が広がっているが、かつては海岸線に近かった。遺跡は約9万平方メートルと考
	えられ、今回は市道工事に合わせて、昨年8月から畑や竹林計約8千平方メートルを調べていた。
	 環濠集落は、周囲に溝をめぐらせた弥生時代の特徴的な集落(ムラ)の形態。外的の侵入を防ぐ機能などがあったと考えられてい
	る。
	 今回見つかった集落跡では、住居を含む建物跡23軒分や土器、石器などを確認。集落の境界とみられる幅約5メートル、深さ約
	2・2メートルの溝を挟んで、かめをひつぎにした甕棺墓(かめかんぼ)4基も見つかった。
	 住居跡は円形や四角形で、直径約11メートルの最大の円形は住居跡としては大きすぎ、集会場などの可能性がある。
	 塚原遺跡そばの北西側に位置する「年(とし)の神(かみ)遺跡」では、奄美諸島以南にしか生息しない貝のゴホウラを使った装
	身具「貝輪」が出土しており、この一帯が海上交易の中継点の集落だったと考えられるという。
	 調査区域の別の部分からは、古墳時代前期(4世紀)の集落跡と、同中期(5世紀)の古墳群を発見。住居跡(13軒)では、か
	めやつぼなど多くの土器が見つかった。
	 熊本大文学部の杉井健准教授(考古学)は「玉名平野で弥生時代の環濠集落の発見は初めて。古墳時代前期の土器も、玉名の古墳
	を造った人々が住んだ候補地という意味で興味深い」と話している。市教委は「調査部分以上に環濠集落が広がっているのは確実。
	調査範囲を広げたい」と話す。
	 一般公開は10日午前10時−午後4時。午前10時と午後1時に説明がある。市教委文化課=0968(57)4429。
	=2011/12/09付 西日本新聞朝刊=


	西日本新聞だけが、右クリックしても写真を保存できないような処置を施している。もともとの写真の提供は教育委員会などの公的
	機関なのに、新聞に載せれば著作権は新聞社にあるぞと主張しているようだ。全く「社会の木鐸」たるポジションを自らの手で放棄
	しているような行為である。昔、学術論文などは、何回引用されたかでその論文の価値が定まるような風潮があって、その引用の回
	数をカウントするような事までしていたが、新聞記事もほんとは同じハズなのだ。「何々新聞、何月何日の記事によると、・・・」
	と言う具合に引用されることでその新聞記事の価値も高まるのに、この行為は情けない処置と言わざるを得ない。一言で言えば、セ
	コイ新聞社である。



邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/ 168回例会・方保田東原遺跡・山鹿市出土文化財管理センター